その九「ねえ、ねこさん」

 リルルは走った。

 フィルフィナが開けた寝室しんしつとびらから居間にけ、居間から廊下ろうかに飛び出し、洗濯せんたく室にはしんで、その奥の勝手口かってぐちから屋敷やしきの北側の裏庭にあしんだ。


「お嬢様じょうさま! くつ! くついてください!」


 土の地面を裸足はだしで走る主人を、くつを手にしたフィルフィナが走って追いかける。


「フィルも片方をいてないじゃない!」

「か、片方は、ねこを見ておどろいた時にげてしまって、そのままで」

「じゃあ、そのくつげているところにねこさんの子どもがいるのね!?」

「あああ」


 上手うまく走れないフィルフィナを後ろにはなし、リルルは風のようにけた。

 大型の物置のわき、目印のように転がっていたフィルフィナのくつ棒状ぼうじょう蛍光石けいこうせきを見つけ、煉瓦れんがかべくずれた小さな横穴をのぞこうと地面にいつくばる。


 その途端とたんだった。


「わぁっ!」


 しゃあっ! とするどい息づかいが横穴のおくから走り、リルルはかたねさせてはずむように身を退かせた。そんな主人の元に、ほとんど転がるようにしてフィルフィナが追いついた。


「近づいてはいけません! 危険です!」


 主人のたてとなるようにフィルフィナが身をすべらせ、横穴とリルルの間に体を入れてくる。


「母ねこは気が立っています! 迂闊うかつに近づくとかれます! ですから!」

「ああ――――」


 うでばせば横穴の入り口にれられる間合い、二人ふたりの少女は服が土によごれるのもかまわず地面にせた姿で、横穴の中をのぞく――転がっている蛍光石けいこうせきが、目をらせば見えるくらいには薄明うすあかるい光を横穴にもたらしていた。


 青白い光の中に、茶色ちゃいろと白のまだら模様をした一ぴきねこがうずくまっていた。

 するどい犬歯をしにし、かすれきったうなごえを上げてするどい視線でにらけてくる。今この瞬間しゅんかんに飛びかかってくるのではないかという、敵意に満ちあふれた威嚇いかくだった。


わたし……このねこ、今まで見たことない。初めて見るわ……」


 フィルフィナの肩越かたこしにリルルは目をらしておくをうかがった。屋敷やしきに居着いているねこはあの死んだねこぴきだけという、今までの認識にんしきくつがえされた瞬間しゅんかんだった。


「――大丈夫だいじょうぶです。間合いを取っていればおそいかかってはません。今、五ひき目が――」


 フィルフィナが冷静に言う。彼女かのじょの言葉通り、母ねこの後ろで、産道さんどうとおけてきた血まみれの子猫こねこ――リルルのこぶしくらいしかない大きさの赤ちゃんねこが、こぼれるように地面に落ち、みぃ、みぃと小さく鳴いている。


 目が開かず、母親の体のぬくもりをたよりにせまい横穴の隙間すきまをのろのろといずる――そんな、本当に小さく小さな子猫こねこが確かに五ひき、ぼんやりとした光の中にいた。


 みな、体色は灰色だったりちゃだったり、白だったりと一定ではない。ただ、まだ血にれている生まれたての姿が、五ひきが一度に産まれてきた五つ子の兄弟であることを証明していた。


 先に産まれてきたとおぼしき気の早い赤ちゃんねこが、もう母親のおっぱいにありついて乳首ちくびを口にふくみ、ちゅうちゅうと吸っている。そんなかかえながら、母ねこは子どもたちを守るために、穴の外に現れた二人ふたり人影ひとかげを必死に威圧いあつしていた。


「でも、なんでこの子たちがあのねこさんの子どもだって言えるの。もしかしたら、全然別の関係ないねこの――」

子猫こねこたちの右の耳を見てください」

「――右の、耳?」


 自分たちと母ねこの間に転がっているくつをどうもどそうか思案しあんしながら、フィルフィナは言った。


「毛の色はまちまちですが、右の耳だけは一ぴき残らず同じです。――ほら、みんな、右の耳だけ黒い――」

「…………あ!」


 赤ちゃんねこめそうなほどに大きく口を開け、リルルはさけんだ。

 暗がりの横穴の中でもぞもぞとうごめいているあかぼうねこ、そのどれもが黒い右耳をしている。それは、リルルが『ねこさん』としたい、愛していたあのねこ特徴とくちょうだった。


「ああ……ホントだぁ……」


 灰色の毛に、右耳だけ黒い――死んだねこの姿を脳裏のうりよみがえらせて、リルルの目のはしに、なみだの玉がいた。


「本当……本当に、みんな、右の耳が黒い……!」


 それは、あの『ねこさん』がのこした言葉のように思えた。

 リルル、この子たちは、わたしの子どもたちだよ――と。


「……わたしは、あのねこがどうして力尽ちからつきる前日まで獲物えものろうとしていたのか、ようやくわかりました。穴のおく……見えますか、お嬢様じょうさま。積み上がっているものを……」

「あれ……は……」


 フィルフィナの指摘してきにリルルはなみだぬぐった目をさららす。穴のおくに、動かないが生き物らしいものが穴の天井てんじょうまでの高さに、折り重なるようにして積み上げられている。


 干涸らびた虫――小さな幼虫、成虫、トカゲや小鳥の姿もある。この冬の寒さでくさらずにいられるのか、一匹いっぴきの猫が十何日はこまらないだろうという分量はあるようだった。


「――その手前に、最後にあのねこと会った時、持っていくようにとわたしがすすめた、ネズミの死骸しがいがあります……。つ……つまり……」


 声をふるわせるエルフもまた、切れ長の気配を見せる目のはしに大きななみだつぶを作っていた。


「あ……あのねこは、自分の子どもを産んでくれる、この母ねこのために……」


 声のふるえに心のせきくずされて、フィルフィナの両目がなみだ洪水こうずいを起こした。


「自分が死んだ後も、この母ねこや子どもたちがえたりしないように、必死になって獲物えものっていたのですよ……」

「あ…………」


 フィルフィナの涙の熱にあぶられたように、リルルの心の底が焼けた。


「じ……自分はもう、ものを食べられないほどに弱っているのに、自分の命をいでくれる子どもたちのために、命をけずって、死ぬことさえいとわずに……」


 昨日きのう、あれだけ流したなみだが再びはじめる。ほおを流れ落ちていくその熱い源流の勢いを止めることもできず、フィルフィナはそれを流れるままにした。

 流すのに、心地ここちよいなみだだった。胸をがすようなおもいの熱をがすためのなみだだった。


「お嬢様じょうさま、わかりますか、この行いのたっとさが。……わたしは、あのねこ到底とうていかないません。わたしはまだ、だれかのために生きていない……生きることができていない……ほ……本当に、わたしたちは大切な命に出逢であえたのです……なんという幸福なのでしょう……」

「……ねこさん……」


 リルルもまた、流しくしたはずのなみだでアイスブルーのひとみを焼いていた。真珠色しんじゅいろしずくをあふれさせ、声もなくこぼし続ける。しかし、それは昨日きのうなみだとはちがう味のなみだだった。

 体に感情の波動が広がる。波紋はもんのように広がる。体が、軽くなる――。


「……ねえ、ねこさんのおよめさん。わたしたち、こわくないよ。いじわるしないよ。だから安心していいんだよ。わたしたち、あなたとその赤ちゃんを守りたいんだから……」


 リルルがずり、と身を乗り出す。


わたしたち、友だちだよ。だから、その赤ちゃんたちをかせてほしいの」

「お嬢様じょうさま、いけません。そんなことを言ったって、わかってもらえるわけが――」


 母ねこは変わらず、静かにリルルとフィルフィナを威嚇いかくし続けている。

 そんな状況じょうきょうくつがえす風がいてきたのは、その時だった。

 建物の隙間すきまうようなやわらかな風がふわ、と背中からリルルたちにける。


 横穴にながんできた風にヒゲをらした母ねこの目から、するどさの半分が消えた。地面に置いていたあごが上がり、すように向けられていた視線が二人ふたりの少女から外される――注目がされているのは、転がっている片方のくつだった。


 ねこが放つ殺気が消えたことに二人ふたりが気づいた時、母ねこは上半身の半分だけ、ずるずると穴から出させた。首をいっぱいにばし、フィルフィナの足からげてしまったくつ爪先つまさきに鼻を当て、くんくんとにおいをはじめる。


 その行動にリルルとフィルフィナが目を丸くしている中、ふうっと、母ねこから警戒感けいかいかんが消えた。

 横穴に再び体を退しりぞくが、今までめさせていた緊張きんちょうすべてを解き、ごろんと横に転がって、無防備に腹を見せた。


「……あ……これは……」


 母ねこの態度が正反対になったことに首をかしげているリルルの前で、気づきを得たフィルフィナは思わず微笑ほほえんでいた。


「わたしのくつに、あのねこにおいがついていたのですね……それで……」

「ああ……!」


 リルルは思い出す。あのねこが庭で会った時、どんな仕方の挨拶あいさつをしていたか。


「一昨日も、最後に会った時、あのねこはわたしのくつと足ににおいをつけていました……ふ、ふふふ……それが、こんなところで役に立つなんて……」


 フィルフィナはなみだそではらったほおみをかせる。昨日きのうの悲しみをた次の日に、こんなみをかべられることが信じられなかった。


 母親がふさいでいた横穴の入り口から、子猫たちがのそのそと顔を見せる。血にれた体にほこりや土がくっつきよごれた姿で母親の体温を求め、目が開かぬ中で小さく右往左往うおうさおうした。


「――フィル、お湯!」


 リルルが発した声に、フィルフィナはかえった。


「お湯を張って! ぬるま湯で! ――赤ちゃんを洗ってあげるお湯、産湯うぶゆを作って!」

「あ、は、はいっ」


 自分のくつもどすことも忘れ、フィルフィナはその声にしりたたかれるように立ち上がった。お湯、お湯、お湯――それをいちばん早く用意する段取りはとあせり、台所と洗濯せんたく室をあたふたと五往復もして、ようやくたらいに張ったぬるま湯を用意できた。


「お、お嬢様じょうさま、お待たせいたしました」


 頭上にかかえたたらいを横穴の前にはこんだ時、土の上にすわったリルルは、穴から出てきてつかったように体をばしている母ねこに、手にした何かを見せていた。


「ほら、およめさん。これがわかる?」


 フィルフィナが湯の用意をしている間に、リルルもそれを取るために部屋へやもどったのか。


わたしとあなたのお婿むこさん、本当に仲良しだったんだよ。わかるでしょ。これがわたしで、これがあなたのお婿むこさん――」

「……お嬢様じょうさま、それは……」


 リルルが母ねこに見せている、ガラスがまった一枚の写真立て。葉書大はがきだいほどの大きさのそれに納められた一枚の紙――それにえがかれている素描スケッチにフィルフィナは見覚えがあった。


 ないはすがなかった。

 東屋あずまやの下、一きゃく安楽椅子あんらくいすに深くすわってねむるリルル、彼女かのじょのおなかひざの上で丸まってねむる、灰色の毛をした右の耳だけが黒いねこの姿。


 線とかげだけで作られた、切り取られた世界。

 それをえがいたのは、フィルフィナ自身だったからだ。


 母ねこなつかしそうな声で鳴き、うすいガラスを鼻の先でり上げていた。その下にある、自分とちぎりを結んだつがいの姿をなつかしむように。


「――およめさん。あのね、あなたのお婿むこさんはね……」

「にゃあ」


 顔を上げて見つめてきた母ねこの、おもめたようなその目に、リルルはだまった。


「お嬢様じょうさま、このねこは知っているはずです。あのねこが死んだことを。……あのねこはとても気のつく、礼節れいせつをわきまえたねこでした。最期さいごをお嬢様じょうさまの側でむかえるにしても、自分の子どもをたくした妻に、なんの挨拶あいさつもしないはずがありませんよ……」


 母ねこが頭を下げ、再び体を休める。フィルフィナの言葉を肯定こうていしたように。


「きっと、お嬢様じょうさまそばに向かう直前に、このねこに別れを告げたのでしょう。体を大事に、自分たちの子どもをたのむ、と……」

「そっか……そうだね……そうだよね……ねこさんはとても、お利口りこうさんで、礼儀正れいぎただしかったもの……」

「さ、赤ちゃんを洗ってあげましょう。あなた、お子さんを少しお預かりしますよ。心配しなくていいですからね」


 出産ですべての力を使い果たしたように横たわっている母ねこはもう、何も言わなかった。


「おいで、赤ちゃんたち」


 乳を求めて母親のおなかにすがりついてきたねこの赤ちゃんたちをリルルは丁寧ていねいに手で包み、フィルフィナにわたす。うすくぬるま湯が張られたたらいの中で、血と土やほこりにまみれていた子猫こねこはそれらを綺麗きれいに落とされ、タオルで水気をぬぐわれて、リルルの手にもどされた。


「ちっちゃいね……口の中に入っちゃうくらい……」


 両手で包めばかくしてしまえるほどの大きさしかない子猫こねこを手の中で遊ばせる。数日は目を開けることもできない子猫こねこは、みぃみぃと小さく鳴きながらリルルの手の中で転がった。


「あはは、くすぐったぁい。くすぐったくて、ふわふわ軽くて……あったかいね……」

「――――」


 残りの四ひきをたらいの中で洗いながら、フィルフィナは子猫こねこを手のひらの上に乗せてたわむれるリルルの姿を見上げる。少女の手のぬくもりに包まれた子猫こねこは、あたたかな雲の上でねむるような心地ここちになったのか、短い手脚てあしばし、自分のすべてをゆだねるようにそべった。


「――ねぇ、ねこさん」


 建物と建物の隙間すきまからのぞくようなせまい空に向かって、リルルは子猫こねこささげた。

 目に痛いほどに青い空。空気がみ切ったその空を通し、はるかに遠い天からは、この地上がよく見えるだろうと信じて。


「ねこさんの子ども、ちゃんと産まれたよ。みんな元気だよ。ねこさんのおよめさんだってがんばって、無事なんだよ……。全部、全部、ねこさんが一生懸命いっしょうけんめいにがんばったおかげなんだよ。

 だから、ねこさん、この子たちを見てあげて……。

 ほら、見えるでしょ、ねこさん――」


 のぼっていったあのねこたましいは今、天のどこら辺にいるのだろう。

 天の国にたどり着けたか、はたまたそこに至る旅の途中とちゅうなのか。

 しかし、どちらにしろ天には変わりない。


 天に変わりないのであれば、見えるはずだ。

 小さな命をその手に乗せて、天に向かって呼びかける少女の姿が。


「ねこさん、わたしの大好きなねこさん。この子たちが見えたなら、返事をして。いつもみたいに声を聞かせてよ。ほら、ねこさん――」


 リルルも、フィルフィナも、再び熱く流れ出したなみだの向こうに何もかもがその輪郭りんかくかした世界の中で、願うように耳をませた。

 鼓膜こまくふるわせる声は、返ってはこなかった。


 ただ、にゃあ、と鳴いたあのねこのいつもの声が、確かにたましいひびいてきただけだった。

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