「最下層の小者」

 一カロメルトははなれた小川まで出向いてバケツ二十はいの水をみ、それを運んでもどって水汲みずくみ小屋の水槽すいそうの中にそそむ――レプラスィスの協力のおかげで負担は減ったとはいえ、一回の往復で四十分はかかる作業を、朝までに百回かえさなければならない。


 ――そんなことが、可能であるはずがなかった。


「く、あっ…………」


 東の空が白々と明けて行くのを見やってニコルは、水汲み小屋の側でくずちた。牽引けんいん荷車につながれたままのレプラスィスがそんなニコルの元に歩み寄り、胸から前にたおれ込み顔の半面を地面につけて動かない少年のほおを舌でめる。


「――大丈夫だいじょうぶだよ、レプラー……。ちょっとつかれただけだ…………」


 日が暮れきり、明けるまでの間、小さなランプのともりをたよりに厩舎きゅうしゃ群と小川を往復し続け、それでも水槽に注ぐことができた水の量は、全体の二割がいいところだろうか。


 大量のあせを吸って重くなった服が燃えるように熱い皮膚ひふの温度を吸収して発散させず、体が熱のかたまりになっている。


 疲れが骨のずいにまでみ込み、えがたい空腹感が胃をし、気力がいて来ない。レプラスィスが悲しそうな目で見つめてくれるからなんとか体を起こさねばと思い、ニコルは数十秒をかけて地面から体をがした。


「はぁ…………」


 次の往復を初めてしまうと、早朝の訓練に間に合わなくなる――そのために休んでいるニコルは、今まで静まりかえっていたはずの厩舎群にざわめくような人気ひとけが生まれるのを、疲労ひろうのために遠くなっている耳で感じた。


「おい、そんなところでへたばってるんじゃねぇよ!」


 えり銅色あかがねいろ徽章きしょう――騎士きし見習いの身分を示すを徽章をつけた見知らぬ少年が、汗とホコリまみれで疲れった顔を見せているニコルを怒鳴どなりつけ、周回走路トラックの方に歩いて行く。


「そっか……朝の訓練の時間なんだ……」

「大丈夫かい、ニコル」


 背後から聞こえたその声には聞き覚えがあった。ニコルはその声の方にり返ろうとしたが、思ったほどの半分ほども体は動いてくれなかった。


「マ……マルダム先輩せんぱい…………」

「敬語はいいっていったろう? マルダムでいいんだよ。――ああ、ずいぶんやられているみたいだねぇ……」


 昨日きのうの午前、挨拶あいさつた時の少年の印象からはかけ離れるほどによごれ、疲れ切っている少年の姿にマルダムはその丸顔に暗いかげを落とした。


「同情するよ。ぼくも二年前から散々やられているからね……あいつらが僕を追い出さないのは、僕を追い出したら自分たちの仕事を片付ける人間がいなくなるからだよ」

「どうして、僕を追い出そうとするんでしょうか……」

「君が立派な騎士見習いだからね」


 マルダムは苦笑くしょうした。


「僕みたいな愚図ぐずは視界に入ってもムカつかないだろうけれど、君みたいに騎士道きしどう精神を体現した人間は気にさわるんだろう。君を見ていると自分たちがみじめに見えてくるんだ」

「そんな理由ですか……」

「ゴメン、もうそろそろ離れるよ……君を助けてあげたいけれど、それが周りに知れると僕への風当たりも厳しくなるんだ」


 そう言った時には、マルダムはすでに他人のふりをしていた。ただニコルの近くに立っているだけだというていよそおっている。


「君はすっかり有名人だよ。みんな君の噂話うわさばなしで持ちきりさ。心当たりがあるだろう?」

「……ええ……」

「君はなんにも悪いことはしていないのにね。騎士団に残りたいのなら、早めに公爵こうしゃく閣下にうったえた方がいい。それで何とかしてくれるよ。じゃあ、僕はこれで……」


 マルダムが数百人が集まりだしている周回走路の方にけていき、ニコルも少しだけ間隔かんかくを空けてそれに続いた。


「――公爵閣下に、訴えた方がいい、か…………」


 それがいちばん手っ取り早い手段だろう。それはわかる。

 だが、ニコルにその気はなかった――今のところは。


   ◇   ◇   ◇



 早朝から始まった長距離走ちょうきょりそう訓練は、ゴーダム騎士団の駐屯ちゅうとん地の周囲八カロメルトを一時間で二周するというものだった。

 ニコルは、一周を走りきる直前で挫折ざせつした。


「ぐぁ…………っ」


 徹夜てつやの重労働による疲労、しかも昨日の朝から何も食べていないという空腹が、少年の体にまるで力をあたえなかった。


「おい、立て!」


 騎士見習いの訓練を担当している先任の騎士見習いが、走路の途中とちゅうでへばったニコルの姿を見咎みとがめて脇腹わきばらりつける。そんなニコルを見る者はほかにはいない――走者の列の最後尾さいこうびにしがみつくようになんとか一周を走っていたのだから。


 体のすべての関節に重いどろまり、筋肉の全部がり詰めて固まった感触かんしょくにニコルは動けない――何かを訴えようとしてものどかわききっていて声が出なかったし、そもそも言葉をひねすほどに頭も働いてくれなかった。


「まだ一周も走りきらないうちに脱落だつらくか? お前――ニコル・アーダディスだな?」

「は……はい…………」


 かすれる声で返事をする。脇腹を蹴られた抗議こうぎよりも、言葉もわしたことのない相手に名前どころか名字まで覚えられていることに軽く絶望した。

 自分のことがわたっているというのはどうやら、比喩ひゆでも誇張こちょうでもないらしい。


「そんなことでよくこの騎士団に入れたな! どんな縁故関係コネをつないだか知らんが、お前のような者ばかりで騎士団の質は下がる一方だ! 邪魔じゃまだ――そんな所でていると、帰ってきた奴等やつらつぶされるぞ!」


 踏み潰される前のニコルを軍用長靴ブーツの分厚い底で蹴り転がし、先任見習い騎士は出発地点近くの周回走路からニコルを追い出した。


「まあ、まあまあまあ、そんな乱暴にすることはないでしょ、旦那だんな。この方はあっしが邪魔にならないところにお連れしやすから」


 うめき声のひとつも出せなくなったニコルを、横から小走りで駆けってきたひとりの男がこした。


「あ? なんだ、お前か」


 五十さい近くに見えるほどの年かさのその男の姿に、先任騎士見習いの目が細められる――『いつものやつが来たか』とそのひとみが言っていた。


「フン。ニコル、お前が脱落したことは記録して公爵閣下に報告しておく。適性のない騎士見習いを監督かんとくするのもおれの役目だからな。まあ、すぐにそれでこの騎士団から追い出されるというわけじゃあない――せいぜいが、じゅん騎士に上がる際の減点評価になるだけだ」

「…………」


 ニコルは反論する気も起きなかった。えと疲れと、今し方蹴られた箇所かしょの痛みをこらえるだけで精一杯せいいっぱいだった。


「連れて行くんなら早く連れて行け」

「へっ」

「……と、俺がこいつを蹴っていたことは公爵閣下に告げ口なんぞするんじゃないぞ」

「あっしはしがない小者でやんすから。閣下に口を聞いてもらえるなんぞありませんわ」

「そうだな。お前は表で閣下に挨拶をしても、無視されるほどだからな――もうとっくに四十をえているっていうのに、お前みたいなのにはなりたくないもんだな」

「へへっ、おずかしいこって」


 まだ二十歳にはならない若い騎士見習いが言い捨てて去って行くのを、ほとんど最敬礼の角度でその年配の男は頭を下げて見送った。


「――旦那、旦那、しっかりしてくだせぇや」

「あ…………う…………」

「ちょっといけねぇな、こりゃあ」


 動けないニコルの体を軽々とかたかつぐと、男はニコルを厩舎群の一角、レプラスィスたちが入っているニコル担当の厩舎の前まで運び、わらが積み上げられている上に少年の体を横たえた。


「み…………」


 自分で立つどころか、目を開ける気力まで失われている少年が、ふるえるくちびるから小さな声をらす。


「水を……」

「水を飲みたいんで?」

「水汲み小屋に……水を持ってこないと……」


 ニコルの口元に耳を寄せた男は、思わず苦笑いしてしまった。この少年はこんな目にいながら、自分がこわしたとされている水汲み小屋の水のことを心配しているのだ。


「旦那、安心してくだせぇな。水汲み小屋の管の故障ならあっしが直しておきやした。水はしっかりながれ込んでおりますや」

「そう……それは…………」


 ありがとうと少年はつぶやいたようだったが、男の耳にそれは音として聞こえてこなかった。


「それより旦那の口に水を入れないと。今、井戸いどから冷たい水を汲んできますから、待っててくだせぇや」

「あなたの…………」

「へっ?」

「あなたの、お名前は……」

「ああ、あっしでやすか」


 本当はもっと言葉をつなげたいのだろうが、それが限界らしい少年の負担を少しでもやわらげてやりたくて、男は素直すなおに名乗る気になった。


「あっしの名はダリャン。このゴーダムのおうちに長く仕えている小者ですわ。あなたなんて言われるほどの人間ではないんで、気軽にダリャンとお呼びくだせぇや――ニコルの旦那」

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