「贖罪のかたち」

 駐屯地ちゅうとんちの外れの辺りは林におおわれている。照明のように明るくかがやいている月の存在がかくれがちになり、うっすらと木々の輪郭りんかくだけが視認しにんできる暗がりの中をニコルは、夜の海中を泳ぐような気持ちの中でニコルは足早に移動していた。


 バイトンがのこした馬、その手綱たづなを引き、地面にめぐらされる木の根につまずかないように歩く――人気ひとけなどあり得ない時間であるとわかっていても、ニコルは緊張きんちょうゆるめることはできなかった。


 バイトンをった時の感触かんしょくが、まだ手に残っている。十分の一秒にも満たないやいばでの接触せっしょくだったはずだが、粘性ねんせいの高いどろの中に手をんだのに似た感じが手にまとわりついていた――ついたはずのない血のにおいが手からする錯覚さっかくまである。


「……もし、あの時、バイトン正騎士せいきしけんいていたら、橋の上で転がったのはぼくの方だった……確実に……」


 自分は生と死の狭間はざまをくぐり抜けたのだ。感情に任せて前に突っぱしった結果、バイトンの思惑しわくがああでなければ、今頃いまごろこしの辺りで体が横薙よこなぎにち斬られ、上半身と下半身が綺麗きれいに別れていたことだろう。そう思い起こすと、今頃あせが全身をらしてくる。


「でも、退くこともできなかった……閣下の要請ようせいこたえてあの橋に出向いた時点で、そうだったんだ。――君のあるじには、申し訳ないことをしたね…………」


 手綱たづなを軽く引くだけで従順に着いてきてくれる馬に、ニコルは語りかけた。乗り手を殺したかたきが自分なのだという認識にんしきが心を重くしてくれて、ニコルはその場に足を止め、馬の目の前に立って長い顔を見つめる。


 思えばゴッデムガルドに着いたその直後、バイトンはこの馬に乗ってニコルと対面した。あの時はまさか、この騎士が自分の直属の上官になるとは思っていなかった――たった、三週間ほど前のできごとだ。


「……君も、バイトン正騎士が好きだったんだ……僕には馬が思ってることは、よくわかる気がするんだ。――気がするだけかも知れないけれど」


 そう語りかけてくるニコルの顔を見て、馬は口の中で小さく音を鳴らした。ニコルへの敵意はなく、ただ、黒く大きくつぶらな目が、悲しそうな色をまとっているのがうすい月明かりに反射されて見て取れた。


「――僕をゆるせないというのなら、ここで君にり殺されてもいいよ。僕は抵抗ていこうしない」


 自分の口から飛び出たそんな言葉に、ニコル自身もおどろいた。だが、言ってしまってからそれは自分自身の心からにじた言葉であるということもわかった。


 バイトンが遺した馬が見つめてくる目、その視線にさらされることがえられなくなって、ニコルのあごが下がり、うつむく。自分の罪の意識の重さに、足元が泥沼どろぬまに変わってこの身と心がしずんでいってしまう感覚すらある。


「騎士にとって馬が戦友であるのと同時に、馬にとって騎士は戦友なんだ……僕は君の戦友を殺してしまった……。僕のこの罪は、どうやったら許されるのだろうか、君は教えてくれないか…………」


 ――死。

 この一週間だけで、どれだけの死の情報を浴びてきただろうか。

 それを受け止められない心がふくらんだ風船より薄くなり、破裂はれつしかけているのがわかる。


 側にゴーダム公がいれば、『考えるな』と言ってくれただろう。

 だが、今はそんな公爵こうしゃくも、側にいない――。


「わっ」


 べろん、と長い舌でほおめられた感触に、馬の目を見ていなかったニコルはあわてた。続いて馬はニコルの頬に鼻を当ててきてくすぐるようにこすりつけてくる。大きな呼吸が風を呼ぶ感触に、ニコルは目を丸くした。


「……君は、僕をなぐさめようとしてくれているのかい……?」


 ぶるる、と息がふるえる音がする。表情を持たない馬が、しかしそのひとみの色だけで感情を伝えようとして見つめてくることに、ニコルは――微笑ほほえんだ。


「……ありがとう。さすがバイトン正騎士が選んだ馬だ。かしこくてやさしいね……事情をわかってくれているのか…………」


 ニコルの体を軽く退けるように、馬が歩き出す。それが、自分たちは前に進まなければならないのだと言われたような気がして、ニコルは胸が熱くなるのを覚えた。


「……そうだ。立ち止まってられない。まだ、やらないといけないことが色々あるんだ。騎士団にひそんでいる盗賊とうぞく連絡れんらく役をつかまえないといけない。盗賊団だって壊滅かいめつしちゃいない……もっと強くならないと……」

「――だれ?」


 馬が歩く先――木々のかげから突然とつぜん発せられた第三者の声に、少年のかたが心と共にねた。


「そこに、誰かいるのですか?」

「…………サ…………!」


 ニコルの暖められたはずの心が、さっという音を立てて冷えた。

 いるはずのない人物――少女が、とぼしい月明かりを受けて、そこにいたからだ。


「サフィーナ様…………!!」



   ◇   ◇   ◇



 青白い月明かりを受けて、白い大理石でしつらえられた『騎士のひつぎ』が輝いていた。

 ゴーダム公爵騎士団の長い歴史の中、騎士団に在籍ざいせきした騎士たちの遺灰を納めた、棺の形をした石の箱。地下には巨大きょだい石室せきしつが作られ、死んだ騎士たちは死後もねむりを共にする。


 その『騎士の棺』の前、火傷するに近い痛みがあるほどに冷たい大理石の上で、ゴーダム公爵その人が正座をし、騎士たちのたましいに対して正対していた。


 あかりの類は一切いっさい、ない。こんな時間にこんな場所をおとずれる者がいるとも思えなかったが、公爵自身がこの場所に今いることを知られれば騎士団の崩壊ほうかいもつながりかねない。

 明日あしたの夜明けには、バイトン・クラシェル正騎士の遺体が発見される。


 深夜に起こった殺人事件の被害者ひがいしゃとしてだ。そして、この『騎士の棺』はその殺人現場からさほど遠くない。今、この場所にいる人物を目撃もくげきした人間は、明日発覚する殺人事件とこの目撃の件を必ず一本の糸で結びつけるだろう。


 ――それがわかっていながら、ゴーダム公はここにた。来なければならなかった。


「ゴーダム公爵騎士団の先達せんだつたる、偉大いだいな騎士の魂の皆様方みなさまがたつつしんで言上ごんじょうつかまつる」


 大理石の地面に手をつき、ゴーダム公は深々と平伏ひれふした。地面に額を着ける価値のある相手を前にしていた。


「間もなく、この『騎士の棺』に新たな魂、悲運にも命を落とした騎士、バイトン・クラシェルの魂を納めさせていただく。皆々様みなみなさまもご存じの通り、バイトン・クラシェルは騎士団に対し、大罪をおかした者である。しかし、わたしはその罪をかれの死をもって赦し、彼に安らかな眠りの場をあたえたいと存ずる。彼の罪は、この私、騎士団長たるエヴァンス・ヴィン・ゴーダムの未熟さに起因している。彼を責められたもうな。寛大かんだいなる心、格別の慈悲じひを以て、バイトン・クラシェルの魂にこの場を与えられんことを、切に、切にお願い申し上げる」


 額を地に着けたまま、ゴーダム公はうったえた。訴えるしかなかった。


「もしも彼、バイトン・クラシェルにばつを与える必要あるとおおせられるのであれば、その罰はに下されたることを、彼に居場所を与えられないと仰せられるのであれば、我の座を彼にゆずることを認められんことを。――彼の罪は、すべて我が罪なり。このおろかな我が身と魂とえに彼、バイトン・クラシェルに安らぎを、安寧あんねいの場を与えたまえ……」


 明日、バイトン・クラシェルの遺体は火葬かそうにされ、遺灰がこの『棺』に納められる。

 その前に挨拶あいさつを、『棺』に眠る騎士たちに筋を通さなければならないという一心で、ゴーダム公は身が切れるような石の冷たさの上で願い出ていた。


「……先達たちよ、応え給え。そのあわれみを以て、彼の魂を救い給え。我の望みはそれのみなり。どうか、どうか…………」


 永遠の眠りにくバイトンの魂にせめて安らぎを与えたい、騎士の魂たちが眠る場にそれを設けたいといういのりの熱は、きることがない。それはゴーダム公爵の贖罪しょくざいそのものだった。


「騎士たちよ、騎士たちの魂よ、その意を我に示し給え。どうか、どうか、どうか……」


 そんなものが奇跡きせきのように示されるはずもない――そう頭の中でわかってはいても、それをたりにしたいという渇望かつぼうがゴーダム公をうごかす。

 が、やはり当たり前のように、何も起こることはなかった。


「…………ダメか…………」


 わかりきっていた結果を前にして、ゴーダム公がゆっくりと身を起こす。あきらめの色がその額に張り付いて、彼から威厳いげんの全部をがし落としていた。


「バイトン……私にできることは、これくらいなのだ。どうか私を赦し…………うん?」


 夜空にすぅ、と幕が下りるような気配がする。月明かりが明度を弱め、地上に差させていたかげ濃度のうどを薄くする。ゴーダム公は思わず月を見上げ、そこに見ていた。


「ああ…………?」


 晴れていたはずの夜空に、薄く――うっすらとだが、黒い雲が覆わんとしているのを。

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