「ニコルの平穏な、最後の夜」

 ずぶれになったニコルはゴーダム公爵こうしゃくてい母屋おもやに通され、一家が使っている蒸気風呂じょうきぶろを特別に使わせてもらった。


 蒸気風呂の湯殿ゆどの――となり焚場たてばかまで湯をかし、蒸気だけを送られる部屋へやせまい。腰掛こしかける大きな台が二つ向かい合わせにしてもうけられており、人間ふたりがそこにすわればもういっぱいになってしまうくらいの空間しかない。


 少ない蒸気で部屋を満たし、温度と湿度しつどを最大限に上げなければいけないそのこぢんまりとした部屋で、ニコルは満たされた熱い湯気の中で体中の毛穴が開くのを感じていた。


「気持ちいい……」


 皮膚ひふだけでなく頭皮のすべてがしきれなかったあせしぼり出して、少年のはだすべちていく。時折かたわらの水桶みずおけから水をすくい、頭のてっぺんからかけてニコルはその温度差の感覚に体のおくから満足の声を上げていた。


 ごくごく限られた家族しか使わないだろうという奥にえられた蒸気風呂の部屋は、ニコルが王都でよく見るそれと作りは大したちがいはない。公爵の館の設備ということで特にぜいがこらされているわけでもなく、その違和感いわかんのなさが違和感につながっていた。


「でも、風呂は体が温められてよごれを落とせればそれでいいんだ……」


 皮膚を固い植物の実でこすると、うっすらとかんだあか面白おもしろいように落ちていく。体全身を包む熱気が体のしんにまで浸透しんとうしていくのが感じられて、ついさっきまで濡れた体に風を受けて半ばこごえそうになっていたのがうそのようだった。


 体の全部を桜色に染めたニコルは最後の幸福なうめき声を上げ終えると、最後のトドメとばかりに冷水を四はいも頭からかぶり、流れ落ちていくしずくの全部をタオルでぬぐい去り、笑顔えがおで隣の焚場たてばに向かって声を投げた。


「ああ、そろそろ蒸気を止めてもいいですよ。もうすぐ出ます。ありがとうございました、本当に気持ちよかったです」

「それはよかったです」


 蒸気を送る小さな口を通した隣の焚場たてばから聞こえてきたサフィーナの声に、ニコルは台からずり落ちそうになった。


「な、ななな、なんでそこにサフィーナ様がいるんですか!?」

わたし湯釜ゆがまを焚いて、蒸気をそちらに送っていましたから」


 かべに手をついて立ち上がろうともがいているニコルに、無慈悲むじひなくらいにまるで冷静なサフィーナの声が答える。


「こ、こういうのは、メイドとか下働きの人間がやるものなのではないのですか!?」

はできる人間がやればいいという方針なのです。ニコル、あなたもこの家にいることになったのですから慣れてください――湯気加減はどうでした?」


 焚場たてばとつながっている蒸気口、その上にある、両手の人差し指と親指を細くつなげたくらいの小さな引き戸がシャッという音を立てて開いた。


「わああああ!」

「あ、見えないではないですか」


 開いた引き戸の隙間すきまにのぞいた、のぞこうとしてきたサフィーナの目を厚い湯気の向こうに見た瞬間しゅんかんに、ニコルはそこを手でふさいでいた。


「どうして開けるんですか!!」

「湯気の様子を見ようと……」

「湯気以外も見えてしまいます! ゆ――湯気の様子はいいですから、引き戸をお閉めください!」

「ですが、湯気の様子を見るのはここで湯を焚く私の責任であり義務ですから……」

「もう必要ありません! ほら、もう換気かんき用の窓を開けました! 部屋が湯気で満たされている必要はありませんので!」


 湯気でほてせられた以上に顔を赤くしたニコルが、隙間にタオルをんでふたをした。


「サ、サササ、サフィーナ様、ずっと湯気を送ってくださりありがとうございました! ぼ――ぼくはこれで失礼しま――――あいた!」


 焚場たてばと反対の方に設置された、脱衣所だついじょ兼用けんようの上がり場にニコルはのがれようとするが、濡れた木のゆかに足を滑らせてひざを打った。


大丈夫だいじょうぶですか?」


 ニコルが今し方開けた、屋外に通じる換気用の小さな窓いっぱいに今度はサフィーナの顔の全部が現れていた。


「サフィーナ様ぁ!!」

「いえこれは、痛みをうったえた声が聞こえたので確認かくにんをと……あ、可愛かわいいおしり」


 ニコルはばした手で、その換気用の窓をぴしゃりと閉めた。



   ◇   ◇   ◇



 騎士きし団入団の素質を調べるための試験、そして冷え切ってしまった体を温めるべく入浴を済ませた後も、ニコルはそこそこいそがしかった。


 ほうほうのていで風呂から上がり、用意されていた小綺麗こぎれい衣装いしょう――騎士見習いとしての軍服を着たニコルは、退出の挨拶あいさつうかがうため公爵の執務しつむ室におもむとびらを開けた瞬間、その奥に写真機が据えられ、数人の写真技師が詰めているのを見た。


「これから閣下が写真をられるのですか?」

「お前を撮るんだ」

「え?」


 総勢四千人の規模をほこる騎士団を統括とうかつする主に相応ふさわしい、重厚じゅうこうな軍服に身を包んだゴーダム公爵がメイドにかみひげの形を整えられながら言った。


「お前が騎士見習いになった晴れ姿、お前の御祖母様おばあさま御母上おかあさまにお送りせねばなりませんからね」


 先ほどのどちらかというと質素しっそ気味だったドレス姿から、これから王宮にでも赴くのかというきらびやかなドレスに宝石指輪の装飾品アクセサリーで自分をかざったエメス夫人もまた、長い髪をい上げた大きな髪型かみがたをメイドたちに整えさせながら艶然えんぜん微笑ほほえむ。


「さあ、ニコルもさっさと髪にくしを通させられて」

「うわわ」


 何故なぜかこの場で正装しているサフィーナが指を鳴らすと、いま状況じょうきょうみ込みきっていないニコルに数人のメイドに寄ってたかった。


 一斉いっせいに櫛を髪に通されて形をいじくられ、その上顔にほんのりとうす化粧けしょうまでさせられたニコルは、この執務室でいちばん背景がえる角度に据えられている写真機の前に引きずり出される。


 それからは何十枚という撮影さつえいが開始された。

 一枚の写真を綺麗きれいに撮影するためには、写真機の前で息を止め最低三十秒は微動びどうだにしてはならない――そうしないと像がブレてぼやけた写真になってしまうからだ。


 笑顔を保ったまま三十秒以上を息を止め続けるのを数十回かえすという、拷問ごうもんそのものの仕打ちを受け終わり、食事のさそいを何とかってニコルがゴーダム公爵邸の外に出られたのは、もう日が落ちて完全に夜になってのことだった。


「おかえりなさい、ニコルちゃん」

「おかえりなさいなの、ニコルにいさま」

「ただいま帰りました……」


 精根せいこんてた様子で帰ってきたニコルを、コノメの母とコノメは笑顔でむかえた。


「あら、騎士見習いの服じゃないの。ニコルちゃん、試験に受かることができたのね――おめでとう!」

「ニコルにいさま、かっこいいの」

「あ……ありがとうございます……」

「って、もうつかれ切ってるっていう顔色ね。そんなに試験は大変だったの?」

「え……ええ、まあ、その……」


 試験も大変だったには違いなかったが、どちらかというとその後の方がニコルを消耗しょうもうさせていた。


「公爵様のお食事のお誘いを断らせてしまったの? 私たちを断ったらよかったのに」

「そうはいきません。こんな僕のお祝いをしてくださるといってくれたのはこちらが先なんですから。それにそのむねをお伝えしたところ、公爵閣下も奥様おくさまもご機嫌きげんそこなわれなかったようです。特に公爵閣下は僕の言葉に、大変義理堅ぎりがたいものだとおめの言葉をたまわりました」

「それならよかったわ。ゴーダム公爵様は、そのご一家は大変気持ちのいい方々よ。ニコルちゃんもきっと気に入られると思っていたわ。奥様もニコルちゃんのことをとてもめていらっしゃったでしょう?」


 こんなものでごめんなさいね、とテーブルの上に料理を広げながらコノメの母は言う。それでも、母ひとりむすめひとりの裕福ゆうふくではない家庭にしては豪勢ごうせいな料理が数枚の皿やうつわに盛られて並べられていた。


「公爵様ご一家のお子様は、サフィーナお嬢様じょうさまただお一人ひとりだから……。家のためなら息子むすこさんが必要なんでしょうけれど、ついにめぐまれることはなかったのよ。私のような家にも息子は生まれるというのに、世の中はなかなか上手うまくいかないようね」

「やはりそうだったんですね」


 大きな根菜こんさいがやわらかくなるまで煮込にこまれた熱いクリームシチューをスプーンですくうニコルが答える。その横でコノメがニコルにパンを手渡てわた頃合ころあいをニコニコと計っていた。


「だから、ニコルちゃんみたいな男の子が自分の家に生まれていたら、と思われるのよ。きっとこれからも可愛がっていただけるわ。ニコルちゃん、とても幸運ね」

「あ、ありがたいことです」

「――だから、少しつらい目にってもくじけず、がんばらないといけないのよ」

「えっ?」


 その台詞セリフだけしずんだように聞こえたニコルが顔を上げた時には、コノメの母はエプロン姿の背中を見せていた。


明日あしたも早いのでしょう。食べ終わったらすぐに休んでしまいなさい。コノメ、ニコルちゃんの邪魔じゃまをしてはダメよ」

「はーい、なの」


 コノメの母が、汚れた皿をカゴの中に入れて家の外の洗い場に出て行く。

 ニコルは閉まった扉を見つめ続け、自分の心で引っかかった言葉の意味に首をかしげていたが、コノメが差し出してくる大きなパンに視界をさえぎられた。



   ◇   ◇   ◇



 ニコルはる前に手紙を書いた。ゴッデムガルドに無事到着とうちゃくしたこと、ゴーダム公爵騎士団の入団がかなったことをリルルに報告する手紙だった。


『――今日きょうは一日のうちに本当に色々なことがありました。その一件だけで一通手紙が書けそうなほどです。ひまを見つけることができましたら、その出来事についてくわしく記したいと思います。

 僕はこのゴッデムガルドでがんばります。リルル、あなたとの約束を守るために――』


 便箋びんせんに手紙を入れてふうをし、明日の朝いちばんに郵便局に向かおうと心に決めてニコルは用意されていた寝台しんだいもぐり込み、潜り込んで一分とたずにねむりの世界にいざなわれた。


 百六十カロメルトの旅をして今朝けさこの街にたどり着き、今日また三カロメルト以上を馬で走った体はくたくたに疲れていた。


 あかりが消え、少年の寝息ねいきが聞こえ始めた狭い部屋にひょっこりとコノメが顔を見せ、しのあしで寝台近寄りニコニコとした顔で布団ふとんの隣にはいり込んできたことにも、夢を見られないほどに疲れ切っていた少年が気づくことはなかった。

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