その十「ふるさとからの旅立ち」

 フォーチュネットの庭に、少しの時が流れた。


 五ひき子猫こねこたちはすくすくと成長していった。子猫こねこたちがまだ乳離ちばなれができない時期は、リルルとフィルフィナが毎日その様子を確かめ、あまり活動的に動くことができない母ねこのためにえさあたえたりもした。


 子猫こねこたちが生後一ヶ月をむかえ、ようやく乳離ちばなれができたころ、母ねこくなった。

 元々、体が強くはなかったのだろう。子猫こねこたちが乳離ちばなれする時期まで何とか命を保たそうと懸命けんめいにがんばり、自分の使命が果たされたことを確かめてから、静かにその息を引き取った。


 一ヶ月と少しの間、親身しんみになってその面倒めんどうを見た母ねこの死に対し、リルルはわめくことはなかった。ただ、命が持つ運命の残酷ざんこくさをみしめ、れ、その両目からきることのないなみだを流しながら、くちびるみしめて悲しみにえた。


 母ねこ亡骸なきがらは、夫であったあのねことなりほうむった。

 あのねこのものとそっくり同じ墓を建て、夫婦ふうふが並んでねむれるようにリルルはフィルフィナと共に土をり、煉瓦れんがを積み上げて手をよごした。


 二人ふたりが母の墓を建て、天にのぼっていった母のたましいとむらう様を、五ひき子猫こねこたちは少しだけはなれた場所から、横一列に並んで見守っていた。別れの儀式ぎしきが終わって二人ふたりの少女が墓の前をしても、子猫こねこたちはじっとすわって動かず、ただ両親の墓を見つめ続けていた。


 両親をくした子猫こねこたちにりの手法を教えたのは、フィルフィナだった。

 最初は獲物えものの追いかけ方から始まり、動きのおそい小動物のらえ方、トドメの差し方などを監督かんとくし、五ひきの兄弟で協力して獲物えものを仕留める方法も伝授でんじゅした。


 子猫こねこたちはフィルフィナの教えを見る見る吸収し、フィルフィナがいない時でも自発的に庭を舞台ぶたいにし、虫や小動物をした。

 そして、自然に単独でのりも覚えていった――来たるべき、時のために。


 両の手で包めてしまうほどに小さかった子猫こねこたちは、生後半年で成猫せいびょうといえる大きさに成長した。リルルからは「ねこさん」と呼ぶねこと区別するために「ねこちゃん」と呼ばれ、天国のような庭でリルルとフィルフィナ、時にはニコルをまじえて走り回り、ね、遊んだ。


 笑い声の絶えない、幸福な時間が流れた。

 だれもが笑顔えがおで、幸せだった。

 春のにおいも、夏の暑さも、秋のすずしさも、冬の寒さも喜びと感じられた。

 だが、何事にも終わりは存在する。すべてが前に向かって進み続けているかぎりは。


 その時は、ねこたちが生まれて一年が過ぎ、二回目の冬をした春の入り口にやってきた。



   ◇   ◇   ◇



 ――四月。

 先週までのきびしい寒さがうそのように暖かくなり、春の到来とうらいを祝うように花がき始めたフォーチュネットていの庭で、フィルフィナはほうきを手に門から玄関げんかんに続く石畳いしだたみいていた。


 うららかな午前の時間だった。

 天の向こう側がけて見えるかのように晴れている、空。快晴かいせいという言葉をとおした、空を見ているだけで機嫌きげんがよくなるような、最高の天気だった。


 そんな気持ちのいい陽気の中で、フィルフィナはひとりだった。

 リルルは父親に連れられて朝から出かけている。つい先日、八さいの誕生日をむかえたリルルはもう、フィルフィナの背丈せたけにあと一歩という所まで身長をばしていた。


 おそらく来年には追いつかれ、再来年にはされることだろう。

 楽しみだった。

 今はわずかに視線を下げて見つめるリルルを、見上げて見つめることができるとは。


「――幸せですね……」


 幸せ。

 故郷の里で王女としてっていた時には、言葉にすることもなかった言葉だった。

 それが、この小さな世界にしがないメイドとして暮らす自分には感じられる。


「ふふふ……」


 特に変わったこともない、いつもの時間がいつものように流れる、おだやかな日々。

 フィルフィナはようやくその輪郭りんかくを見ることができていた。

 しあわせという輪郭りんかくを。


「にゃ」


 やさしい風にでられていたフィルフィナは、背中からかけられた声に手を止めた。

 かえると、石畳いしだたみの上に五ひき子猫こねこ――元子猫こねこだったねこたちが横一列に並んでいた。

 体の毛色、模様はまちまちだが、右の耳の先だけは総じて黒い猫たちだった。


「あら」


 フィルフィナのほお微笑ほほえみが乗って、いつもはきつい印象を見せるするど目尻めじりれた。


「おはようございます。今日きょうもいい天気ですね」


 フィルフィナの挨拶あいさつに、ねこたちはこたえなかった。ただ、どこかめたような真顔でフィルフィナをじっと凝視ぎょうししている。胸に覚悟かくごを決めた者が見せるひとみの色がかがやいていた。

 フィルフィナは、自分に注がれるそんな眼差まなざしを少しの時間、真正面から受けていた。


 ――そして、気がついた。


「ああ…………」


 少女の口元がほころぶ。うれしさとかなしさが混じった、複雑な形に変わる。


「あなたたち……そうですか……」


 ほうきにぎる手に、きゅっと力がめられるのをフィルフィナは自分でも気づかなかった。


「あなたたち、巣立ちをむかえるのですね……それで、今から……」

「にゃ」


 五ひきねこはうなずいた。

 一年と四ヶ月。体が大人おとなになり、発情期はつじょうきかった年齢ねんれいだった。

 自分とまじわり、子孫を残すべき相手を探してねこたちはこの庭を旅立つ。


 せまい世界に居続け、近しい者と交わるのはけなければならない。血がくなり、種としての弱さを獲得かくとくしてしまうからだ。だから、ある年齢ねんれいむかえればねこたちは生まれた場所から遠くに移動する。


 血を残すために。いだ命をがせるために。未来につなげるために。


「おめでとうございます。あなたたちも立派に育ったのですね。本当におめでとう……」


 にゃあ、とねこたちは鳴いた。親代わりであり、師でもあった少女に礼儀れいぎを通すように。


「――それで、お嬢様じょうさまとも挨拶あいさつをしたいわけですか。ですが、何と間の悪い……」


 困惑こんわくかげがエルフのメイドの面差おもざしにかかった。


「お嬢様じょうさま今日きょうは一日出かけられて、夜までもどられない予定なのですよ……」

「にゃあ……」


 ねこたちはうなだれた、そのかた可哀想かわいそうになるくらいに下がっていた。

 出発を日延ひのべしてはどうか、とフィルフィナは提案しようとしたが、言葉をんだ。


 今日きょうは、巣立ちに際しては。とてもいい日だ。最高の日と言ってもいい日だ。

 この透明とうめいな空の下、このいとおしささえ覚える風に運ばれるように旅立てば、望んでいた以上の理想の新天地にたどり着くことができるだろう。


 そんな幸運をのがしてはならない。のがさせるわけにはいかない。


「――あなたたち、心配はりませんよ」


 微笑ほほえみをもどしたフィルフィナの言葉に、ねこたちは顔を上げた。


「お嬢様じょうさまは知っています。あなたたちが遠くない時期に、この庭から巣立つだろうことを。それはあなたたちにとって必要なこと、旅立ちの日をむかえるのはあなたたちの成長のあかし。お嬢様じょうさまはあなたたちがすこやかなることを、何より望んでいます。ですから」


 この五ひきねこたちにかぎりない愛情を注いできた少女の横顔をおもかべながら、エルフのメイドは言葉を続けた。


「ですから、あなたたちがいなくなってもお嬢様じょうさまは……さびしくは思うでしょうが、それ以上に喜ぶはずです。あなたたちがお嬢様じょうさまに別れの挨拶あいさつをしようとしていたことは、このフィルフィナが責任を持ってお伝えします。心配はりませんよ」

「にゃあ」


 よろしくたのむ、とねこたちは頭を下げた。


「では、この庭で暮らす先輩せんぱいとして、フォーチュネット家のメイドであるこの不肖ふしょうフィルフィナが、僭越せんえつながら旅立つあなたたちに訓示くんじします。よく聞くのですよ」


 フィルフィナが小さく咳払せきばらいし、ねこたちの背筋がびた。


「まず、道を横切る時は十二分に気をつけなさい。あなたたちは動きはすばしこいはずなのに、往来おうらいする馬や馬車、車などをけるのはどうも苦手。特に大通りではみんな速度を出している。どうしても道をわたらなければならない時は、左右をよく見てわたるのですよ」


 ねこたちはうなずいた。


「次に、口にするものにも気をつけるのです。食べ物や水には十分注意しなさい。色やにおいを確かめ、味を見るのも少しずつにするのです。食べるものが悪ければ取り返しがつかないこともある。人間にも変なのがいるのですから、えさをくれるとしても用心ようじんしなさい」


 ねこたちはうなずいた。


「そして、次に――」


 次に。

 次に言葉にしようとしたことの重さに、フィルフィナはわずかに苦笑くしょうした。


「必ず……必ず、しあわせになるのですよ……」


 ねこたちは、まばたいた。


「命は、生まれてきたからには、しあわせにならなければそんです。旅立った先でよき伴侶はんりょを得るのです。そして、立派に子を成し、立派に死になさい。

 いの、ないように。

 立派だった……本当に立派だった、あなたたちの父母ふぼのように……」


 フィルフィナの右目から、細くなみだの小川が流れた。何もかもをもふくんだなみだだった。


「……旅立つといっても、あなたたちは王都の外に出るわけではないのでしょう。偶然ぐうぜんがあれば、お嬢様じょうさまを外で見かけることがあるかも知れません。その時は声をかけてあげてください。お嬢様じょうさまはもう、それはそれはお喜びになることですから……」

「にゃ」

「そして、子どもを作り家族を成したのならば、たまにはこのお屋敷やしきもどってくるのですよ。この庭が、あなたたちの故郷ふるさとなのですから。いつでも顔を見せてもいいのです……お嬢様じょうさまも、わたしも、心から歓迎かんげいさせていただきます……」

「にゃあ」


 ねこたちはうなずいた。

 フィルフィナにおくることのできるものは、それで終わった。


「では、お行きなさい。わたしがお見送りさせていただきます。あなたたちが立派に巣立っていったことを、お嬢様じょうさまにご報告いたします」


 ねこたちは深々と一礼し、まずはその場で東に首を向け、歩き出した。

 庭の東、すみにひっそりと建てられた両親の墓の前に横一列で並び、全員がそれぞれ二つの墓に鼻の先をつけ、においをつけるように体をなすりつけた。


 最後にまた横一列に並んで頭を下げ、石畳いしだたみの真ん中、フィルフィナの元にもどってくる。

 そして、門に向かって縦一列で歩き出した。

 フィルフィナが先に正門に走り、大きな鉄の門を開ける。


 わきの通用門でも十分通れたが、このねこたちの旅立ちは正門をくぐることでむかえさせてやりたかった。それがフィルフィナの心意気だった。


 五ひきねこは正門をけ、屋敷やしきの南に面した東西にわたる道のわきで、一度立ち止まり、身を寄せ合った。


 まるでうずを巻くような様子で固まったねこたちは、兄弟たち同士で鼻の先をくっつけ合い、体を入念にゅうねんなすわせ合う。れがひとつもないよう入念に、時間をかけてった。


 それは、自分たちが五ひきの兄弟であることを一生忘れないための儀式ぎしきだった。

 ねこたちは今から、それぞれ別の離れた所に向かう。生活圏せいかつけんを重ねないために。幸運が働いて兄弟が顔を合わせることはあっても、五ひきの全員が一堂にかいするのはこれが最後だろう。


 だから、兄弟たちのにおいを体にませるように覚えるのだ。血を分けた家族の記憶きおくを、たましい奥底おくそこに残し続けるために。

 ほうきをエプロンの前で横に構え、フィルフィナは無言でその儀式ぎしきを見守っていた。


 時折、目頭めがしらが熱くなるのをそでぬぐいながら。


「――にゃ」


 別れの儀式ぎしきが終わって、ねこたちは分かれ、歩き出した。


 まず、東に二ひき、西に二ひきに分かれた。のし、のし、のしと力強い足取りで歩を進めた。

 次に、東の十字路の方で、東に直進する兄弟、北に折れる兄弟と分かれた。

 西も同じように、十字路で西に直進する兄弟、南に折れる兄弟と分かれていった。


 四ひきは東西南北、それぞれの運命の方向に分かれて歩いていった。たがいに一度もかえらなかったのが、ねこたちの覚悟かくごを示しているようだった。


 門の前にたたずみ続けるフィルフィナは、東と西にまっすぐ進んでいったねこかげも見えなくなるまで、一歩も動かずにその様を見送った。


「――しあわせに、なるのですよ……」

「にゃあ」


 フィルフィナの足元で、彼女かのじょと同じく一歩も動かなかったねこが鳴いた。ちゃのまだらな模様の体毛、五ひきの中では最も母親に似ているねこだった。


 その意味を察して、フィルフィナは微笑ほほえんだ。


「ああ……あなたはめすねこでしたね。――そうですか、あなたは……あなたは、この庭をぐのですね……」

「にゃあ」


 ただ一ぴき残ったねこは、うなずくように鳴いた。

 時を置かずしてこの庭にも、ここから旅立ったねこたちが新天地にたどり着くように、全く別のねこおとずれてくるはずだ。残ったこのねこは、その新たなねこちぎりを結ぶのだろう。


「よかった。五ひき全員が一度にみんないなくなれば、お嬢様じょうさまも本当にさびしくなるところでした……わたしも。あなただけでも残ってくれたのは、本当によかった。――素晴すばらしいお婿むこさんが来るといいですね。わたしもそれを願いますよ……」

「にゃ」


 目のはしなみだを指ではらって微笑ほほえんだフィルフィナに、これからもよろしくお願いする、というようにねこは一礼すると、門を再び通って庭の石畳いしだたみを進んだ。

 途中とちゅう、ふとわきみの方に向くと、不意にその中に跳躍ちょうやくしてんだ。


 がさがさというさわがしい音がすると同時に、『チュウ!』というけたたましい声がひびく。フィルフィナが目を開いて見守る中、気絶したネズミをくわえたねこしげみから飛び出し、フィルフィナの前で口をはなした。


「にゃ」


 ねこはそのまま、屋敷やしき母屋おもやに向かって石畳いしだたみを伝って歩いて行った。フィルフィナはれるおしり尻尾しっぽをその場で見送った――このネズミは、当座の家賃やちんということだろうか。


「ふふふ……」


 この屋敷やしきにもやがて新しい命が生まれ、元のにぎわいをもどすことだろう。死んだ二ひきねこが先代から血を受けぎ、見事にのこしたように、次代の命も同じことをかえすのだろう。命はそうやってつながっていく――無限の生と死をかえすことで。


「良い日でした……まだ終わってはいませんが、本当に良い日でした」


 今日きょうという日をこの場所でむかえることのできた幸せをみしめながら、フィルフィナは足元に視線を向けた。

 気絶し、わずかにぶるぶると痙攣けいれんしているネズミの姿があった。


「――さて、どうしましょうかね。屋敷やしきに害をなす害獣がいじゅうを始末するのに心の痛みはないのですが……この喜ぶべき晴れの日に、殺生せっしょうをするのはいささか気が引ける……仕方ないですね」


 ネズミの尻尾しっぽをつまんで、ぶら下げる。気がついたネズミは、フィルフィナの目の前でもがくように手脚てあしをバタつかせた。

 そんなネズミに、フィルフィナは言った。


「いいですか、一度しか言わないので、よく聞くのですよ」


 エルフの凄味すごみのある眼差まなざしに、ネズミがその動きを止めた。


「本来ならこの場であなたの息の根を止めるのですが、今日きょうのわたしは機嫌きげんがいいのです。今日きょう一日――今日きょう一日だけです。あなたを解放してあげましょう。その代わり、次に見つけたら必ず命をいただきます。必死に走って、わたしの目の届かない所に行きなさい。

 ――いいですね?」


 チュウ、とおびえきったそのネズミを、フィルフィナは無造作むぞうさに門の外に向けて放った。道の真ん中に体をねさせたネズミは、フィルフィナの言葉通りに必死になって走り出す――命はしかった。一区画でも遠くにげる必要があった。


「――さ、て」


 爪先つまさきを立て、くるりとフィルフィナはかえった。自分が仕える屋敷やしきの全景をながめる。

 旅立っていったねこたちと同じく、そこは自分の故郷ふるさとだった。

 ここをいったんはなれるにしても、最後にはきっともどってくる。


 そんな、だいじな、だいじな故郷だった――。


「お嬢様じょうさまにこのことをどうお伝えいたしましょう。美味おいしいお菓子かしとお茶をいながら話すのがいいでしょうね。人は、美味おいしいものを食べれば機嫌きげんがよくなる、もっと美味おいしいものを食べれば、もっと機嫌きげんがよくなる……さ、お買い物に出かけましょうか」


 胸の中ではずむ心に手を当ててさえながらフィルフィナはいったん正門を閉じ、鼻歌を歌いながら軽い足取りで石畳いしだたみを伝い、軽くねながら母屋おもやに向かった。


 フォーチュネットていをいつもの王都の風がでていた。

 今日きょうは、無限のしあわせを後押あとおしする風ででていた。

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