「取り引き、そして返答」

 空腹と疲労ひろうに体をむしばまれきったニコルに対し周囲は、武術訓練の中でも容赦ようしゃなかった。


「うぐっ!」


 訓練用の分厚い革鎧かわよろいに全身を固め、目の部分を透明とうめいの板で防護したかぶとかぶったニコルが訓練場の木のゆかを勢いよく転がる。たおれた少年の体が向かってくるのを待機していた訓練生があわててけ、その避けた空間を通過してニコルはかべ激突げきとつしてようやく止まった。


 打撃だげきを吸収するはずの革鎧にはいくつも打たれたあとがへこみとなって刻まれ、それが耐用たいよう限界以上の打撃をいくつも食らっていることを示していた。


「立てぇ!」


 ニコルを壁にぶつかるまでえた、ニコルと同様の装備をした騎士きし見習いがニコルの元に歩み寄ってこれも訓練用の木剣ぼっけんを少年の腹にれる。


「訓練中にてるんじゃないぞ! 立て! 稽古けいこをつけてもらっているのに休んでいるやつがいるか! 早く立て!」

「は…………はい…………!」


 立とうとする最中にも突き入れられる木剣の衝撃しょうげきの中、ニコルは壁に手をついてなんとか立ち上がる。とうにけんは手からはなれて遠くに転がっていたが、稽古をつけてくれる相手はそれを拾わせてくれる気もないようだった。


「くぅっ!」


 突き、り、突き、斬りの殴打おうだの中、ニコルは稽古相手にきついてそれを回避かいひする。が、組み付いてきたニコルは大きくりほどかれ、相手にしがみつくだけの力も残っていないニコルは訓練場の床をまたもすべった。


邪魔じゃまだ!」


 広い訓練場の屋内で共に訓練する同僚どうりょうたちが、自分たちの間合いに入ってたニコルをりつける。容赦のない蹴りつけを受けながらニコルは床をい、偶然ぐうぜん手が届いた剣をつかんでそれをつえ代わりにし、ようやくまともに立ち上がった。


「――お願いします!」


 体のじくも満足に据えられないふらつきの中で、それだけはまだしんが残っているニコルの声が飛ぶ。


「やってんな」


 熱気がこもり木剣と木剣が打ち合う音がひびわたる訓練場にながんできた、場違ばちがいさを感じるほどに呑気のんきな声に、それを受けた十数人の訓練生が振りいた。


「ダクロー……それにカルレッツ……」


 訓練用の兜たちの中でそんなつぶやきがれる。中には、剣と剣を合わせてう中で同時に力をいてしまう者同士もいた。


「そんなにおれたちがめずらしいっていうのか。そんな珍妙ちんみょうな物を見る目で見るんじゃねぇよ」

「騎士見習いは日頃ひごろ鍛錬たんれんいそしまなければならない。騎士団規則第三条ですからねぇ」

「第四条だよ。――ニコルなら、そこにいるぜ」

「あんがとよ」


 この数年単位で訓練場に顔すら見せなかった二人ふたりの登場に、その目的を察した一人ひとりあごをしゃくって示した方向にダクローとカルレッツは歩いて行く。


 小さな学校の運動場ほどの広さがある訓練場の中で、ニコルを見つけるのにそれほどの苦労はらなかった。木剣が革を打つするどい音と共に小さな悲鳴がはじけ、小柄こがらな体が床にたたきつけられる姿が目に入った途端とたん、それがお目当てのものだと気づけたからだ。


「借りるぜ」

「おい」


 訓練用の防具をひとつもつけていないダクローが、近くの訓練生の手から木剣をむしり取る。カルレッツもそれにならい、木剣をうばわれた訓練生は兜の中でぶつくさと呟きながら下がった。


「ダクロー、かれの相手はわたしにさせてくれませんか」

「お前が体を動かしたがるなんて珍しいな」

「ちょっと交渉こうしょうごとをしたくて」

「勝手にしろ」


 少し派手に動けばぶつかり合うほどに混雑した訓練場の中を、人の波をけるようにしてカルレッツがニコルの元に歩み寄り、ダクローが鼻を鳴らしてそれに続く。

 ニコルは目を防護する兜ののぞき穴にめられた透明の板しに、二人の姿を認めた。


「おはよう、ニコル。つかれているのに精が出ますね」

「…………おはようございます…………」


 カルレッツの出現に、ニコルを打ち据え続けようとしていた訓練生が無言で下がる。その隙間すきまめるようにしてカルレッツがニコルの前に立ち、それから少し離れてダクローが二人を見守る位置に自分を立たせた。


「そのふらつき具合だと、昨夜は徹夜てつやで水をみ続けたようですね。真面目まじめなものだ」


 ニコルは答えなかった。剣を杖にせず、あしのみで体を支えるだけで精一杯せいいっぱいだった。


「――どうです? 私たちと取り引きしませんか?」

「…………取り引き…………?」

「ええ。取り引きです。まあ、よく聞いてください」


 端正たんせいな顔で目を細め、余裕よゆうたたえてしゃべるカルレッツに対し、ニコルはふるえる手で兜を外す。汗止あせどめに巻いた布もぐっしょりとれ、疲労にかりきった顔が下から現れた。


「まあ最初は私たちも、目障めざわりな君を追い出そうとはしていたのですが、君に利用価値があるのを知りましてね。君はゴーダム公爵こうしゃく閣下だけではなく、奥方おくがた様にも大変気に入られているとか」

「それが…………」


 どうかしたか、とまでニコルは言葉にできなかった。


「簡単なことですよ。奥方様の君への思い入れは並大抵なみたいていのものではないらしい。君がその気になれば、奥方様に取り入るなど赤子の手をひねるようなものでしょう。そこで、君に私たちの待遇たいぐうをもっとよくしてもらえるよう、奥方様にお願いしてもらいたいのですよ」

「――――」


 背後でうでを組んでいるダクローがチッ、と舌打ちするのは二人の耳には聞こえなかった。


「君を追い出したところで私たちは一エルももうかるものでもないのでね。私たちの願いを聞いてくれれば、今私たちが君にしていることをすべぱらいますよ。奥方様に君をイジめているとにらまれるのもそれはそれで損ですからね。――どうです?」

「お……お断りします……」


 その短い一言だけは、息も絶え絶えのはずの少年から、鮮明せんめいに発せられた。


「す……少しばかり、目上の方に、気に入られているといって……それにつけ込むなんて、騎士の……騎士のすることでは…………ありません…………」

「このままだとここにいられなくなりますよ? 君のその信念なら、自分の苦境をうったえることもできないのでしょう。ダクローがそう言ってましたが、本当のようですね」

「こんなこと、やめに……やめに、しませんか…………」


 ニコルのひざががく、と下がる。木剣の先が杖として床につけられ、転倒てんとうまぬかれた。


「あ……あなたも、騎士団に所属する人間でしょう……あなたがやろうとしていることは、騎士にあるまじき行い…………」

ふるいなぁ」


 カルレッツがぶん、と木剣を大きく振りまわし、ニコルのかたを防具の上から打ち据えた。

 打撃にニコルの体勢が大きくくずれ、片膝かたひざが床に着く。剣は肩に張り付いてニコルをさえつづけ、少年の膝が床から離れることを許さなかった。


「君は旧い価値観でガチガチの人間なんでしょうけれどね。君と志を同じくする人間なんて、この訓練場にいくらもいませんよ」


 いつしか二人のやり取りを見守るために訓練の手を止めていた騎士見習いたちが、その言葉にびくり、と体を小さくねさせた。


「騎士の忠節と礼儀れいぎなんて、もうかびが生えた概念がいねんなんです。ここにいるほぼ全ての人間は、騎士になることが自分の利益になる、ただそれだけで昇格しょうかくを目指しているんですよ。――まあ、騎士になんぞならなくてもいい人間もいるんですけれどね。私とかね」

「……なら、何故なぜここに……」

「騎士見習いの身分だけで十分はくが付くからですよ。仕事や訓練を全てなまけていても、この銅色あかがねいろ徽章きしょうだけで世間の尊敬は十分受けられる。そして、父の力のおかげで快適だ。こんな所で朝っぱらからあせを掻く、なんて馬鹿ばかなことをしなくてもいいんですよ、私はね」


 えりに付いた徽章を指で指し、カルレッツは満面のみをかべた。


「父の力は絶大なのでね。ここに納入される物資のほぼ全てが父の手を経る物だ。昨日きのうの夕飯に出た魚のもの、あれだってこんな内陸まで父がわざわざ運ばせてきた物なのですよ。ああ、今日きょうの朝食でも魚料理が出るらしいですね。美味おいしいですよ。このままでは、君はそれも食べられないかも知れませんが。おなかが空いているでしょう?」


 気を抜くと下を向いてしまいそうになるほどの疲労感ひろうかんの中で、ニコルは眼差まなざしだけはまっすぐ前を向いていた。そんなニコルの目、ひとみおくに宿っている光に気づかないカルレッツは、悠然ゆうぜんと演説を続けていた。


「君には選択肢せんたくしなどないと思いますがね。自分でじににしたいというのなら別ですが、この騎士団に居続けたいのなら、私たちに協力するしかないんじゃないですか? そこをまえてもう一度よく考えた方がいいですよ――答えは、この場でしてもらいますが」


 ニコルの顎をカルレッツの剣の先が持ち上げる。そのまま少し腕をせば、木剣といえども少年ののどを打てる位置だった。


「君にも小遣こづかいぐらいあげますよ。君の家は大変貧しい家だとも聞いています。変な意地を張って全てをなくすより、もっとかしこい立ち回りがあるでしょう。子供でもわかる理屈りくつですからね。……と、まあ賢くない君に長々と理屈を聞かせてあげたわけですが、そろそろお返事をいただきましょうか。それで、返答は?」

「断る」


 顎をとらえた木剣の切っ先をニコルの手が払った。

 払った向こうに、疲れっているはずの少年の目の奥で鋭く光る瞳が、心を射貫いぬきかねない強烈きょうれつかがやきを発していた。


「断る! そんな愚劣ぐれつな取り引きには応じられない! はじを知れ! このおろか者が!!」

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