「報告書」

 その日のゴーダム公爵こうしゃく執務しつむ室は、早朝の時間にもかかわらず、厳しく重苦しい空気に支配されていた。


 重厚じゅうこうな執務机に昼間の服装をしたゴーダム公爵がすわり、手元に広げられた数ひらの書類を前にしてくちびるはしみ、厳しい視線を紙片しへんに送っている。


 そしてこの時、執務室にはもう一人ひとりの男が執務机からややはなれたソファーに座っていた。


 黒い背広の男だった――としは、三十を少し過ぎたくらいか。


 この領地の中で最も高い地位にある公爵を前にしてかたの力を完全にき、あしまで組んで座っている。うでを組んだ姿からはやや傲岸不遜ごうがんふそん雰囲気ふんいきさえあり、公爵が困惑こんわくころそうとしている表情を楽しんでいるようにも見えた。


かれが間者だというのか……この情報は、本当に間ちがいがないのか」

「我々は間違まちがった情報は上げません。それが我々『影狗かげいぬ』の存在意義です」


 その全く対等な物言いに生意気な、とゴーダム公爵は口走りそうになったが、理性でそれをおさえた。ソファーでくつろいでいる男は、ゴーダム公爵と言えどもうかつに罵倒ばとうしたり叱責しっせきできない相手なのだ。


『影狗』。


 エルカリナ王国国王直属の諜報ちょうほう機関であり、主に国内の情報収集に当たる組織である。

 その『情報』にはエルカリナ王国を支える貴族たちの事情もふくまれているが、『影』の文字が示す通り、貴族たちがおおやけにしてはしくない内容のものがもっぱらだ。


 自分たちの腹の中をさぐろうとしてくる男たち――本来なら自領内で顔も見たくはない男たちだったが、たたすわけにもいかなかった。

 何せ、彼等かれらんだのは、公爵自身だったのだから。


「しかし、この報告書はなんだ。私は有罪と思われる人間の報告書を上げろとは言った。だがこの中身は、無実の証明しかない」


 ひとりの人物の行動を数日間にわたり、詳細しょうさいに観察し記録した『報告書』のほとんど終わりまでを読んだ公爵が、手の書類を乱暴に机の上に放る。その顔には静かな憤懣ふんまんがこもり、感情の爆発ばくはつを必死にこらえているのが波動として伝わってきた。


「確かに我々も彼には注目した。作戦立案に関わる参謀さんぼうたちと並んで、作戦実施じっしに深く関わる立場であるからな。我々自身の手で内部調査もした……その結果においては、『シロ』と出ている……」

「ですが、その調査の精度に自信がないために我々を招聘しょうへいしたわけでしょう。もう一度騎士きし団の上層部たちを洗い直してほしいと。ええ、洗い直しました。その中で残ったのが、その彼ということです。確かに彼自身に有罪につながる点は見当たりませんでしたよ」


 黒服の男はまだ冷めていない紅茶を含み、のどうるおしてから、ゴーダム公の手元にある報告書の内容を自身は何も読まずに語り始めた。


「この数日の観察では、彼自身は全く綺麗きれいなものです。だれとも通信をしている気配はありませんし、早朝こそは訓練の長距離走ちょうきょりそうと道場での師範しはんとしての役目で大勢を相手にはしていますが、特定の誰かと深く接触せっしょくしている気配もない。単独を好んでいるのか仕事はほぼひとりでこなし、食事も仕事場に届けさせてひとりで食べ、その後で食器を下げさせる。風呂ふろる時も一人……彼が出したゴミも調べ、仕事場にしのみもして一切合切いっさいがっさいを調べましたが、あやしいところはありませんでしたな」

「彼はそういう男だ。だからわたしたちも以前の調査で『シロ』と判断した」

「そこが怪しいとは思いませんか? 怪しくないのではなく、怪しくなさ過ぎるのです」


 相手の反応を面白おもしろがっている黒服の男の口調に、ゴーダム公は自分の機嫌きげんを自分で押さえるので精一杯せいいっぱいだった。わされている会話の主題は、とても酒のつまみにするようなものではないのだ。


「ここまで怪しまれる要素をたれると、まるで『自分は怪しくありませんよ』と大声で主張しているようですよ。普通ふつうの行動とは思えない。彼ぐらいですよ、周囲との接触をこれほど断っているのは。怪しまれないように極力怪しまれる要素を切っていった結果、こんな単独相たんどくそうのような仕事と生活のスタイルができあがる……」

「だが、だからと言って彼が間者であるという根拠こんきょにはならんだろう」

あわてないでください、彼が間者である根拠は、最後のページに記されています」

「最後の頁……」


 ゴーダム公は自分が机に投げ出した報告書の、最後の紙を手にし、その内容に目を走らせた公爵が――絶句した。

 額から目元まで、血の気がさっと引いて蒼白そうはくになり、めた目がふるえていた。


「まあ、本人自身に怪しいところがなければ周りから調べるまでです。その点『彼』は楽でした。『身内』と呼べるのはひとりだけでしたから」


 最後の頁には、『彼』の『身内』についての情報が記載きさいされていた。それを読み終わったゴーダム公が思わず自分の胸に手を当てている。心臓のれがわずかにではあるが、はっきりと乱れているのが鼓動こどう感触かんしょくでわかった。


今年ことしの初めに、死んだと聞いていたが…………」

「その時期も、例の盗賊とうぞく団の活動開始と符合ふごうするのではないですか? 『身内』から探られて手繰たぐせられるのを防ぐために死んだと吹聴ふいちょうした……普通、死人は追いませんからな。まあ、我々はそんな話は信じないわけですが」


 ククク、という忍びわらいを聞いたゴーダム公の心は震えもしない――完全に凍結とうけつしていたからだ。


「彼が死んだと周りに告げていた『身内』は生きていた。ええ、確認かくにんは取りましたよ。その『身内』本人と接触しましたから。ただ、どうもその『身内』は自分が死んだことにされていることは全く気づいていないようで。そして、その『身内』のために多額の金がながれ込んでいる――とても正騎士の報酬ほうしゅうではまかなえないような金が。あとは金の出所をめました。間違いなく、まともでない組織から流されている。とまあ、根拠はこんなわけです。納得なっとくしていただけましたかな」

「…………」


 ゴーダム公はその最後の頁を何度も何度もかえし読んだ。内容に間違いがあってくれと望んだが、これを上げてきたのが国内で最も高い能力を有する諜報機関のものであるという自覚があるから、心が折れるしかなかった。


 そもそもこの『影狗』に作りたくない借りを作って調査を依頼いらいしたのも、彼等が『まぼろしの盗賊団』に買収されている可能性が皆無かいむと言っていいほどの信頼性しんらいせいを持っていたからだ。


「ご質問がなければ、我々はこれで失礼させてもらいますよ。我々もいそがしい身でして。国の中には調べなければならないことがいくらでもある。それをひとつひとつ見つけ出すことで国の平和が保たれるということです。悪だくみというやつは、なるべく早めに見つけ出すのが大事に至らせない鉄則なわけです――おわかりですよね?」


 よくしゃべる諜報員だ、と思いながらゴーダム公は手の紙面を置いた。


「……手間を取らせた。国王陛下……ヴィザード一世陛下にはよろしくお伝え願いたい」

「ええ、必ず。陛下も王都、王家直轄領ちょっかつりょうの南を守護するゴーダム公爵領の治安がいちじるしく乱れていることに懸念けねんを持たれています。それが解消するのなら協力はしまないというおおせでありまして。何かありましたらまた伝書鳩でんしょばとでも飛ばしてください。その日のうちに参上いたしますので」

「その日のうち……私は領内に『影狗』の出張所の存在を認めた覚えはないのだが」

「我々は狗です。狗は走りが速いもの。時には馬を上回りますよ――では、失礼」


 黒背広の男はひょいと立ち上がり、軽く頭を下げただけで部屋へやを出て行った。

 後には、ひとりだけの公爵が残された。

 公爵は机の上に広げられた報告書に厳しい目を向けながら、それをひとつにまとめる。


 まとめ終わった頃合ころあいで、執務室のとびら廊下ろうか側からノックされた。


「入れ」

「失礼いたします」


 年かさの執事しつじが執務室に入り、うやうやしく一礼した。


「早馬が入りまして、間もなくチャダ中隊が帰還きかんするという報告が入りました」

「帰ってきたか。出迎でむかえよう」


 ゴーダム公はねるように椅子いすから立ち上がった。今はこの重苦しい空気がめる執務室から出て、外の空気を吸いたかった。チャダ中隊に同行しているニコルの顔を見れば、やいばの風に傷ついた自分の心も少しはやされるのではないかという期待もあった。


 執務室からゴーダム公の姿が消え、かぎが外からかけられた。

 後には、寂寞せきばくとした空気だけがただよ空虚くうきょな空間が残される。

 その執務室の机の上に、静かな舌戦ぜっせんが繰りひろげられていた『報告書』が放置されている。


 ――『報告書』のいちばん上の頁には、『バイトン・クラシェル正騎士についての調査報告書』と記されていた。

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