2-3
駅を出て少し歩くと街灯の少ない住宅地へと入った。駅と違ってしんとしていて、それは彼と暮らしたあの街とどこか似ていた。
程なくして彼女が立ち止まり、腰あたりの門を開けて玄関へと進んだ。私は彼女の後をついていく。鍵を差し込んで扉が開かれるとすぅっと闇の中に暖色が差し込んだ。
「どうぞ入って」
私は何度も頭を下げながら中へ入った。匂いがした。彼女を纏っている匂いのもっと根底の匂い。それはこの家だけの匂いだ。靴を脱いでいるとドタドタと足音が近づいた。何事かと顔を上げると、そこに少女はいた。
「お姉さん!」
少女はその大きな瞳にいっぱいの涙を溜めて私をそう呼んだ。ほっとした顔。私を心配していた顔。そんな表情が私の瞳の奥に映される。
「こっちに来て」
少女が私の腕を引く。私よりもずっと小さな体で、私を引っ張るその引力はとても大きくて驚いた。
廊下を抜けて中に入ると温かい風がふわりと私を包み込んだ。
「きて、ストーブに当たって! あったかいから!」
少女が手本を見せるので私はその通りにストーブに手を翳した。漸くガタガタと身体が震えだして、同時に視界も朧気になった。
「お姉さん、どうしたの? どこか痛いの?」
少女の声がする。けれど私は少女の顔が見れなかった。
「お母さん、お姉さん泣いちゃった」
少女がそう言って初めて泣いていることに気付いた。彼以外のことで泣いたのは久しぶりだった。涙は寂しさや悲しさだけで出るものではないらしい。逃げられたと思われればいいと思った。それは本心だっただろうか。心配して探してもらえるのはなんて贅沢なものだろう。温かすぎて泣いてしまうこともあることを、私は初めて知った。
暫くして落ち着いた頃、少女は一足先に寝室へ消えていった。
「紅茶飲める?」
「はい」ワンテンポ遅れて返事をする。
彼女は机に紅茶を置くと、私と向い合せの椅子に座った。緊張の膜が張り付いている。昔から黙っていることは得意だった。けれどそうしてはいけないことは知っていた。
「すみませんでした」
辛うじて出た最初の言葉はそれだった。何に対しての、だろう。彼女はじっと私の次の言葉を待ってくれていた。
「えっと、」
何からいうのが正解なのか、最近使っていなかった脳が突然活性化して混乱しているようだった。
「私、嘘をつきました」
拳を握り締めた。じわじわと熱が籠っていく。もう寒くないのに身体は小刻みに震えた。
「私は、この街の者ではないです」
「仕事も今は退職していて無職です」
「昨日はビジネスホテルに泊まって」
「猫、探してたら迷子になって」
脈絡のない言葉をただひたすらに声に出した。目の前に人がいるのにまるで一人きりで話しているような感覚に陥って不安になった。
「探してくれて、ありがとう」
けれどそういって漸く、投げた言葉が返ってきた。
「小山さん、話してくれてありがとう」
重たかった顔を上げる。彼女は優しく微笑みを返してくれた。
「嘘ついてるかもとは思ってたけど、だからって何か企んでるとは思えなくてね。そうだ、だからね名前言ってなかったの、ごめんなさい」
そう言われるまで二人の名前を聞いてなかったのだと知る。佐々木さんと、それから少女の名前は咲ちゃんというらしい。佐々木さんはやはりきちんと母親であった。
「それでね、もしよかったら、なんで猫探すっていってくれたのか教えてほしい」
それは私も知りたいと思っていた。なぜそう思ったのか当の本人だって分からない。けれど黙るのは裏切りだ。
「私もわからないんです。猫が好きなわけでもないのに、咲ちゃんが泣いてるの見てたら、探すって言ってました。ごめんなさい、自分でもわからなくて」
「そうなんだ、変なの」
佐々木さんはふふっと静かに笑った。
「明日も、探してくれるの?」
「もちろんです」
「ありがとう。じゃあ明日二人で探しに行ってもらえる?」
「本当に私を頼っていいんですか?」
「うん。だってね、小山さんは優しさが隠せてない」
佐々木さんのその言葉の意味は理解できなかった。でも私を信用してくれるのなら全力で返したいと思った。
「今日は家に泊まって」
「いえ、そんな」
「こんな夜にここからビジネスホテルまで行けるの?」
そう言われ頭を振るしかなかった私は、佐々木さんの厚意に甘えて泊めさせてもらうことになった。佐々木さん手作りの夜ご飯をご馳走になって熱い湯につかった後、寝室に招かれた。中に入るとベッドが二つあった。
「ここでいい?」
私はそのうちの一つのベッドを勧められた。しかしそれはどうみても旦那さんのものだった。
「私なんか、ソファでいいんですよ」
「いいの、誰も使わないんだから」
そういうと彼女はベッドにもぐりこんで寝息を立て始めた。どうすることもない私は恐る恐るベッドに体を忍び込ませる。余計なことは考えないようにしよう。ぬくぬくの毛布が私を一瞬で夢に誘い込んだ。
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