「ハーモニカの行方」

 ゴーダム公爵こうしゃくから送られた命令書を読むバイトンの表情を、ニコルは無意識のうちにじっと注目して見つめていた。書面の内容を聞かされていない上は、その内容を知るにはバイトンの反応からうかがうしかなかったからだ。


『裏切り者はバイトンだ』


 レマレダールの街で聞いたゴーダム公の言葉が、ずっとニコルの胸に消えない銃弾じゅうだんとして残っている。


 今、自分はその裏切り者を前にしている――品行方正で礼儀正れいぎただしく、主計官として抜群ばつぐんの才能をほこり、武人としても一流のわざを持って尊敬されているこの、完璧かんぺきに近い人物であるバイトンが、ゴーダム騎士きし団を裏切っているというのか。


 何かの間違まちがいであってほしい、というのがニコルの願いだったが、ゴーダム公がそんな間違いを生じさせることを易々と口にしないこともまた、ニコルは知っていた。


「――――ふぅ…………」


 目を閉じたバイトンがくちびるから長い息をらして、手の中の紙片しへんたたまれる。

 次にニコルがおどろいたのは、バイトンがその紙片が差し出してきたことだった。


「――バイトン、正騎士?」

「閣下もなかなかお茶目な性格をしておられる」


 読め、と目でうながすバイトンに従い、ニコルはその紙片を受け取る。

 開く瞬間しゅんかん、心臓が大きく一度、体に波紋はもんを刻むような鼓動こどうを打ったのがわかった。

 紙片には、次のように書かれていた。


「……バイトン・クラシェル正騎士、この命令書を受け取った当日から合計八日間、休暇きゅうかを命じる…………?」


 ――休暇?

 出頭命令なのだろうか、という予測を完全に破壊はかいされたニコルが表情をくずす。が、バイトンに出頭を促してらえるくらいなら、そもそも逮捕たいほするための人員がここに差し向けられる方が適当だということに気づいて、ニコルはますます混乱した。


「休暇を取らせるためにわざわざ封緘ふうかん命令書とは……しかし、前回のあれ・・のためだろう」

「あれ、とは……?」

わたしは正騎士に昇格しょうかくしてから、まともに休暇を取ったことがないからな。数ヶ月前だったか、いい加減に休めという指示にも逆らって業務を続けていた。だから今回、命令という形を取ったのだろう……ぎの準備をしなくてはな。長い休暇だ」

「引き継ぎ、ですか」

「主計官がいなければ部隊に物資は供給できない。まあ、私ほどではないが別の者でも業務がとどこおるわけでもあるまい……人員はいるからな」


 バイトンはそう言うと、背を反らして青く遠い空に目を向けた。その横顔にニコルは、それまでかれの顔にかかっていたかげがいくらかうすれている気配を感じた。


「……それでは、ぼくは失礼します」


 ニコルはきびすを返した。自分の役目は終わった今、ここにいるべき理由もなかったし、無駄むだに世間話をしてこちらの内心をさとられたくもなかった。


 幽閉ゆうへいされたのちに王都に送り返されたはずの自分、アーデスの港町に視察に行っているはずのゴーダム公のふたりがそろって今、ここに帰ってきた事実が不自然きわまりないのだ。下手へたさぐられてボロを出すことだけはけたかった。


 ――だが。


「待て、ニコル」


 背後からかけられたその声にニコルのかた面白おもしろいくらいにがってしまって、ニコルは自分の迂闊うかつさに舌打ちしたくなった。


「これを持っていけ」

「……バイトン正騎士?」


 椅子いすから立ち上がり、歩み寄ってきたバイトンがニコルにばした手の上には、バイトン愛用の口風琴ハーモニカっていた。


「お前にやろう」

「……バイトン正騎士は、これをくのが唯一ゆいいつのご趣味しゅみだと聞いていましたが……」

きた」


 バイトンの返事は簡潔で明快だった。


「……もう、それを吹いていても楽しくないんだ」


 バイトンの口元にさびしげな苦笑くしょうかぶ。


「ニコル、お前が持っていてくれ。らなければ捨ててくれていい」

「は、はい……」

「そもそも、お前は口風琴を吹けたか?」

「え……ええ、吹けます。王都で昔、兄貴分にみっちり仕込しこまれました」


 実家の界隈かいわいで、何かといえば自分を可愛かわいがってくれた気のいい兄貴分の青年たちのことをニコルは思い出す。色々遊びに付き合わされたが、その時に教えてもらった楽器のひとつがこの口風琴だった。


普段ふだんは吹いていませんが、やれば感覚を思い出すはずです」

「そうか。じゃあ、一曲吹いてみてくれ。たまには他人が吹いているのを聞きたい」

「曲は……」

「何でもいい」


 バイトンは小さく微笑ほほえんだ。今日きょう、ニコルが初めて見るバイトンの前向きな笑いだった。


「お前が好きな曲なら、何でもいいよ」

「はい、それでは…………」


 ニコルは両手にかくれる小さな口風琴の軽さを手にしながら、いくつかの旋律せんりつを頭の中でおもい浮かべる。十数秒間迷った挙げ句に一曲を選び、その旋律の出だしを確かめて、唇に口風琴を当てた。


 唇は思っていた以上に感覚を覚えていて、最初の音から思い通りの音が出てくれた。

 高い音を主にした、ゆるやかな調子の旋律がかなでられる。素朴そぼくな音のつながりは人気の曲とちがって間延びしている感じがしたが、その分人の心をなごませる力があった。


上手うまいな…………」


 バイトンはそれだけを口にして、ニコルが吹く曲に耳をかたむけている。

 演奏は七分か八分続いた。意図的に盛り上げようとしている箇所のない、いて言えば、そよ風が森を吹きけるような、小川が流れるせせらぎの音のような単調な曲だった。


「聞いたことのない曲だ。なんという曲名なんだ?」

「僕も曲名は聞いていません。ただ、知り合いがよく鼻歌で歌っている曲なんです」


 緑の豊かなかみを持つ、メイド服がよく似合う小柄こがらな少女の面影おもかげを思い出しながらニコルは言った。


「あまりほかの曲を知らないようで、その曲ばかり鼻歌で歌っていましたね……それで、細かいところまで覚えてしまいました。退屈たいくつな曲だったかも知れませんが……」

「いや、めずらしい曲調で退屈はしなかった。……きっと、その曲を歌っている人のことが好きだから覚えたのだろうな」

「え?」

「それを鼻歌で歌っていたのは、女性だろう?」


 ニコルの口が開くが、声は出なかった。出せなかったというのが正しい。


「それを吹いている時の顔、とてもなつかしそうな表情だった。なんとなく心情が伝わってくるものを感じたよ。――聞かせてくれてありがとう」


 バイトンがニコルに背を向け、ゆっくりと主計局の建物に向かって歩き出した。


「私の留守中は、たのむ。閣下を守ってあげてくれ。ではな…………」


 そう言い残し、正騎士の姿が裏口のとびらの向こうに消える。ニコルは一言もはっせないまま、そんなバイトンの姿を見送ることしかできなかった。


『……あんな人が、本当に閣下を、騎士団を、僕たちを裏切っている……本当に、何かの間違いじゃないのか…………?』


 間違いであってほしい、といのりまでめながらニコルは心の中でつぶやいた。

 が、その少年のおもいが届くことは、永遠になかった。

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