「敗北の理由」

 長円状の周回走路トラック、その第一のコーナーを曲がり終えたニコルは、おくれて出発したはずのゴーダムこうが確実に自分との差をめつつあることを、地面が重い蹄鉄ていてつりつけられる音が後方からとどろひびいてくることで察していたが、もうそれをかえって見ることはしなかった。


「――後ろを振り返ったところで、一メルトとして差をはなせることなんてないんだ!」


 ゴーダム公がるガルドーラの巨大きょだいな気配が秒を刻むごとに近づいてくる。それが自分が駆るレプラスィスに並び、終点に達する前に自分のとなりいて行った時が、自分の夢が破れる時――それを回避かいひするにはただただ速く、速く、速く走らなければならない。


「後ろを振り返るためにぼくが姿勢をくずせば、レプラーのさまたげになる! レプラーの背に重みとして乗っている僕が、レプラーの邪魔じゃまはできないんだ!」


 青毛の馬の背にしがみつく少年がほのおの熱さをはらんだ言葉を熱い息と共にす。真後ろから聞こえるそのたぎるおもいを耳にし、全身の筋肉を躍動やくどうさせる――前に、前に、前に進むために!


「そうか、もうこちらは見ないのか。いい覚悟かくごだ」


 前をく少年、そしてかれを乗せて驀進ばくしんする馬の姿を視線の先にとらえながら、ゴーダム公は口の中でき、あふれそうになるみを殺すことで精一杯せいいっぱいだった。この数ヶ月、尻尾しっぽつかまえられない盗賊とうぞく団になやまされている鬱屈うっくつがこの瞬間しゅんかんだけでも胸から晴れていた。


わたしはお前の姿を見ていたい。今、歯を食いしばって必死に走っているお前のその表情も間近に。そして私がお前の横に並んだ時、お前がどんな顔をしてくれるのかもな。――そのためには、お前に近づかなければならん。お前のきもを冷やさないと、お前は私にお前のすべてをさらけ出してはくれないだろう!」


 ゴーダム公は愛馬の胴体どうたいかかと拍車はくしゃ刺激しげきし、第一の角に全く速度をゆるめることなくおどませた。馬上の体を左にかたむかせながら左回りの曲線走路カーブはしり抜ける。前方のニコルは第二の角をようやく抜けようとしているところ――差は四百メルトほどに縮まっている。


「く――――!」


 背中を火であぶられるのに似た心理的圧力に胸の内を焼かれながら、急流を流れ落ちる船に身を任せるのと変わらない心持ちでニコルはレプラスィスの手綱たづなにぎりしめていた。


 ニコルが第二の角を抜け長い直線の真ん中に入るころには、ゴーダム公が第二の角の終盤しゅうばんに入ろうとしている――やはり少しもき離せない!


「いや! 離せるわけがないんだ! 僕は、僕たちは、閣下に抜かれる前に終点に入ってしまえばいいんだ! それで僕たちは閣下に勝ったことになる! レプラー! お願いだ! がんばってくれ!」


 今までに体験したことのない、風を切りく速度と体とたましいげてくる激しい震動しんどう。自分の体をつぶしにかかってくる激しいふたつの力に真っ向からあらがいながら、歯を食いしばってニコルはえる。


 ニコルの頭には、たとえこの勝負に負けたとしてもゴーダム公が自分の健闘けんとうを評価して入団を許してくれる、などという灰色の発想はなかった。ゴーダム公は言い切ったのだ。この勝負に負ければ、入団の資格を失う、と――。


「そんなことは許されない! 僕は――僕はゴーダム騎士きし団に入りたい! 騎士公爵こうしゃくの異名を持つ閣下に仕えたい!」


 背後からせますさまじい山津波やまつなみに似た迫力はくりょく――それからのがれるために、ニコルはレプラスィスと一体となって走り、走り、風をけて走った。


「僕は今日きょう初めてこのゴッデムガルドにたばかりなのに、たくさんのいい人と出会った! 元気なコノメ、やさしいコノメのおかあさん! 僕のことを気にけてくれる奥様おくさま! そして明るいサフィーナお嬢様じょうさまに、あこがれのゴーダム公爵閣下――それに、レプラー!」


 ニコルがえる。レプラスィスの首にあごを乗せるように身を縮め、少しでも空気抵抗ていこうを小さくしてレプラスィスの負担にならないために。


「君もそのひとりだよ! 今ここで僕たちが負けたら、僕が君に乗って走れるのはこれ一回きりになってしまう! 僕はそんなのはいやだ! 僕は君を素晴すばらしい馬だと思う! 君のことが好きだ! 君にまたがれている今が! 君と走れている本当にうれしいんだ!」


 激しい猛進もうしんの中でレプラスィスの両耳が、目にわかるくらい大きく動いた。


「僕は君を信頼しんらいした! 君が全力を出し切ってくれるなら、たとえ負けたとしてもあきらめられる――だから、君が僕のことを相棒と認めてくれているなら! 僕に君の力を貸してくれ! 君の、ありったけの力を! ありったけの速度を!」

「――――――――!」


 レプラスィスののどおくから、言葉にならないさけびが吐き出される。彼女かのじょの目が細められ、前の一点を見定めた――ニコルと一体となって走る、自分の前方に固定されている勝利に向かって。


「むっ!?」


 レプラスィスが切る風の尻尾をつかんだ――そう確信しかけたゴーダム公が目を見張った。速度を上回ることで手繰たぐせるように近づいていたレプラスィスとの距離きょり一瞬いっしゅん、離れたように見えたのだ。


錯覚さっかくか!?」


 それは半分正解だった。これが頭打ちだと思われていた全速力のレプラスィスが、さらにその上の全速を出し始めたのだ。速度は依然いぜんゴーダム公のガルドーラの方が優っているが、開いていた速度差は確実に縮まった――少なくともゴーダム公はそう認識にんしきした。


「ここから加速するとは! まだあし余裕よゆうが残っているのか!」


 見えないつばさがその背に加わったかのように、風をき抜けて走るレプラスィスの疾駆しっくびる。いや、翼は彼女の背に跨がっている少年の背中から生えていたのかも知れない。

 どちらにしろ、同じ事だ。ひとりと一頭は今まさに、ひとつの心で走っているのだから。


「レプラー! 行けぇぇぇっ!」


 第三のコーナーにレプラスィスが突入とつにゅうする。左曲線を全速で駆ける時の遠心力で右に飛ばされそうになるのを、咆哮ほうこうを発したニコルが体重を左に振ることでこらえる。一歩の前身すら緩めないという、確固たる意志に従って!


「よくやる――よくやっているぞ! ニコル!」


 ニコルが第三の角の出口を飛び出すと同時にゴーダム公はその入口にび込む。二者の差はもう二百メルトもない。差は縮まっている。同じ調子テンポで走るレプラスィスとガルドーラ、両者の体格の差だけ確実に縮まって行く。


「しかし、残念だな。ここまでだ。私はお前を捉えた。ガルドーラは最後の末脚すえあしを温存している――お前にち込むトドメとしての末脚を!」


 この白熱する勝負に、今更いまさら手加減という名の差し水をすることなど欠片かけらも頭にないゴーダム公は、天地がれるほどの激震げきしんの中で微笑ほほえんだ。情熱の全てを出し切って走るあの少年を追い抜き勝利することで、少年の尊敬を受けたいという素直すなおな気持ちが今、自分をひたすらに走らせていた。


「そして、それを使うまでもなくもうすぐ追いつく!」

「――閣下!!」


 第四の角の真ん中で、ついにガルドーラはレプラスィスのかげんだ。高速度の疾走しっそうの中でそのままじりじりと差は縮まり続け、角の出口を抜け最後の直線、残り二百メルトの地点で完全に二頭の鼻先は並んだ。


「捕まえたぞニコル!!」

「くっ!!」


 もつれるように二頭は平行して直線の走路を走る。残り百五十、百四十、百三十――!


「ニコル! 終点ゴールまでもう少しです! がんばって!」

「あともうちょっと、もうちょっと――! ニ、ニコル、負けないで、負けないで!!」


 興奮のあまりに語彙ごいをなくしたサフィーナとエメス夫人が、目の前を重なって駆け抜けていった二者が残した土煙つちけむりかたまりをそこに目撃もくげきした。オリヴィスが息を殺して待ち受ける最終地点まで、あと百メルト――。


「っ!」


 レプラスィスの脚が、さらに伸びた。走るというよりは前方に転がるのを延々とこらえ続けるように、体を前に投げ出す勢いで前に、前に、前に駆ける。ここで初めてレプラスィスがガルドーラとの距離を、わすか鼻の差、わずか鼻の差だが、確かに離した。


 全身の血が沸騰ふっとうする熱を皮膚ひふという皮膚からき出してレプラスィスが、限界の限界を突破とっぱして加速した。

 その、あり得ない現象を前にしてもゴーダム公は顔色を変えなかった。予想外の、常識外の加速であったとしても、それは脅威きょういとなるほどのものではなかったからだ。


「お前を勝利でかざってやれなかったのは残念だが――し込むぞ、ニコル! 最後の追い込みだ! ガルドーラ、いいな!」


 ゴーダム公が右手を大きく後方に伸ばし、振り上げる。残るわずかの八十メルト、最後の最後まで温存しておいたガルドーラの末脚で少年にトドメをすのだ。

 右手に握った馬上むちで、ガルドーラのしりを打ちまくることで!


「行け、ガルドーラ!! お前の最後の伸び脚を――」


 渾身こんしんの力を込め、右手を右後方に力強くしならせ――ゴーダム公は、あるはずの手応てごたえの皆無かいむさに、目を見開いた。


「――なに!?」


 そして次の瞬間、気がついていた。

 自分が馬上鞭など、最初から持っていないことに。

 その理由わけは、刹那せつなの時間を置くことなく思い出せていた。


『鞭は使ったことがありません。たたかなくても馬は走ってくれます』

『では、私もその考えにならうとするか』


「――はは」


 最後の急加速を行わなかったガルドーラの背で、ゴーダム公は笑った。


「ははははは」


 笑うしかなかった。

 最後の最後で、自分がいつものくせのために、とんでもないヘマをしたことに――。


「ははははははははは!!」


 わずか鼻の分だけ抜け出したレプラスィス、それを追うガルドーラの差が縮まることはそれ以上、なかった。

 二頭と二人ふたりはひとつの塊になったように最後の数十メルトを駆け抜け――最終地点の白い線、その線で結ばれた棒と棒の間を、レプラスィスの鼻が最初に達した。


「――ニコル!」


 二頭が発する馬蹄ばていの響きと土煙、その両方を存分に食らったオリヴィスが最初に発した声は音にはならなかった。あまりの緊張きんちょうめに息をするのを忘れ、酸素が足りなかったのだ。


「しょ――勝者はニコル! 一着はレプラスィス! 鼻の差でレプラスィスの勝利!!」

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