「魂の行方」

 バイトンの遺書――告白状の全文をニコルがすべて読み上げるには、ぬぐっても拭っても、到底とうてい拭いきれないほどのなみだが必要だった。


「ゴ……ゴーダム公爵こうしゃく領に、は、繁栄はんえい、あらんことを……。

 ゴーダム、公爵騎士きし団に、え…………栄光、あらんことを…………」


 声がまり、嗚咽おえつのどふさごうとするのを必死にこらえながらその全ての文章を言葉としてわかる音にしようとするが、最後の二つの文だけは、無理だった。


「――ニコル、その部分、よく聞き取れなかった。……もう一度、たのむ」

「は、はい…………」


 ゴーダム公はいつしか、ニコルに背を向けている。かたわらでほのおを上げ続ける篝火かがりびの明かりが、ゴーダム公の背中を赤く染め続けていた。


「ゴーダム公爵領に、繁栄あらんことを……。

 ゴーダム公爵騎士団に、栄光あらんことを…………!」

「繁栄あらんことを…………栄光あらんことを…………」

「バ……バイトン・クラシェルより…………い…………以上です…………!!」


 ニコルは便箋びんせんを持っている手を反射的に横に広げ、無言でゴーダム公に手渡てわたした直後に、両のひざくずして地面に落とした。いや、膝で体を支えていられなかった。


「……何故なぜです!! 閣下、教えてください……! 何故、何故、こんなバイトン正騎士のような、素晴すばらしい騎士が死ななければならないんですか!!」

「ニコル…………」


 上体の重さをこしも支えられず、嗚咽をらしながらニコルはさらに両手を地に着ける。両目からあふれる涙は目の前の地面をらし、土にくぼみをつける勢いで落ち続けた。


「閣下には以前、お話したと思います……ぼくが、生まれる前に父をくしていることを……。バイトン正騎士も似たような境遇きょうぐうで、似たような経緯けいいをたどって騎士になり、文武にすぐれた立派な正騎士となられたのに、こんな最期さいごむかえることになるなんて! しかも、僕自身の手でることになるなんて、あんまりです…………!!」

「…………ニコル、勘違かんちがいするな。お前はバイトンの望みをかなえてやったのだぞ」


 全身を激しくふるわせて慟哭どうこくする背中のニコルに、ゴーダム公の冷静な言葉が降った。


「バイトンにとって、お前は希望だ。自分のたましいがせようと思った少年だ。そのお前がつぶれてどうする。……バイトンを天の国でなげかせる気か? お前はバイトンのために、これからも強く生きねばならないのだぞ……お前自身が、言ったことだろうが。バイトン正騎士にめられるような騎士になると…………」

「閣下…………」

「ニコル、バイトンの告白状を燃やしてしまうぞ。――心に、刻みつけたか」

「は…………はい…………!」


 冷静なゴーダム公の言葉をニコルは背中で受け続ける。全身の血が熱くめぐり、神経を激しくたかぶらせ続けている。その熱さを涙と声とで放出しないと、自分が内部からの熱でけ落ちそうなほどだった。


「僕は、もうその手紙の内容を心に刻印しました。一字一句に至るまで、死ぬまで、いいえ、死んでも忘れません。バイトン正騎士の魂の形として、死ぬ間際まぎわにだって暗唱してみせます…………!」

「……よく言った……」


 あとはしばらく、篝火の炎がはじける音、風が嘆く音、ニコルがすすり泣く音だけがひびく。

 それが何時間ほど経過したのかわからなく


「さあ、立て、ニコル。立つんだ……さっさと、立て!」


 かえりもしないゴーダム公は、まるで背中に目があるようだった。


「天に帰る正騎士の魂を、そんな格好で見送る気か? 偉大いだいな正騎士に、敬意を示せ!」

「はい…………!」


 歯を食いしばり、このいきどおりを炎としてしたい衝動しょうどうられながらニコルは立ち上がった。止まらない涙が目とほおを洗い続ける中で、篝火を前にしているゴーダム公が何度も何度も手紙を読み返し、読み返した後にそれを篝火の中に放った。


「――さらばだ、バイトン」


 火が上げる気流に手紙が篝火からげるようにらいだが、次にけた風が、燃えさかる炎の中に手紙をんだ。


同胞どうほう、我が兄弟。お前の魂はわたしの魂と、私たちの魂と共にある……安らかにねむれ」

「……う……うう、う…………!」


 篝火の中で、手紙が一瞬いっしゅんおどるように小さくがり――一瞬にして黒くげ、燃え上がって、灰になった。

 その様を、ゴーダム公とニコルは敬礼で見送る。一分間、二人ふたりとも微動びどうだにしなかった。


「バ……バイトン、正騎士…………」

「ニコル。騎士が涙を見せるな。前にもそう言われたことがあるだろう」


 炎の赤さを見つめ続けているゴーダム公の背中が、淡々たんたんとニコルに語りかけている。


「バイトンのかたきは、私たちがつ。必ずな。そのために私たちは死ねんのだ。泣いていては前が見えんぞ。お前は、前を見ずに敵と戦えるのか?」

「か……閣下…………」


 もう、どれだけの涙がみ込んだかわからないそででニコルはまた涙を拭いた。


「……言うまでもないがだろうが、ニコル、わかっているな……このことは、だれにも漏らせん……バイトンの名誉めいよを守るために、今夜ここで起こったことは、日記に一文たりとも残すことも許されんぞ」


 揺らがずに語るゴーダム公の背中を、ニコルは見た。


「ニコル、ここでちかってくれ。バイトンの名誉を、死ぬまで守り続けると。私に誓ってくれ。――頼む……」

「…………誓います」


 重いあごが自分の顔をうな垂れさせようとするのにあらがって、ニコルは、前を向いた。涙をはらった眼差まなざしでマントをかぶせられたバイトンの遺体を見つめ、バイトンの魂を天に放った篝火の炎を見つめ、死者がのぼっていった夜の天空を見つめた。


「僕は誓います。バイトン・クラシェル正騎士の名誉を守ると。一生をけてまもくと。ニコル・アーダディスの体と、魂と、名において誓います。……バイトン正騎士、ご安心ください。あなたの遺志は、魂は、僕の胸にもあります……。さようなら、僕の初めての上官殿どの。安らかにお眠りください……」


 天に向けた眼差しを下げ、ニコルは目をつぶ黙祷もくとうささげ、ゴーダム公もそれにならった。不運の中にたおれた騎士の魂が救われることを、切に、切にいのらずにはいられなかった。


「――ニコル、お前は早くここからはなれるのだ」


 冷たい夜の風が頬をでていったことをきっかけにして、ふたりは祈りの時間を終えた。


「……バイトンは橋の上でぞくに討たれたことにする。そのための工作をしなければならん。お前は誰にも見られないように宿舎に帰り、何も知らなかったように振る舞え」

「閣下、その、工作とは……」

「それは私に任せろ。さあ、早く行け。――橋の上にお前のけんが落ちているぞ。拾うのを忘れるな……対岸に行った馬も回収しろ!」

「はい…………!」


 公爵の声を受けてニコルは一礼をし、橋に駆けって自分の剣を拾い、橋をわたった先でくしていた馬の手つなを引いて駆けもどり、その勢いのままにやみの中に姿を消した。


 ゴーダム公の側で炎の粉を上げて篝火が燃え続ける。風が鳴る悲しい音を十回数えてから、ゴーダム公は声を上げた。


「――――ダリャン、いるか」

「へっ」


 林のおくから闇から染み出すようにひとりの気配がき、小者のダリャンが姿を見せた。背を丸めた格好でのそのそと歩き、ゴーダム公の後ろにぴたりとつく。


「打ち合わせ通りに取り計らってくれ。――具体的に、どうする気だ」

「ご遺体をしばらくかくします。この近くの大木に人ひとりが入れる大きなうろ・・があります。そこにご遺体を入れてふたをし、夜明け前になればあっしがご遺体を橋の上に運びます……野犬にご遺体を食わせるわけには、いきません」

「私は、騎士たちの長距離走ちょうきょりそう訓練に付き合い、その途中とちゅうでこの遺体を発見することにする……頃合ころあいを間違まちがえないように、頼むぞ」

「へっ。あっしは夜明け前までここにとどまりますゆえ

「そうか。不寝ねずの番になるか……苦労をかけるな」

「閣下のためなら、これくらいはなんでもないことでさぁ。――しかし、エヴァンスよ」


 ダリャンの背が、すっとびた。


「ニコルに涙を見せるな、とかえらそうなことを言っていたがよ、お前、他人ひとのことが言えんのかね?」

「……だから、私はニコルに涙を見せていない。ずっと背中を向けていたからな……」


 頬をたきのように流れる炎の赤さに涙をかがやかせて、ゴーダム公は言った。もうずっと流れ続けていた涙は顎をしたたって胸に落ち、服をしばらくはかわかないほどに濡らしていた。


「……ダリャン、いや、兄ぃ。教えてくれ……何故、バイトンのような素晴らしい騎士が死なねばならんのだ………!!」

「…………」


 全てを闇の中から見、聞いていたダリャンは、答えられなかった。答えられない自分をじるように、その目を弟分の背中かららした。


「バイトンは、私だ。私自身だ。母を愛し、母を守るために懸命けんめいに働いた。私と同じだ……。そして母を守ろうとしてほろんだ……!」


 その痛切な叫びを耳で受けるダリャンは、眉間を震わせ唇を血が出るほどに噛んで、耐えた。


「私も、バイトンと同じ立場に立たされていれば、必ず同じことをしただろう……! 何故だ! 何故私が、私自身が斬られるところを見ねばならんのだ…………!!」

「エヴァンス…………」

「ぐ、うう、うう、ううう…………!!」


 微動だにしなかったはずのゴーダム公の――いや、エヴァンスの体がぐらりと揺れて、その片膝かたひざが落ちるように地に着く。すぐにもう片方も落ち、エヴァンスは先ほどまでニコルがしていたのと同じ姿勢で、泣いた。大粒おおつぶの涙を流して泣いた。


 エヴァンスの号泣ごうきゅうむのを待つしかないダリャンも瞑目めいもくし、時が過ぎるのを待つ。

 母を同じくし、しかし血のつながらないこのふたりの兄弟は、運命の残酷ざんこく相似性そうじせいに心をたれ、その衝撃しょうげきもだえ、悲しみを自分たちの手段で表現しようとしていた。


「――エヴァンス、行け。お前こそ、ここで誰かに見られるわけにはいかないんだぞ。この正騎士殿の名誉を守り続けるんだろう。なら、ぐずぐずするな」

「ああ……兄ぃ、よろしく頼む……」

「兄ぃじゃない。ダリャンだ。――早く行け」

「…………」


 ゴーダム公もまたかたひるがえし、暗闇くらやみの中に姿をかす。その顛末てんまつの全てを見届けて、ダリャンはマントにくるまれたバイトンの遺体をかつぎ上げた。


「似た者同士の運命はかれ合うのか……親の欠けてる奴等やつらばかりだな…………」


 言ってみて――ダリャンは、苦笑した。


「もっとも、おれは両方ともいなかったんだが…………」

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