「疾走する」

 十頭ほどの馬が並んで疾走しっそうできるほどのはばがある周回走路トラックは、ニコルがその場で見た範囲はんいの限りでは、小石ひとつ落ちていない、真っ平らの土が広がり白い石灰せっかいラインが鮮やかに引かれている、整備されくしたものだった。


 広大な長円状の走路の一角を成す曲線カーブの終わり目に、走路に対して垂直に引かれた白い線――その線の両端りょうたんに、人間の背丈せたけくらいの細い棒が立っている。


 それが意味するところはニコルにもわかった。この二本の棒、そして引かれている線が競争の出発点であり終点で、接戦の場合はその二本の棒と線を基準にして勝敗を判断するのだろう。


 今まさに、それぞれに騎乗きじょうしたニコルとゴーダムこうは基準の白線を自分の馬にませて待っていた。


規則ルールはいたって簡単だ」


 わずかに興奮し鼻を鳴らしている愛馬の横顔を手のひらででて落ち着かせながら、ゴーダム公はかたわらのニコルに言った。


「この周回走路は一周、約二千四百メルトある。この周回走路を共に走り、先にこの場にもどってた者が勝者となる。お前が試験に落ちる条件は、わたしよりもおくれて戻ってくるのと、落馬した時の二点だ」

「はい」


 わせている歯にほんのわずかな力が余計に加わり、かすかに顔が強張こわばっているニコルがこたえる。


「少し緊張きんちょうしているようだな。先ほども言ったが、全く同じ条件で私とお前が走っても勝負にはならん。なのでお前に有利な点をあたえる――この直線の先、曲線に入ろうとする手前に大きな赤い棒が並んで立っているのが見えるか?」


 ゴーダム公の言葉に従ってニコルは目をらした。確かに最初の曲線の入口少し手前に、ここからはっきり見えるほどに太い赤色の棒が二本、走路をはさんで立っている。その棒の間には幅広はばひろの長い紙がわたされ、そよ風を受けてひらひらとれていた。


「あれはここから六百メルト先、つまりこの周回走路の四分の一の距離きょりを示す目印だ。私はお前があれを通過するまではここから動かん。つまり、お前は千八百メルト、私は二千四百メルトを走り、どちらがこの足元の線を再びえるのが早いかという勝負になる」

「ニコル、よく考えろよ」


 審判しんぱんでもあるオリヴィスが出発点と終点を示す棒のすぐ横に立っていた。


「公はお前があの赤い棒を越えない限りここから動かれないという、その意味をな」

「わかりました。――あの赤い棒までは、ゆっくりと走っても不利にはならないということですね」

無駄むだに馬の体力を消耗しょうもうさせないようにな」

「――ニコル、お前、むちはどうした?」


 ゴーダム公はニコルの手に馬上鞭がにぎられていないことにようやく気がつき、それを指摘してきされたニコルははにかみながら言った。


「鞭は使ったことがありません。たたかなくても馬は走ってくれます。みたいと思えばその通りに。ぼくは馬を叩いてきらわれたくありません」

「ほう。面白おもしろい考え方だな。私は熱がこもると無意識のうちに叩いてしまっているが」

「いえ、これは、鞭を使う方々を非難しているわけではなく……」

「わかっている、わかっている。では、私もその考えにならうとするか」


 右手の鞭をゴーダム公は気軽に放る。それをオリヴィスがあわてて受け止めた。


「ニコル――! がんばって――!」

「勝つのですよニコル! 負けたらいけませんよ! い、いいえ、負けてもいいのです! 負けてもこの母がなんとかしてあげます! ですから落馬だけは、落馬だけはしないように! お願いですから怪我けがだけは!」


 周回走路の少し外からサフィーナとエメス夫人の声援せいえんが飛んでいた。


「おい、私への声援はないのか?」


 むすめと妻のはしゃぎように口の中が苦汁にがじるまみれになったゴーダム公が顔をしかめる。


「お父様とうさま――! がんばらないで――!」

「あなたはさっさと落馬してしまってください! ニコルが安心して走れます!」

「聞くのではなかった。ニコル、早く始めよう。あの二人ふたりが口を開くたびに私がはじく」

「は、はい。――では、行きます!」


 レプラスィスにつないだ手綱たづなをしならせ、同時にあぶみの両足で彼女かのじょの腹を軽くると、おどすようにレプラスィスはけ出した。

 最初の一歩の衝撃しょうげきが予想以上に激しかったのをニコルはこらえ、体を前にかたむけて姿勢を安定させる。


「――あの赤い棒までの間に、君の呼吸を覚えないといけないということだ!」


 見知らぬ馬と出逢であった早々に息を合わせる時間もなく、その背に乗って走らされる――冷静に考えればこの時点で相当な無茶をやらされていることに苦笑くしょうしながら、ニコルはレプラスィスを速歩はやあしの速度から駈足かけあしの速度に上げて行く。


 ここからさらに襲歩しゅうほ、全速力の速度を目指すわけだが、それは目印の赤い棒を通過する瞬間しゅんかんに達すればよいことだった。


 レプラスィスはニコルの気持ちを受けて軽快に走る。その黒いひとみがまっすぐに前をにらみ、少年の望みにうために邪念じゃねんとしている気配さえあった。

 彼女レプラスィスの心構えが強い足取りとなり、げてくる強い衝撃を下から受けたニコルは、確かな風の流れを真正面から感じて顔をほころばせる。


「いい! いいよレプラー! 君はいい馬だ! 君と心を通い合わせて走れるだけでここに来た甲斐かいがあった! さあレプラー、わかっているね! あの赤い棒を越えた時!」


 大きなレプラスィスの首、そのかげに上体をかくすようにニコルは体を小さくしてしがみつき、手綱をしならせる調子でレプラスィスに気持ちを送り続けた。


「君の全速を僕に見せてくれ! 僕も、君の気持ちに応える!」


 ひづめがきつく土の地面を叩き、少年と馬の航跡こうせきを残すようにけむりが立つ――その様を後ろからながめながら、ゴーダム公は胸の底を確かにざわめかせる確かな高揚感こうようかんを覚えていた。


「美しいものだ」


 左右の揺らぎが全く見えず、放たれた矢のようにまっすぐ、まっすぐ前に向かっていく少年と馬――最初の駆け出しこそは少しあやうい瞬間があったものの、歩を重ねるごとに人馬が一体になっていく少年とレプラスィスの姿を見ながら、ほんのわずかな時間、ゴーダム公は自分の立場を忘れた。


嗚呼ああ、嗚呼、もう本当に気が気でないわ――オリヴィス!」

「はい、奥様おくさま

「こ、この試験はあれですよね? 入団する者の馬術がきちんと基本がなっているかどうか確認かくにんするためのものですよね? わざわざ落とすために試験官が本気を出したりしませんよね?」

「その通りです。私たち試験官が本気を出せば四分の一の距離の不利など初心者相手では簡単にめられます。試験者の馬のあやつり方、姿勢などを後方について確認することが私たち試験官の役目。接戦を演出し試験者をあせらせ、突発事とっぱつじの反応を見ることもありますが」

「な、なら、万が一にもニコルが落とされるということはあり得ませんね?」

「初めての馬、しかもくせの強いことで私も敬遠するほどのあのレプラスィスを、たったあんなとしで見事に操っている。私ならこの場で合格を出したくなります――ですが」


 ニコルを乗せたレプラスィスが、目印の赤い棒を通過しようとする。レプラスィスの速度は駈足から限りなく低く、限りなく遠くにねるように走る襲歩に移ろうとしていた。


「公の横顔のご機嫌きげんそうなことを見ると、今回は例外であるようです」

「――やっぱり」


 悪い予感を的中させたエメス夫人が顔の上半分を蒼白そうはくにさせてよろよろとよろめく。そんな母をサフィーナがき支えた。


 突進するレプラスィスが赤い棒の間を通過し、渡されていた薄紙うすがみの帯を体当たりで破った。それがゴーダム公がつかむ手綱を強くしならせ、自らの馬の首に叩きつけて鳴らせる合図だった。


「それでは私も――楽しむか! 行くぞ! ガルドーラ!」


 ガルドーラと呼ばれた巨馬きょばは高くいななき、細い柱を思わせるほどにたくましいあしで地を蹴る。レプラスィスより一回り大きいはずの体格の差を感じさせない俊敏しゅんびんさで馬体が前に飛び出し、森の中に開かれた周回走路の広い空間に雷鳴らいめいのような馬蹄ばていひびきをとどろかせた。


「えっ!?」


 空気をふるわせて六百メルト以上先にも聞こえてきたその轟音ごうおんに、曲線の入口に入っていたニコルが思わずかえる。相当の速度を出しているはずの自分たちが、背中を圧迫あっぱくされるすさまじい不安感を覚えるほどの勢いを見せてゴーダム公を乗せた馬が猛進もうしんしているのだ。


「あの馬の体で!? レプラーよりもずっと速い!?」


 六百メルトの有利を与えられれば勝てるだろう、という心の余裕よゆう一瞬いっしゅんばされ、ニコルは慌てて前を向く。余裕は千八百メルトあるのではない――たった・・・千八百メルトしか・・ないのだ!


「さすがゴーダム公爵こうしゃく閣下だ! 凄い――素晴すばらしい騎士きしだ! でもレプラー、僕はあの閣下に負けるわけにはいかないんだ! レプラー、君の全速を、その全速の向こうを僕に見せてくれ! そうしないと僕たちは勝てない! 僕と君のふたりで、閣下に勝つんだ! 行くよ!!」


 背中を焼くような焦りと不安、そして同時に、こんな光栄な場が自分に与えられているという胸を熱くしてくれる幸福感に全身の細胞さいぼうを激しく震動しんどうさせながらニコルはげきを飛ばし、その檄を受けたレプラスィスは少年の願いをかなえるべく、風を追いつらぬく速度で疾走した。

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