「逃げるか、逃げないか」

 真剣しんけんな顔で語ったニコルの言葉に、レプラスィスはまたたいた。表情を作るのが苦手な馬でも、おどろきをかくすことができなかった。


「君はかしこい馬だ。さっき引き返したとうげもどってそのまま峠をえれば、ゴッデムガルドにたどり着ける。そこでだれかに見つけられれば、厩舎きゅうしゃに戻してもらえるだろう。あとはレプラー、新しい乗り手を探してもらうんだ。君のような馬が厩舎でつながれたままだというのは、宝のぐされだよ」


 一度瞬きをしたまま、鼻もふるわせず息を止めたようにレプラスィスはニコルの顔をのぞきみ続けている。わけがわからない、と震えもしないそのひとみが語っているようだった。


「レプラー……多分、ぼくはここで死ぬ」


 舌に乗る言葉の苦さにえながら、ニコルは言った。


「僕はここに残り、盗賊とうぞく団にふさがってその進行を一分一秒でも止めなければならない。そうしないと奥様おくさまやお嬢様じょうさま騎士きし団のみんなが深く傷つくんだ。僕はここからげるわけにはいかない。だけど、そんな僕に君が付き合う必要はないんだ。レプラー、帰ってくれ。君みたいないい馬を道連れになんかしたら、僕は死んだ後にも後悔こうかいを残す。だから……」


 がっ、とレプラスィスが口を開け、ニコルのうでみついた。いや、あごはさんだだけで力は入れていない。その痛みのない挟み込みに、ニコルは半歩も退きはしない。


 そんなことはいやだ、とレプラスィスの目がうったえていた。逃げるも残るも、ふたり一緒いっしょだとれた目が言っていた。

 ニコルにはその気持ちがわかる。馬はうそかない。それをニコルは知っている――。


「ありがとう、レプラー……最後に乗る馬が君だったことは、僕の勲章くんしょうだよ……でも、ダメなんだ。レプラー、わかってくれ……放せ、放すんだ!」


 自分の腕をニコルがもぎ取ってり戻す。


「ここでの君の役割はない! レプラー、君は邪魔じゃまなんだ! さっさと行け――さっさと帰るんだ!! 帰らないか!!」


 少年と馬がにらい、立ちくすその構図が続いたのは実際の時間とすれば、数十秒もなかっただろう。しかしそれは、両者には永遠の対立の時間だと思えた。


「――――」


 貴重な時間をけないニコルがレプラスィスに背を向け、橋桁はしげたの上で廃材はいざいなどをばらまいて障害物の構築にいそがしい人々の中にまぎれ込む。

 一分ほどしてニコルが後ろをくと、そこにレプラスィスの姿はなかった。


「あんちゃん、あの馬のこと、好きだったのかい」


 レンガなどの頑丈がんじょうな廃材を積み上げて作られた阻塞バリケードの上に立ち、木の棒を振り回して有能な現場監督かんとくのように振るっていたマデクがニコルに問いかける。ニコルは自らも重い廃材をかつげ、馬も人間も橋をけるには難しいようにそれを置いた。


「……どうしてそう思うんだい?」

「簡単だろそんなの。そんなに泣いてたら、そう思うしかないよ」

「…………」


 望陀ぼうだなみだに暮れるニコルは、無限にすような落涙らくるいに目の前が見えなくなるのを何度もそではらいながら、住民たちの中に混じって作業を行い続けた。


「あんちゃん……死ぬつもりなのか?」

「死にたくないけどね」

「だったらあんちゃんも逃げなよ。おいらたち、あんちゃんが逃げたっていうこと、ずっとだまっててやるよ。二百も来るんだろ、盗賊たち。勝てっこないよ」

「ありがとう。でも、そういうわけにはいかないんだ」

「どうしてさ……あんちゃんみたいないい騎士は、生きて立派な騎士にならないといけないよ……死んだらそれもできないじゃんか……」

大人おとなになればわかるよ」

「あんちゃんだってまだ大人じゃないだろ」

「大人になりかければわかる……。逃げればいい時もある。逃げるな、なんて僕は他人に言えない。でも、逃げたらダメになるとわかっていたら、逃げられないんだ。ここで逃げたら僕は逃げたことを後悔し、それを一生引きずって生きるだろう。そんなことを綺麗きれいに忘れてしまえるほど自分が器用じゃないっていうのは、わかりきってることなんだ……」

「……あんちゃん、真面目まじめなんだな」

馬鹿ばかだと思うだろう?」

「かっこいいと思うよ」


 ニコルは笑った。止まらない涙を流しながら、嗚咽おえつを殺しきれずに笑った。


「そんなあんちゃんにおくものだ。これ、多分使えると思うんだ」

「……贈り物?」


「中身はちゃんと減らしてあるかい?」

満杯まんぱいのものをちゃんとだるの中に分けて起きましたぜ、っちゃん。ひと樽にだいたい半分の半分ほど入ってる感じですわ」


 大人たちのこしまでの高さ、一抱ひとかかえはあるはずの樽を大きさの割りには軽そうに持ち上げ、阻塞そそくを越えさせて住民たちは運んでいく。


「そんな大きさの樽だったら、いんにしゃがんだ時に隠れることができてしまう。それを橋の上に置いておくのは……」

「いやあ、旦那だんなおれだったら間違まちがってもこいつの陰には隠れんですわ」


 十数個の樽を運ぶ男のうちのひとりがいたずら気なみを見せる。


「……何が入ってるんだい?」

「俺たちの大好物ですよ。俺たちはこいつがねえと生きていけないんですわ」

「ですが、覚悟かくごを決めてらっしゃる若く立派な騎士殿どの献上けんじょうさせていただきます。できたら、是非ぜひこいつを味わってほしかったんですがね」


 周囲の男たちがにやにやと笑いをかべながら応じる。中には樽にほおずりをして別れをしんでいる者さえいた。


 わからない、という顔をしてニコルは呆然ぼうぜんと手を止めてしまう。無論、ニコルに理解できるわけもなかったのだが。


「あんちゃん、これにはね――」


 大人たちと同じ顔になったマデクがニコルの耳に口を当て、ぼそぼそと言葉をき込む。それを受けたニコルの涙が止まり、驚き――というか苦笑いに表情が変わった。


「……そんなものが?」

「すごいだろ。きっと盗賊たちもびっくらこいてクソらしちゃうよ。まあ、クソ漏らしてる場合じゃなくなるんだけどさ――その樽は橋に沿って並べとけよー! 適当な間隔かんかくを置くんだ! あ、樽の細せんを抜いて置くのを忘れんなよ! 抜いて置かないと意味がなくなるかも知れないからなー!」


 マデクの声に大人だらけの住民たちはへい、と声をそろえて返す。そんな光景が、ニコルの心にさわやかな風をもたらせた。暗くなっている気持ちに、いくらかの希望が生まれてくる感覚にいつしか、ニコルの頬に小さな微笑ほほえみが浮いていた。


「……言うほど絶望的じゃないかも知れないな…………」


 涙が流れた頬を手でいてかわかすと、すすが少年の顔をよごす。それに気づかないニコルは、腰の帯革ベルトはさんでいたつつを取り出し、その筒を橋の欄干らんかんの陰に隠すように置いて、ふたに糸をからめた。



   ◇   ◇   ◇



 ニコルがこの鉄橋のたもと、集落に引き返してから十五分足らずだったろうか。


「――た!」


 深い峡谷きょうこくけられた大鉄橋の向こう側に馬蹄ばていとどろきがひびき、空の一角を汚すほどの砂けむりが上がっていることに住民のひとりが気づき、小さく低いがしっかりと通る声を上げた。


「下がれ、下がれ下がれ!」

「落ち着けよー! 自分たちで仕掛しかけたものに引っかかったりするなー!」


 マデクの声に従い、住民たちが足音を立てない動きで橋の上から手前側に退避たいひしていく。その統率とうそつされた動きと、少年ながらに住民たちを統率しているマデクの器量にニコルは感心するだけだった。かれ彼等かれらでなければ、ここまですみやかな構築は望めなかっただろう。


「マデク、ありがとう。助かった……キミのことは忘れないよ」


 最後の住民が橋から退避したのを確認かくにんして初めて、阻塞バリケードの上から下りたマデクにニコルは頭を下げて言ってみせた。


「馬鹿いうなよ。ちゃんと生き残ってくれよ。そのためにおいらたちも手を貸したんだ」

「わかった。なるべく生き残る」

たのむぜ、あんちゃん」


 集落に戻らず、彼等が用意しているらしい隠れ所に向かってはなれていく住民たちの列を見送り、ニコルはカルレッツが投げ捨てていったのを拾ったものである双眼鏡そうがんきょうを手にして接眼レンズに目を当て、阻塞そそくの上に顎を乗せるようにして対岸をのぞいた。


「……来たか……」


 ――見覚えのある盗賊団が、対岸の橋のたもとにまでその姿を見せていた。

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