「先輩の名はアリーシャ」

 ニコルはそれほどの時間を気絶してはいなかった。

 ほおさわやさしい風、そしてかけられる声のひびきが、意識を失った少年を覚醒かくせいさせていた。


「おい、大丈夫だいじょうぶか」

「あ…………」


 小さくぺちぺちと顔をたたかれ、反射のように目が開く。かすみがかかったようにまだいくらかぼうっとしている頭で、ぼんやりとした視界の中で見えるひとりの人物がだれかを考える。


「お、目が覚めたな」


 女性の声……確かに女性の声だった。訓練場の表、軒下のきしたかされたニコルの前で、ゴーダム騎士きし団の制服に身を包んだ誰かがひざを着いている。が、騎士団に女性などは……。


「女の人……?」

「女じゃない。あたしにはアリーシャ・ヴィン・ウィレームっていう名前がある」

「ああ……」


 ニコルは数度すうどまばたき、何度か小さく頭をってからようやく、考える余裕よゆうもどした。

 アリーシャと名乗った女性のえりにも徽章きしょうがついている。だがそれはニコルの銅色あかがねいろのものとはちがい、銀色――じゅん騎士を示すものだった。


ぼくを、介抱かいほうしていただいたんですか……?」

「ああ。ったく、防具の下がアザだらけだったぞ。どれだけ痛めつけられたんだ。――お前、ニコル・アーダディスだな?」

「はい…………」


 ニコルは苦笑くしょうした。もうこの騎士団で自己紹介しょうかいに困ることはないようだった。


「お前の同僚どうりょうのマルダムがこっそり助けを求めにたんだ。あとで礼を言っておけ。あいつが真っ向からお前を助けられないことについては、勘弁かんべんしてやれよ」

「は、はい…………」


 ニコルは起き上がろうとは思ったが、体が全く反応してくれなかった。昨日きのうから続いた激務と暴行に近い訓練、そして殺されそうになった危機をなんとか紙一重かみひとえ回避かいひしたことの、身体と精神にかかった負担はすさまじいものであるようだった。


 だから、できることといえばまだ完全に開かない目で、自分を見下ろしてくれている女性――アリーシャの姿を見つめることしかできなかった。


「…………」


 顔を見る限りは、若い女性だった。ニコルより少し年上の気配……准騎士の徽章をつけているということは成人であるからして、十六さい以上であるはずだ。


 可愛かわいいというよりはうるわしいという表現が似合う、中性的な顔立ち。男のものと共通の制服がその印象を強めているのだろう。すらっとした細身の体型だがひ弱さはなく、弾力だんりょくのある強さをかも四肢ししが服の下に想像できた。


 短めにしている髪型かみがたが余計に少年の雰囲気ふんいきただよわせている。周囲に滅多めったに見ない種類の美人の登場に、ニコルは思わず無言で目の前の彼女かのじょを見つめ続けていた。


「お、おい、あんまりそんな目で見んな」


 はすな口調だが、声の高さだけは女性らしいアリーシャがかすかに頬を染めていた。


「…………お前、綺麗きれいな目、してるな」

「そうですか……?」

「それに、さっき服をがしたけど、真っ白いはだで毛なんかうすいし、のどもそんなに張ってなくてなんかあたしよりよっぽど女の子らしい気が……って何を言ってんだ、あたしは」


 自分の内面に戸惑とまどっているように、アリーシャが大きく頭を振る。


「な、なんかお前と顔を合わせていると変になりそうだ。医務室に連れて行ってやる」

「でも、また僕は立てなくて……」

「あたしが運ぶに決まってるだろ。――よいしょ、と」


 ニコルを横向きにしてアリーシャは、両腕りょううでを差し出してニコルの上半身と下半身をそれぞれのうでで持ち上げ、こしを支点にして自分の腹の位置までかかえ上げた。いわゆる『お姫様ひめさま抱っこ』と呼ばれる抱きげ方だ。


 ニコルが想像したようにアリーシャの腕はニコルの体重を難なく持ち上げる。自分で自身の体を支えられない、浮遊感ふゆうかんに似た不安にニコルはあわてるが、アリーシャの抱き上げ方にらぎはなかった。


「あたしは准騎士なんだ。お前くらい抱き上げられなきゃ、准騎士なんて務まらないぞ」

「ああ……やっぱりそうなんですね……」

今年ことし准騎士になったんだよ。ちなみにあたしは十六歳だ。この意味がわかるか?」

「……決まりの上では、最短で……准騎士になれるのは十六歳からですから……」

「そうだ。あたしは優秀ゆうしゅうなんだ。ふざけたカルレッツとかダクローとかとは違ってな」


 その名をつぶやく時に、彼女のくちびるから軽蔑けいべつの色がありありと見えた。


「お前もバイトン正騎士の下について、あのダクローとカルレッツと一緒いっしょの組にさせられるとか、本当に運がないな。……公爵こうしゃく閣下ももう少し気をつかわれたらいいのに。たとえばあたしの下につけるとか…………いや、それはともかく」


 咳払せきばらいがされ、赤らめた顔をそむけてアリーシャはニコルを抱き上げたまま歩き始めた。


「あの……アリーシャ先輩せんぱい

「うっ」


 ニコルが呼びかけた途端とたん、アリーシャはうめいてわずかに歩を乱した。


「どうしました?」

「いや、今ちょっと、電気みたいなのが頭に走って……」

「アリーシャ先輩……あ、いえ、失礼な呼びかけ方でしたか。じゃあ、ウィレーム先輩」

「アリーシャ先輩でいい!」


 わめいた口から飛んだつばにニコルは思わず顔をゆがめた。


「一度決めたことを男が簡単に変えるな。貫徹かんてつしろ、いいな」

「はあ……わかりました。アリーシャ先輩」

「ううっ」


 ニコルの呼びかけにアリーシャはいちいちビクビクとふるえた。


「先輩、具合がお悪いんですか?」

「ちょ、ちょっと動悸どうきが乱れているみたいだ。でも、だ、大丈夫だぞ」

「はあ」

「で、なんだ。ああ、あたしがダクローとカルレッツを悪く言ってるのが気になるか」


 胸のおくまわる心臓の響きをかくしながらアリーシャが続ける。


「あたしもカルレッツに色々といやがらせを受けたからな。この騎士団にいる女なんてあたしくらいのもんなんだ。あいつ、あたしより二つ年上だろ? 見習いとしてこの騎士団に入りたてのあたしにあいつ、なんて言ったと思う?」

「わかりません」

素直すなおだなぁ、お前は。そんなところが可愛い……いや、それはいいとして。あいつ、あたしの顔を見るなり札束を二つ取り出してあたしの顔を軽くはたいて、『これでわたしの女になりませんか』と来やがった」

「札束を二つ? 二百万エルですか? で、先輩はそれをかえしたんですか?」

「受け取ったよ」

「はい?」

「受け取った札束で、あいつのよこつらを思い切りぶんなぐった。まあほとんどこぶしが当たってたけど」


 その時の痛みを想像し、ニコルは無言で顔を歪めた。


「そのあと、札束をあいつの口に突っんで返してやったよ。ふざけんなってんだ。あたしの家は男爵だんしゃく家だけど、貴族の矜持プライドとかそういう話じゃない。人間の矜持をみにじるなんてやつは、それくらいされて当然なんだ。お前もそう思うだろ」

「は……はい」


 二百万エルを相手に食わせるという以外において、ニコルはアリーシャに同意した。


「よし。お前はなんていうか、か……可愛いな。いや、お前の素直さというか、性根しょうねが」

「昔から女顔だってよく言われています。そう言われるのは慣れました。ですから、めていただいているのであれば気になりません」

「そ、そっか。まあお前もあたしを乱暴でがさつな女とか思ったかも知れないけど、あたしだって女らしい面がないでもないんだぞ。は、花の名前とか、五つくらいは言えるし」

「はい」

「ま、まま、まあ、こうしてえんあって知り合ったんだ! お前のことは面倒めんどうを見てやるから、困った時はいつでもどこでも相談しに来い! あたしがねむってたって歓迎かんげいするぞ!」

「ありがとうございます。アリーシャ先輩ってたよ甲斐がいがありそうで、尊敬します」

「あ、当たり前だろ。あたしは先輩なんだ。凄いんだ。いいか、ちゃんと頼るんだぞ。ひとりで無理しているようならこっちから頼られに行くからな」

「はあ」


 自分の足が雲を踏んでいるような上機嫌じょうきげんになって、アリーシャは思わずび跳ねそうになってから、自分がニコルを抱き上げたままなのを思い出して自制した。


「な、なぁ…………ひとつ、大事なことを確認かくにんしたいんだけど……」

「なんですか?」

「……………………お前、彼女とかいるか?」

「はい?」

「いや、なんでもない」

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