「第六の女性」

 早朝の医務室は無人だった。部屋へやかぎだけが開けられており、整然と並んだ十数台の寝台しんだいが清潔な布団ふとんとシーツをせて、アリーシャとそのうでかれて運ばれるニコルを待っていた。


 無人というだけあって、医師もいなければ寝台に横たわっている患者かんじゃもいない。まだ朝の七時をやや過ぎたころ――食堂が開いているとされている時間のはずだった。


「ちっ。相変わらず医者のいない医務室なんだな。これじゃ急患きゅうかんた時に大変なことになるじゃないか。改善要求を出しておかないといけないよな」


 毒づきながらアリーシャは寝台の上にニコルを下ろす。続いてニコルのよごれている服をがし、少年がずかしさに顔を赤くしているのも無視し、備え付けの患者衣かんじゃいを探してきてニコルに着せた。


「ああ、あたし、もう行かなきゃいけないんだ。というか遅刻ちこくしてるんだよな。大事な打ち合わせがもう始まっているっていうのに」

「おいそがしい中、助けていただいて感謝しています…………」

「い、いいんだよ。可愛かわい後輩こうはいが困ってるのを助けるのは、先輩せんぱいの務めだ」


 桜色、というよりは桃色ももいろにそのほほを染めているアリーシャが笑いながら言った。


「だから困ったらあたしを呼ぶんだぞ。すぐにけつけるからな」

「でも、先輩にご迷惑めいわくをおかけするわけには……」

「いいから言うとおりにしろ。先輩命令だ。ほかやつを呼んだら承知しないからな」

「は、はい」


 寝台の上で布団に包まれるニコルは首をかしげ続けていた。


「ったく、用事がなかったらお前が元気になるまでここでつきっきりで看病してやるんだが、つらいよな……。だれか適当な人間を呼んできて看病かんびょうに着かせてやる……そいつがうらやましい限りだけど……いや、んなことはどうでもいいんだ。腹だって減ってるんだろ? でも自分ひとりでは食べられなさそうだから、いはるよな」


 ひとりで物事を進めながらアリーシャは立ち上がった。


「元気になったらあたしに報告しに来るんだぞ。必ずだぞ。それまで大人おとなしくしておけよ」

「アリーシャ先輩、ありがとうございました」

「うっ」


 背中を見せて去ろうとしたアリーシャがぐらついた。


「な、なんか麻薬まやく的なひびきがあるな……」


 ぶつくさといいながらアリーシャは医務室を出て行く。それでようやく、十何時間ぶりかの静寂せいじゃくをニコルはもどすことに成功していた。


「アリーシャ先輩か。強くて綺麗きれいで、とてもいい人だなぁ。でもなんであんなに世話を焼いてくれるんだろうか? 世話好きな人なのかな? まあ、いいか、それは……」


 思考のたなにそれを上げてしまったニコルは目を閉じ、体中の力をいてまくらに頭をしずめた。

 早朝の訓練の後に朝食、そこから日常の仕事に移るのが騎士きし見習いの一日らしいが、ニコルにはそれをまっとうできる体力と気力もなかった。二十四時間、まるで何も食べていない。


 食堂はどこなのかまだ建物も見ていない。昨夕ゆうべは魚のものが夕食として出たらしいが、そのことを考えると口の中に油の風味がまぼろしとしてよみがえってきて、空腹が刺激しげきされた。


「おなか空いたな……」

「失礼します。アリーシャという方に言いつけられて来ました」


 引き戸がかわいた音を立てながら開けられ、女性の声と共に人の気配が侵入しんにゅうしてきたのをニコルの耳に届くが、重いつかれが少年のまぶたを開けてはくれなかった。


「ありがとう…………わざわざすみません……」

「お食事もお持ちしましたよ。わたしが食べさせて差し上げます」


 かたわらの台にコト、となにかが置かれる音がし、熱い湯気のにおいが流れてきてニコルの鼻をくすぐる。牛乳と乾酪チーズ煮込にこまれたらしい麦がゆ、そして魚の煮込みだろうか、大蒜ニンニクとトマトで味付けしているらしいかおりがニコルの口の中によだれをかせた。


「本当に助かります……見ず知らずのあなたにこんなことをさせてしまって……」

「見ず知らず?」


 小さな椅子に座っているらしい女性の、とがるような声が目を閉じているニコルに響いた。


「たった六日間会わないだけでそんなにわたしたちの距離きょりはなれてしまうんですか? あまりに殺生せっしょうではないですか? ニコル様・・・・

「ぶっ!!」


 したニコルは反射的に体を起こし、ついでに目を開けていた。


嗚呼ああ、嗚呼、この地でたくさんの女性方の知己ちきを得て、わたしのことなどお忘れになってしまわれたのですね。フィルは大変悲しゅうございます」


 ハンカチを片目に当ててよよよ、と嘘泣うそなきをしているフィルフィナを前にしてニコルの口が大きく開き、そのまま閉じなくなった。


「ああ、『あーん』はそんな大きくお口を開けなくて結構ですよ。では最初のひとさじを」

「なんでフィルがここいいるの!?」

「いてはいけないですか?」

「いけなくはないけど!」


 ふわふわとやわらかくふくらんだかみの中にエルフ族の尖った耳をかくして小首を傾げた少女に、ニコルは口から心臓が飛び出しそうになるほどのおどろきを無理にさえつけた。


 見慣れたメイド服、緑色のやわらかそうな髪、極めつけのアメジスト色の瞳――どこからどう見てもフィルフィナだった。


「ぼ、ぼぼぼ、ぼくは四日間かけてこのゴッデムガルドに来たんだよ!? フィルも僕のあとを追っかけて旅に出たってこと!?」

「旅というほどのものでは……今朝けさ、いいえ、まだ夜のうちですかね? 王都を出発して三時間とちょっとでこちらに到着とうちゃくしたというわけです。本当ならもう少し早く着けたのですが、高空は季節風なのか南風が強くて、それで速度が出せませんでした」

「さ……三時間とちょっと……」


 正確には三日とちょっとの時間で百六十カロメルトを踏破とうはしたニコルが、顔の全部をゆがめきっていた。


「フィルならそれくらいのことができるのは知っているからそこは今更いまさら驚かないけど! どう、いやどうして、というか何故なぜフィルがゴッデムガルドにいたりするのさ!」

「ニコル様がこちらにいらっしゃってるから……」

「そのもう一段階深い階層の話!」

「とりとめのない話もふくんだ、長い長い話になりますが、よろしいですか?」

「できるだけかいつまんでお願いするよ!」

うちのお嬢リルル様がうるさいんですよ」


 いつの間にかフィルフィナは湯気が立ちのぼる湯飲みを両手で抱え、口をつけていた。


「ああ、美味おいしい」

「美味しいじゃなくてさぁ!」

「はいはい、わかっております。要するに、初めてニコル様と長い距離を生き別れになってしまったうちのお嬢様じょうさまさびしさのあまりに駄々だだをこねやがられられて、ニコル様が無事ゴッデムガルドに着いたかどうか心配なので見てきてとホザかれるのですよ」

「無事到着したっていう手紙は、昨日きのうの朝出したけれど……」

「そのお手紙も着くまでに数日かかるわけですから。そんな数日を、ゆかをゴロゴロ転がってわめきやがられるお嬢様の相手をさせられるのは本当に勘弁かんべんなのですよ。ですから、まあ重労働ではありますがわたしがこうして参上した次第しだいなのですが……ニコル様」

「え、えっ?」


 嫌な予感にニコルはそっぽを向こうとしたが、首は期待ほどに曲がってくれなかった。


「ここに着いて二日、いや、三日目ですか? ――いったい何人の女性方と仲良くなられました?」

「え、あ、その、えっと、だから」

「五人ですか」

「どうしてわかるの!?」


 ニコルは絶望しながら問うていた。


「今、ニコル様の目が五回、左右にれましたから」

「うっ!」

「ふふ――」


 ほこりながらフィルフィナは口につけた湯飲みを大きく傾け、中の緑茶の全てを飲み干す。飲み干した途端とたんに湯飲みが魔法まほうのようにどこかに消え、ニコルが王都で毎日のように見ていたフィルフィナのすまし顔がそこにあった。


「――ま、というわけでわたしとしてはニコル様がご無事であるとお嬢様に報告したいわけですが……どうやらそのご様子だと、『ご無事』とは少し言いがたいようですね……」

「フィル……」

「さあ、ここからはニコル様の番です」


 小さな椅子いすすわるフィルフィナの背筋がびて、実際の身長よりも高く彼女かのじょを見せた。


「リルルお嬢様には内密にしておくことをお約束します。この地に着かれてから何があったかを、ニコル様の味方、ニコル様の敵の敵、この天使のように可愛く可愛く愛らしいフィルちゃんにお話しくださいませ。フィルはいつでも、ニコル様のお力になりますよ」

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