「引き金」

「失礼しますよ」


 実の息子むすこに向けるように――いや、実の息子に向ける以上にニコルに向けてやわらかく微笑ほほえんだエメス夫人が、ニコルがすわ長椅子ベンチの横にこしを下ろした。


「お、お母様かあさま――」


 親しくなっているとはいえ公爵こうしゃく夫人がとなりに座ってきたことにニコルの腰が反射的にくが、ニコルのひざに夫人の手がそっと小さくれて、それを制した。


「いいのですよ。あなたはつかれているのでしょう。休んでいていいのです。わたしに気をつかうことなどありません。……マルダムは、残念なことでしたね……」

「は、はい…………」


 なぐさめの言葉を受けて、ニコルは目に浮かんだなみだの重さにまた、うな垂れた。


「私も、コトの経緯けいいは大体うかがいました。サデュームの家は三男を失い……御母堂ごぼどうもさぞかなしみに暮れていることでしょう……。私も、お前が戦いで死んだと知れば、心がかれるであろうことは容易に想像がつきます……今、彼女かのじょはその苦しみにさいなまれているであろうことをおもうと、私の心もまた痛む……」

「…………」


 ニコルの記憶きおくの一部が刺激しげきされて、ひつぎの中でねむる息子に涙を浴びせるようにすがりつき、息子の名を呼びさけんでいたひとりの母の姿が思い起こされた。


 まだあの光景を見てから、丸一日ほどしか時間はっていない。


「……マルダムは、ぼくをかばってくなりました。僕の命を救ってくれました。ですからお母様、差し出がましいお願いかも知れませんが……」

「心配せずともよい。サデュームの家には弔意ちょういと共に、十分な補償ほしょうをします。それで慰めになるとは思いませんが、騎士きし団を預かるゴーダムの家として、誠意はくします。ニコル、それはお前が気にすることではないのですよ。マルダムを死なせた責任はにあるのです。私は、お前に責められても仕方のない立場なのですよ」

「……お気遣い、ありがとうございます……」

「ニコル、お前は一昨日の戦いからほとんど食事をっていないと聞いています」

「は、はい……」


 ニコルは空腹感にかれる胃を上からさえながらうなずいた。空腹は空腹なのだが、戦いの直後に食べたスープを一口食べた途端とたん嘔吐おうとして以来、何かを口にすればいてしまうのではないかというおそれが食事を忌避きひさせていた。


 原因はわかっている。あまりに多くの血を浴びたからだ。二十四人もの人間を殺したという話だが、ニコルには最後の一人ひとりしか記憶にない。ほかの二十三人に関しては、脳が記憶することを拒否きょひしたのか、それとも記憶していてそれを再生することを禁じているのか。


 おそらく、後者だろう。スープを口にして吐きす直前、脳の内側で光った閃光せんこうと共に断片的だんぺんてきな『記憶』がよみがえった――それのために自分は嘔吐したのだという確信がある。


「……よくあるのです。戦闘せんとうを体験した者、特に初陣ういじんで生々しい経験をした若者が、肉が食べられなくなることが……」


 慣れているのか、エメス夫人の言葉に『殺人』という言葉はふくまれていなかった。


「一、二週間もすれば元にもどります。ですが、あなたは騎士。栄養を摂って体を維持いじしなくてはなりません。ニコル、食べることは戦うことと同じくらい大切なことなのですよ」

「ですが、お母様…………」

「なので、この母がお前のために特別な食事を用意しました。――ちょうどましたね」


 エメス夫人が視線を横に投げかける。その先に、なべせた車輪付き荷台を押して歩いてくる、メイド服姿のコノメの姿があった。


「コノメ、こちらです。早くいらっしゃい。ニコルがお腹をかせていますよ」

「ニコルにいさま、おかえりなさいなの。――シチューをつくってきたの」


 自分の首までの高さがある荷台を押すコノメが、大きなフリルを頭の上でらして微笑んでいる。そんな少女を見つめるニコルの目に、かすかなやさしい色が浮かんだ。


「ただいま、コノメ……コノメが作ってくれたのかい、そのシチューは……」

「私が作らせた特製のシチューです。たくさんの銀豆を高圧鍋でけるまでつぶし、いためた小麦粉でとろみをつけ塩で味付けした……少し味の強みには欠けますが、肉は一切いっさい入っていません。それでいて栄養は抜群ばつぐんです。たんぱく質を摂らなくてはなりませんからね」

「コノメがよそってあげるの」


 ニコルの目の前でコノメがわんを取り、お玉で鍋の中の灰色に近い色のしるをよそい始めた。シチューの色が独特の色をしているのは、たくさん使っているという銀豆のためだろう。


 銀色をしている豆であるから銀豆という安直な名前をつけられているこの豆は、安価で栄養価は高いが味はいまいちという、どちらかといえば貧しい家庭で出される食材だ。


「はい、ふーふーするの。ふー、ふー」

「だ、大丈夫だいじょうぶだよ、コノメ。ひとりで食べられるから」

「ニコルにいさまがぜんぶたべるまで、コノメがよそうの」

「これを全部?」


 コノメの小さな体で一抱ひとかかえはある鍋の大きさにニコルはうなった。


「全部食べたら胃が破裂はれつしちゃう。残りはあとで食べるから、今はそこそこでいいよ」

「ほんとなの? ほんとにあとでぜんぶ、たべるの?」

「あとでコノメのおうちで食べるさ。だから、お代わりは二はいくらいでいいかな」

「あら、やっぱり作りすぎたかしら。男の子の胃袋いぶくろはこれくらい軽いと思ってたけれど」

「ニコルが三人いてもそれは難しいのではないですか、お母様?」


 ななうしろ、完全に死角となっている方向から声がかかる。その声にニコルは口に入れられたシチューをまずに丸呑まるのみしてしまった。


「サフィーナ様……」

「お帰りなさい、ニコル」


 若草色の簡易なドレスに身を包んだサフィーナが少年の前に立ち、にこりと笑いかけた。


「無事でなによりです。任務、ご苦労様でした」

「は、は、はい」


 そのままサフィーナは母であるエメスの反対側に腰を下ろす。公爵夫人と公爵令嬢れいじょうの膝に自分の両膝りょうひざはさまれる形になり、ニコルは思わず膝を閉じてかたも縮めた。


「サフィーナ、今ニコルは食事中なのです。少しは遠慮えんりょしなさい」

「任務から帰還きかんした騎士をねぎらうのは公爵家の人間の務めなのではないですか? お母様。ああ、コノメ、その椀とさじを貸しなさい。私がニコルにふーふーして食べさせます」

「やなの」


 ばされたサフィーナの手をかわして、コノメはきっぱりと拒否した。


「これはコノメがつくったから、コノメがニコルにいさまにたべさせるの」

ちがうでしょう、コノメ。この私、ゴーダム公爵夫人がそのシチューを作らせたのです」

「コノメがつくったの」

「コノメは私付きの召使めしつかいでしょう? ですからこのゴーダム公爵家令嬢れいじょうであるこのサフィーナの言うことを聞かないといけないのよ?」

「やなの」

「はははは…………」


 ひとつの椀とひとつの匙をめぐって取り合いを始めようとした女性陣じょせいじんが、草が風にそよぐようにざわめいたニコルの笑い声にかえった。

 それは小さいものだが、この長椅子に座ったニコルが三人に初めて見せるみだった。


「……ありがとうございます、僕に気を遣ってくださって……。僕は……大丈夫です。心の整理が完全に着くには少し時間がかかるかも知れませんが、立ち直ります。そうしなければ、僕を守ってくれたマルダムに申し訳が立ちません……」

「――ニコル、あなたは優しいのですね」


 サフィーナの手がニコルの顔にそっと当てられる。持たれていた絹のハンカチがニコルの目のはしに浮かべていた涙を吸い取る。その感触かんしょくおどろいているニコルに、はい、といってサフィーナは手のハンカチを差し出した。


友達ともだちのために流してあげられる涙は、美しいものです。ですが、殿方とのがたはいつまでも泣いているわけにはいかない……つらいところですね……」

「……サフィーナ様」

「ニコル、それはしばらく貸して差し上げます。また今度会った時、返してくださいね」


 ニコルの手にハンカチを持たせたサフィーナは立ち上がり、では、とひとつ微笑みを残して、その場を去って行った。


「……そうね。今のニコルにあまりさわがしくするものではないですね。ここはサフィーナの方が一枚上手じょうずだったかしら」


 笑ったエメス夫人も立ち上がる。


「ニコルにいさま、のこりはあとでたべるの?」

「うん。今晩はコノメの家にお邪魔じゃまするから、その時に食べるかな」

「じゃあ、おうちに運んでおくの」

「ニコルも、横になって休息を取らなければなりませんよ。いつ新しい任務が来るかわからないのですから。……正直言うと、私はあなたを能吏のうりか何か、危険のない仕事にかせたいとも思っているのですが、あなたはそれにうんとは言ってくれないでしょうね……」

「……お母様」

「しつこいときらわれますから、私はもう何も言いません。ゆっくりと休むのですよ」


 エメス夫人が歩み出し、荷台を押すコノメを引き連れて去って行く。

 ニコルは立ち上がってそんなふたりに一礼し、再び長椅子におしりを落とした。

 再び背もたれに背中を預けて『騎士の棺』に目を向け、狼煙のろしの行方を目で追った。


「もう、そろそろ終わりかな…………」


 上がる狼煙も消えかけてうすくなり、もう一、二分で途切とぎれるのではないかという気配を見せていた。せめてあのけむりが終わるまでここにいよう――そうぼんやりと考えていたニコルは、また死角からかけられた声に振りかされていた。


「よう、ニコル」


 首を横に向ける。と、ニコルの表情に苦いものがじった。


「ダクロー…………」


 うでを組んだダクローが三十歩ほどの距離きょりを空けて、そこに立っていた。


「ずいぶんご活躍かつやくだったみたいじゃねぇか。駐屯ちゅうとん地中、お前の話で持ちきりだぜ」

「――そうですか」

愛想あいそのねぇやつだな」


 ニコルは狼煙が消えたのを確認かくにんし、長椅子から立ち上がった。ここはもういるべき場所ではなくなったようだった。


「二十四人りだって? 最後のひとりは降参した奴をなぶごろしにしていたって聞いたぞ」

「…………」

「どうせ武器を持った素人しろうと同然の奴を一方的に斬ったんだろ。騎士としてはめられたもんじゃねぇな。――お前、騎士に向いてないぜ」

「っ」


 その一言にニコルの片眉かたまゆふるえた。止められようもない反射だった。


「技量がどうかはともかく、精神が向いてねぇよ。騎士っていうのはな、死に動じない人間じゃねぇと務まらないんだ。味方の死どころか敵の死にも狼狽うろたえているお前はいい騎士にはなれないさ。早めに見切りをつけてめちまった方がいいんじゃねぇか。これは親切心で言ってるんだぜ」

「…………あなたには関係のないことでしょう」

「は? ああ、関係ないことかも知れないがな。ま、お前の武勇伝らしいものがどれだけの無様重ねた上に積み上げられたものだっていうのは、わかるもんさ。きっと、自分がどうやって相手を斬ったのかもロクに覚えてないんだろ? ん?」

「…………」

貧乏人びんぼうにんのお前は王都で小銭こぜに追っかけているのがお似合いなくらいだよ。死ぬこともないしな。このまま戦闘なんかやっててもそのうち、小便チビり散らかして泣き出してはじさらすのが関の山だ。――聞いてるのか、チビ」

「失礼します。行く所があるので」

「けっ」


 ニコルがゆっくりと歩き出す。ダクローのわきをすりけなければ、コノメの家には向かえない構図だった。


面白味おもしろみのねぇ奴だ。――しかし、ま」


 いくらニコルを挑発ちょうはつしても激させることができないと判断したのか、ダクローはあきらめて話題を変える。

 その変えた先の話題が、色々な意味でマズかった。


「あのマルダムも可哀想かわいそうなことしたな」


 すれ違ったダクローから十歩ほどはなれたニコルの歩が、にぶった。


「あのデブこそ騎士に向いてなかったぜ」


 ダクローは後ろにいるニコルを見ていない。まばらに人が見える『騎士の棺』の方だけに気を取られていた。


「早めに諦めるようにイジメてやったのに、実家に帰る勇気もねえからこんなことになったんだ。元々ノロマだったからな。ま、いずれこんなことになるんじゃないかとは思ってたんだよ。だからあの愚図ぐずも最後にカッコのつく死に方ができてよかったんじゃねぇか? 後ろからただ矢を食らってくたばるなんて、カッコつかねぇのもいいところだからな――」

「――おい」

「は?」


 後ろから伸びてきた肩に触れるものを、ダクローが感じた瞬間しゅんかんだった。


 竜巻たつまきのような巨大きょだいなうねりの力にダクローの体がまれる。強い力に体をねじられて振り向かされ、こめかみにするどすぎる鉄拳てっけん一撃いちげきたたき込まれ、ダクローは脳の中心にさる強烈きょうれつ衝撃しょうげきに、意識を白くさせられながら宙をった。

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