「闇夜の帰り道」

 暑い湯で骨のしんまで温まったニコルは、手にした小さなランプで足元を照らしながら宿舎にもどろうと森の中を歩いていた。


 木々をたおして一本の空間をひらき、下草をみつけてできたけもの道を歩く。広大なゴーダム騎士きし駐屯ちゅうとん地は外との明確な境界がない。いて言えば、この森とその外の小川が境界線そのものであって、小川をえた向こうの拓けた草原が外界だ。


 その小川も幅が広くはない。かこいいを設けて外部の侵入しんにゅうを防ぐには、騎士団の規模が広すぎるのだ。その侵入者しんにゅうしゃを迷わせる意図もあって、この森の中にははっきりとした道を作っていない――アリーシャは、講釈の中でそう言っていたが……。


「鋼鉄のかんで湯をかしてお風呂ふろにするなんて初めてだったなぁ。なんでも整備されてる王都じゃできないことだよね。でもぼくには結構合ってるみたいだ」


 頭の中まで火照ほてった感覚にいに似たものを感じながら、鼻歌じりにニコルは歩く。最初は右も左もわからなかったこの駐屯地の地理感覚もようやく体に慣れてきた。迷わずに歩けるというのは、そういうことだと思う――。


 そんな上機嫌じょうきげんのニコルが歩く先、数十歩はなれた木々のやみの中でがさりと何かがざわめいた音が発せられた気配に、それを耳でとらえたニコルが一瞬いっしゅんで目をとがらせた。


だれだ!」


 今までの機嫌きげんのよい鼻歌がび、するど誰何すいかの声が飛ぶ。これも訓練で身についた習慣だということが頭に上ることはなかった。


 飛び道具を警戒けいかいしてランプを捨てながら反射的に近くの木陰こかげに身をかくし、こしに差したけんに右手でれるニコルが闇の先をにらむ。

 気配のあるじは、ニコルが声を投げた闇の先からあっさりと現れた。


わたくしです」

「――サフィーナお嬢様じょうさま!?」


 投げ捨てたランプの弱い光の中でかびがった少女の姿――サフィーナに間違まちがいないその姿に、ニコルはにぎったつかめる力をいてしまった。こんな時間のこんな場所で見る顔ではなかったからだ。しかも、共の者も連れずにひとり――。


「何をなさっているのです!? こんな危ない時分に!」


 ランプを拾いながらニコルはる。外部からの敵の侵入や、獣がはいり込む可能性が皆無かいむとは言えないこの辺りを、闇が支配するこんな時間に公爵こうしゃく令嬢れいじょうともあろう立場がうろついていいはずはなかった。


「ええ、日課の、毎晩の散歩を。ですがランプの魔鉱石まこうせききてしまって、途方とほうに暮れていたのです」

「日課……そんなことはおやめください! こんな所でお嬢様の身に万が一のことでもあれば、いくらやんでも悔やみきれないことになります!」

「まあ、ニコルは私のことを心配してくれるのですか?」

「もちろん! 今の自分は騎士見習いといえどゴーダム騎士団の一員、ゴーダム家の方々をまもる使命を持った立場であります! ――夜風も冷えます。サフィーナ様、これを」


 ニコルは自分のかたに羽織っていた肩掛かたかけをサフィーナの肩にかぶせた。


「こんな夜の散歩はおひかえください。どうしてもとおっしゃるのなら、せめて護衛を……」

「ではニコル、私があなたにそれを望めばあなたは付き合ってくださいますか?」

「サ、サフィーナ様のお申し出とあれば……」

「ふふ、今、困った顔をしましたね。私もニコルにそんな顔をしてほしくありませんわ。大人おとなしくニコルのいうことを聞くといたしましょう」

「そ、そう言っていだければ幸いで……さあ、おやかたに戻りましょう。自分が送ります」

「はい」


 ニコルのとなりについたサフィーナはぴと、と少年の右腕みぎうでを両手で包んだ。


「――サフィーナ様? 距離きょりが近くありませんか?」

「暗い森の中はこわいので。こうしていると安心します」

「別にこんな暗い森の中に足を運ばれなくてもよろしかったのに……」

「気が向いたのです――きゃっ!」


 がさがさがさ! と林のおくの中で枝と葉が激しくなすわされる音がひびく。それに合わせてニコルの首元にサフィーナがきつき、少女のほおが自分の右頬にぶつかってきた感触かんしょくにドギマギしながらニコルは腰の剣を握っていた。


「だ、誰だ!?」


 闇の中に投げた声に返答はない。左手に持ったランプをニコルはかかげてみたが、人影ひとかげらしいものは見当たらなかった。


「人じゃないのか……小動物か何かかな……」

「この辺りは小さなねこきつね栗鼠リスなどがたくさんいます。きっとそれでしょう」

「ダリャンもそんなことを言っていました。そうならいいのですが……人をおそうような野犬がまぎれ込んでいたら大事おおごとです。ここから離れましょう」

「私もとても心細くなってきました。この格好のまま館まで戻っていいでしょうか?」


 薄暗うすぐらいランプのあかりの中にぼんやりと光る、亜麻色あまいろかみが頬に触れてくるのをニコルはどうしようかと思案したが、右のうでをぎゅっと握りしめてくれるサフィーナは思案してもどうしようもないようだった。


 これでは本当に万が一のことがあっても、剣をることもできない。


「は、はい、サフィーナ様のお好きに。ですから早足でここから離れましょう」

「わかりました。二人三脚ににんさんきゃくのようで楽しいですわ」

「……サフィーナ様、どこか楽しそうではないですか?」

「怖くて怖くて、とても胸がドキドキしています。確かめてみますか?」

「け、結構です」


 これ以上会話を重ねても無駄むださとり、ニコルはランプで進むべき方向を照らし、やや強引ごういんな歩調で歩き出した。えずはこの木と草しか見えない場所からのがれねばならない。



   ◇   ◇   ◇



 闇の向こうで声がわされていた気配がうすい灯りと共に去り、何も見えず聞こえなくなった森の中で何かが目覚めたように無数の小さな光が灯された。


「あー、もう、サフィーナお嬢様ったらうらやましい」


 それぞれのランプに照らされた少女たちの顔が浮かび上がる。少し前までサフィーナの元に統括とうかつされ、今は首にぶら下げている双眼鏡そうがんきょうで同じ対象を観察していた仲だった。


「仕方ないわよ。サフィーナ様の段取りがなかったら今夜のお楽しみはなかったんだし」

「そうそう。あたしたちはおまけ。でもおこぼれに預かれるのはさいわいってところ」


 ひとりの少女が言いながら手でしげみをまわしてがさがさがさ! と音を立てる。


「ああ、でもニコル君のおしり、可愛かわいかった……」

肝心かんじんなところは見えなかったけど…………」

「肝心なところってどこよ! そこは本質じゃないの! そんなこと言ってると次にぜてあげないわよ!」

「大きな声を出さない。今夜のことは口外無用。ここにいる顔以外には聞かせちゃダメ」

「はーい」

「じゃ、帰りましょうか」

「こんな夜分まで出歩いて、あたしたち不良……」

「お嬢様の部屋へやでお茶会をしていたっていう筋書きになってるでしょ。お嬢様も口裏を合わせてくれるんだから、忘れないように」

「はぁーい」



   ◇   ◇   ◇



「……サフィーナ様、もうそろそろいいのではないのですか?」

「なにがです?」

「ですから、腕にしがみつかれるのは……もう灯りも見えてきましたし、人もいます」

「手がこれでしびれてしまったのです。放すと痛いです。痛くても放すべきですか?」

「……いえ、そのままで結構です……」


 ゴーダム公爵ていの周辺を警備している兵士たちが、仲むつまじそうに連れ立って歩いている――そのようにしか見えないニコルとサフィーナの姿が闇の中から浮かび上がってきたことに声を忘れるほどに仰天ぎょうてんし、目をいている。


 そんな視線を針のむしろのように感じながらニコルはこれが護衛であることを手持ちランプを持つ姿勢で示そうとしたが、かなり無駄な努力だった。


「この辺でもうそろそろよろしいのではないでしょうか? サフィーナ様、僕は失礼して、駐屯地の方に……」

「あら。せっかくここまでたのです。お茶の一杯いっぱいも差し上げなくて帰すなどというのはゴーダム公爵家の沽券こけんかかわります。ニコル、お茶とお菓子かしでもし上がっていかれて」

「は、は、はぁ」


 いつの間にかサフィーナがニコルを牽引けんいんする形となり、ゴーダム公爵邸の裏門を抜けて二人ふたりは館の中に入っていく。衛兵、メイド、小者たちなどのすれちがう人々全員がそんなふたり連れの姿にいちいち肩をねさせ、闇夜やみよ幽霊ゆうれいでも見たかのような顔を見せた。


「さあさあさあ、こちらに」

「あわわわわ」


 ほとんどきずり込まれる形で館内に上がり込まされたニコルは、そのままゴーダム公爵家の居間として使われているらしい部屋のとびらの前に立たされ、サフィーナの手によって開かれたそれをくぐらされていた。


 明々あかあかと照明が灯った夜半の居間には、先客がいた。


「おや、サフィーナにニコル。こんな時間に二人そろってとはめずらしい」


 普段着ふだんぎらしいすっきりとした形のドレスを着たエメス夫人がソファーにすわった姿で二人の姿を認める。手にするカップから立ちのぼる湯気の向こうで、かつて社交界のはなとして鳴らした美貌びぼう微笑ほほえんでいた。

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