「授けられた翼」

 ゴーダム公爵こうしゃく愉快ゆかいだった。こんなに愉快なことはこの数年、なかったと言い切ってもよいほどに愉快だった。


 力をおさえ試験者を勝たせるのが常道の入団試験に本気を出し、たとえ相手に相当の有利ハンデあたえていたとしても、勝って当然の競争に負けたというこの事実――しかもその敗因を考えると、笑うしかなかった。


「ふぅっ!」


 ゴーダムこう手綱たづなを強く引き寄せ、ガルドーラの両前脚まえあしを大きくげさせる。巨大きょだい馬体ばたいを後ろの二本脚にほんあしで直立させ、柱のようにそそり立たせたガルドーラの背でゴーダム公はあぶみにかけた足をらせ、体を支えた。


「ははは、負けた――負けたな! これはしみだが、馬上むちさえ持っていればわたしが勝っていたのだがな! しかし、負けてこんなに爽快そうかいだったのは初めてだ! まったくニコル、お前は面白おもしろい――面白い少年だ!」


 ニコルを乗せたレプラスィスはその激走を止めない。終点近くで停止したゴーダム公を尻目しりめに、周回走路の直線を走り続けていた。


「ニコル、どうした。止まるがいい。私にお前をたたえさせてくれ――」

「閣下っ!!」


 土煙つちけむりを巻き上げ、速度をゆるめもしないレプラスィスから聞こえてきたニコルの悲鳴に、ゴーダム公の笑顔えがおはしくずれた。


「レプラスィスが止まってくれません! レプラー、止まってくれ! レプラー! レプラー!!」

「――いかん!」


 ゴーダム公とオリヴィスの口から同じ言葉が飛んだ。反射的にオリヴィスが投げた馬上鞭を空中でひったくるように取ったゴーダム公がそれでガルドーラのしりたたく。放たれた矢の速度で巨馬きょばがレプラスィスを追ってした。


「レプラー! レプラー! レプラスィス! どうしたんだ! ぼくたちは勝ったんだ! もう止まっていい――止まってくれ、止まるんだレプラー!!」


 暴れ馬のように――いや、暴れ馬そのものになったレプラスィスの背中にニコルが必死にしがみつく。ゴーダム公が駆るガルドーラの猛追もうついかわすため、理性まで本能にそそんでレプラスィスが野生の速度を引き出したのだ、ということは理解できた。


 問題は、すべての血、全ての神経、全ての筋肉を限界まで熱させて走ったレプラスィスが自分を冷ませることができず、極度の興奮状態のままそこから覚めることができない、ということだ!


 そして、前のめりにたおつづけることで可能な限りの速度を引き出したレプラスィス、その彼女かのじょが前に前にとり出すそれぞれのあしの動きが、乱れに乱れている。四本の脚で走っているからまだ転倒てんとうにはおよんでいないものの、この乱れがいずれもつれにつながれば――。


「こ……この速度じゃ、飛び降りたら地面で何十回転がることになるかわからない!」


 周回走路の直線を走りきり、コーナーの入口に入らずにレプラスィスは周回走路を飛び出した。つめの大きさの石さえも手でまんで取り除いていた地面が、小石が目立つ砂利じゃりが混じったものになる。


 飛び降りるなら、周回走路をける前にするべきだった――ニコルは自分の判断のおそさをのろい、次の瞬間しゅんかんにはそれを考え直した。


「ダメだ! それじゃレプラーが危険になる! 僕がレプラーを制御せいぎょしてあげないと、レプラーがこの速度で転倒してしまう!」

「ニコル!」


 ニコルの勝利に心をたせていたサフィーナが、ようやくニコルの異常に気づいて顔色を変えた。となりに立っているエメス夫人も、ニコルが馬を停止させないどころか、明後日あさっての方向に向かって疾駆しっくしていくその姿を見送って目を白黒させている。


「え? え、え、ええっ? ニ、ニコルはなにをしているのです? は、早くこっちにてくれないと。思い切りきしめてあげようと思っていたのに――」

「そんな悠長ゆうちょうなことをいっている場合ではありません! ニコルは――ニコルは、あの速度で馬ごと転倒しそうになっています!!」

「――――はぅ」


 意識を失ったエメス夫人がむすめに向かって倒れ込み、サフィーナはかろうじてそれを支えた。


「ニコル! 今行くぞ!」


 ガルドーラに鞭を入れて全速を引き出し、レプラスィスを猛追するゴーダム公がさけぶ。


「私が隣に並んでお前をレプラスィスからがす! 今少し、今少しえるのだ!!」

「――いけません閣下!!」


 振りかえ余裕よゆうなどないニコルの、引きつりきった声が返ってきた。


「僕がレプラーからはなれれば、レプラーはこの速度で転んでしまいます! そんなことになれば骨折はまぬかれません!」

「馬のことはいい! 馬ごと転べばお前の命がないぞ!!」

「レプラーを見捨てることなんてできません!!」


 感情の全てを煮詰につめきった弾丸だんがんごとき声が、ゴーダム公の胸を打った。


「レプラーは、レプラスィスは僕の気持ちにこたえようとしたために、こんな危機におちいっているんです! そんなレプラーを、僕は助ける義務がある! 責任があります!!」

「ニコル…………!」


 愛馬に鞭を打ち続けていたゴーダム公の手が止まる。今日きょう初めて乗ったばかりの馬をおもう少年の気持ちに、それ以上の言葉をぐことができなくなっていた。


『だ……だが、どうするというのだ!』


 我を忘れ暴走する馬をニコルは制御できない。今はニコルの体重移動でなんとか馬体の重心を取り、転倒を辛うじて免れ続けているが――それもあと数分もたずに失敗することは目に見えていた。


『ニコル、想いだけでは、勇気だけでは困難は解決できないぞ! その勇気と合わせる知恵ちえがお前にあるのか! どうするのだ、ニコル――!』

「どうする……どうすればいい! 考えろニコル!」


 次の瞬間、いや、今この瞬間にもレプラスィスの体勢が大きく崩れ、時速七十カロメルトをえる速度で地面に叩きつけられる恐怖きょうふに耐えながら、ニコルは自分を叱咤しったし続けていた。


「頭を冷やして考えるんだ! 何か、何か使えるものはないか! 転ぶのがけられないなら、この速度で僕たちが転倒しても安全な場所! やわらかいわら布団ふとん――なんでもいい! 何か、何かあるはずだ! 考えろ、ここに来るまでに何があった!?」


 前方にあるのは記憶きおくにある景色けしきだ。自分たちはそこを通って馬術訓練場をおとずれたのだから。だからそこにあるものは目に入っている、記憶の中にあるはず!


「しかし、こんなものすごい速度でっ込んで、僕たちが無事でいられる場所など……!」


 ふっ、とそれがニコルの鼻をかすめたのは、そんな時だった。

 ける風のかべの中にあった、冷たく湿しめった気配が少年の感覚を刺激しげきする。天啓てんけいを受けたように馬上のニコルがひらめく――このにおいは!


「あった! あったぞ! あったぞそんな場所が!! ――レプラー!!」


 危機の中に希望を見出した少年の快哉かいさいに、我に返ったレプラスィスが耳をねさせた。


「針路を右に! 右に少しだけ折れるんだ! そうすれば僕たちは助かる!」


 レプラーの右目がその方向をのぞく――今まで充血じゅうけつになるかと思えたそのひとみに、理性の光がもどるようにしてともった。


左前脚ひだりまえあしを、強くるんだ! 倒れないように僕が重心を取る! 僕と君とが二人ふたりで自分たちを支え合う! レプラー、力を貸してくれ! 僕も君に力を貸すから!!」

「――――!!」


 音にならない叫びを息で発したレプラスィスが、左前脚のひづめを全力で地面にち込んだ。馬体が右に跳ねて針路が折れる――反動の余波で右に倒れそうになるレプラスィスの体を引っ張り、おく歯を食いしばったニコルが体重の全てを左にかたむけた。


「よし! よくやった! よくやったよ、レプラー!」


 絶望をばしてニコルが声を張り上げる。レプラスィスの鼻の先がまっすぐ希望に向いている。あとは、十数秒そのまま直進すればいいだけ――!


「レプラー! あとは、あとはどうすればいいかわかっているね!?」


 レプラスィスは前に向かって倒れ続ける猛進もうしんの中でうなずいた。


「そうだ! あとはレプラー! 君に任せる! 柵の高さ・・・・もそう高くない――君にならできるはずだ!」


 任せておけ、とレプラーは息だけでうなった。

 今、この瞬間、少年とその愛馬は身も心もひとつにつながっていた。

 あたかも半人半馬族ケンタウロスのように、百万の言葉も一瞬いっしゅんで通い合わせることができる――。


 運命の踏切ふみきり線が前に見えている――引かれていないのに、少年と愛馬にはそれがかがやいて見えている。それはふたり・・・がこれから共に生きるための、明日あすへのラインだった。


「レプラー、行けぇぇぇぇぇぇっ!!」


 最後に残った力、そのひとしずくまでをも振りしぼってレプラスィスが跳躍ちょうやくし、人工池プール――ニコルたちが行きがけに目にした馬の訓練用の池を囲う柵を、その高さをはるかに超えて跳んだ。


「――ニコル!!」


 ゴーダム公は、その空中に見た。確かに見た。

 少年がすわる愛馬の背から、透明とうめいつばさが長くび、遠く広がって羽ばたいたのを――。


 きらめくような軌跡きせきを空中に残し、全ての脚を後方に曲げたレプラスィスが緩く、美しい放物線をえがいて高く、遠く、遠く飛ぶ。


 そして。

 海を巨神きょしん大斧おおおので叩きったかのような水柱と水飛沫みずしぶき、二つの大波を起こして、深く張られた水の向こうに人馬は見えなくなった。

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