「少年騎士の、誓い」

「血の……におい?」


 小さくおどろいている表情を見せているサフィーナのつぶやきに、ニコルは全身の血の温度が下がっていく感触かんしょくを覚えながら、記憶きおくをまさぐった。


 本当に自分の体に血がついているのか? それがあるとすれば、バイトンをった時の返り血――いや、あの刹那せつな一閃いっせんは、返り血を浴びるいとまもないほどの、一瞬いっしゅんにも満たない時間での接触せっしょくだった。血を浴びたという自覚もないし、服に付着もしていないはずだ。


 確かに、血のにおいが自分についている感覚はあった。だが、それはバイトンを斬ってしまったという罪の意識が自分に覚えさせている錯覚さっかくだと思っていた。

 しかし、サフィーナが実際にそれをってしまっているということは。


 しばしの時間、雨雲が月の明かりをさえぎっていた林の中、二人が立っている場がわずかに明るくなっていく。夜空をあおぐと、幕が引きずられるようにして天をふさいでいた雨雲がはらわれていっていた。


「ニコル! ひざに……!」

「えっ!?」


 サフィーナのねたさけびに、ニコルは目の前の少女の膝に目を向ける――ドレスのスカートの膝の辺りが、うっすらとあかく血によごれているのが目についた。

 何故なぜ、サフィーナの膝が血に汚れているのか、直感がニコルに視線を移させる。


「あ…………!」


 直感は、当たった。

 ニコルの右膝みぎひざが、血にれている――サフィーナがニコルにきついた時にその膝がスカートにれ、血がついたのだという予測が脳裏のうりを走った。


 ぎわのバイトンの元にった時、かれが橋の上に流した血に膝をつけたことで汚したものだ。


「こ……これは…………」


 額を蒼白そうはくにさせたニコルはうめき、後ずさる。膝小僧ひざこぞうが、広げた手をかぶせてもかくせないほどの範囲はんいで汚れているのは、何故指摘してきされるまで気づかなかったのかという広さだった。


「……ニコル、これはどういうことなのですか?」


 えられた目でサフィーナがニコルを見つめる。言い訳も欺瞞ぎまんゆるさないという意志が、エメラルドグリーンのひとみおくかがやきを保っていた。


 深夜。人気のない駐屯地ちゅうとんちの外れ。ひそむように進んでいた林の中。引いているバイトンの馬――そして、明らかに普通ふつう状況じょうきょうでついたものとは思えないという、血。

 その事実の断片だんぺんが一気につなぎ合わされたのか、サフィーナの顔におびえが走った。


 それは、ニコルが初めて見せられるサフィーナの表情だった。


「――ニコル、あなたはまさか、バイトン騎士きしを…………」

「サフィーナ様、そこから先は、仰らないでください!」


 大声を出しかけ、ニコルは自分の声量をしぼった。周囲に人気が絶えているとはいえ、サフィーナのほかだれもいないとは言い切ることができなかった。


「……どうかお願いします。そこから先は、どうか……」

「なら、納得なっとくのいく説明をしてください! これは尋常じんじょうではありません! こんな場に出くわせば、誰もが不吉ふきつなことを考えても当然です! 仮にもわたしは、この騎士団を預かるエヴァンス・ヴィン・ゴーダムのむすめですよ! 騎士たるあなたはその私に対し、隠しごとをするつもりなのですか!?」

「っ、ぐ…………!」


 サフィーナの激しいめを受け、まだ数十分もっていない橋の上での体験が、ニコルの心によみがえった。


 バイトンを斬らねばならなかった自分、自分に斬られねばならなかったバイトン。

 トドメを差したのはゴーダム公の拳銃けんじゅうとはいえ、実質的に彼の命をうばったのは自分なのだ。その罪の意識がこの短時間で消化できるはずはなく、今も胃の底になまりとして残る。


 もしも、そのすべてをここでぶちまけることができれば、どれだけ楽になれただろう。

 事情があってやむなくやったのだと大声で叫べれば、全てのつかえはんだろう。

 ――だが。


「します!」


 せまる重圧を払いけるようにして、ニコルは、言い切った。言い切らなければならなかった。


「それが、ある方とのちかいを守るためならば、ぼくはサフィーナ様、あなたに対しても隠し事をいたします……しなければなりません! これは、ある方の名誉めいよを守るため、どうしてもしなければならないことなのです……!」

「ニコル…………!?」


 一度後退あとずさった少年が、逆襲ぎゃくしゅうに転じるように視線を上げる。それだけはゆずれないという思いを前に見せて、自分の中の感情に苦しむようにその眉根まゆねを寄せていた。


「サフィーナ様、自分をお信じになれないとならば、それまでです。サフィーナ様に対してお話しできない秘密を僕は抱えています。この血が誰のものであるかも、僕は打ち明けることができません。――ですが、サフィーナ様、僕はこれだけは確かに言い切れます。僕は、騎士の道に外れていることは、一切いっさいいたしておりません。僕の、ニコル・アーダディスの命と、たましいと、名にけて、それはお誓い申し上げることができます!」

「…………」


 それだけは、わずかなりとも目をらさずにニコルは言った。


「……僕は、ある方との誓いをもってして、それを口外するわけにはいかないのです……。自分がやったことを正直に告白できればどれだけ楽かとも思います。しかし、できないのです……サフィーナ様にそれを語ることのできない後ろめたさにさいなまれながらも、なお……! どうか、どうかおわかりください……お願いいたします……!」

「……ニコル、あなたは……」


 あらゆるいたたまれなさをみしめて、ニコルがこしを折るようにして最敬礼した。

 彫像ちょうぞうのように姿勢をるがせもしない少年を見つめるサフィーナは、しばしの間、だまる。

 呼吸を止めながら少年のかみの色を見つめ――そして、息をひとつ吸ってから、言った。


「……わかりました」


 ニコルのかたがわずかに、ふるえた。


「あなたが私に隠し事をしているのは、確か……しかし、あなたが私にうそを言っているとは思いません。あなたは自分にできる限り、私に対して誠実であろうとしている……顔をお上げなさい。その姿勢はつらいでしょう」

「――サフィーナ様…………」


 言われながらも、ニコルは頭を上げられなかった。


「私は、あなたが無法なことをする人間とは思いません。きっとその不可解なことにも、事情があるはず。その事情を誰かのために明かせないというのなら、私は理解します。この数日、父の様子がおかしいのも、あなたが苦しんでいるのもきっと一本の線で結ばれているのでしょうが、私はもう、これ以上詮索せんさくはいたしません。……私は、あなたがき人だと信じています……さあ、私の目を見てください」


 サフィーナがニコルの肩に手をえ、恐縮きょうしゅくしきっている少年の体を起こした。


「このスカートの血は、どこかで落とさねばなりませんね」

「は、はい…………」


 やさしい声にうながされ、ニコルがようやく仰ぎたサフィーナは、いつものどこか面白おもしろがるような微笑ほほえみを見せていた。


うすく付いているだけですから、水でこすり落とせば落ちるとは思います。転んで膝をどろで汚したから、適当に洗い落としたと言っておけばいいですし……ニコル、これを洗える場所を教えてください」

「そ、それなら、厩舎きゅうしゃで落としましょう。あそこでなら水がめます。この馬も連れていかねばなりません。サフィーナ様、ご案内いたします」

「はい。――ニコル」

「……サフィーナ様?」


 歩き出そうとしたニコルが、動かないサフィーナにかえった。


「あなたは大変つかれているようです。そんな時にわずらわしてしまって、申し訳ありません」

「いえ…………」

「ゴーダムの家のために、父のために、騎士団のために、あなたがどれだけその身と心をすりつぶすようにしてがんばっているかは、わかっているつもりです……わかっているつもりなのに、私は声をあらげてしまって……ずかしい……」

「お気になさらずに、サフィーナ様。さあ、早く参りましょう。他の人間に見つかっては面倒めんどうなことになります」

「私に見つかってしまったから、もう面倒なことになっていますものね」

「サフィーナ様……!」

「ふふ、ゴメンなさい」


 困った顔をしているニコルにサフィーナは微笑んだ。この少年を困らせることに、自分は快感のようなものを覚えているのだ――そんなことに少女が気づくまでには、まだいくらかの時間が必要だった。

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