その八「そして」

「そうだったんですね……」


 リルルが愛したねこが死に、その命が空に向かっていったのを見送った、翌朝。

 まだ、正午になるには十分な時間があるフォーチュネットの庭のすみ煉瓦れんがを積み上げて作られた小さな墓標の前に、エルフのメイドと並んでひとりの少年が立っていた。


 明るい金色のかみをやわらかく風にらせている少年だった。


 としころはリルルと同じ――まったく同じ。何せこの少年は、リルルと同じ年、同じ日、同じ時間に生まれたのだから。


 ねこが死んだ経緯けいいを聞かされた少年の目が熱くうるみ、おだやかな湖のんだ青を思わせる色のひとみおくから、大粒おおつぶ真珠しんじゅと価値が等しいなみだつぶが次々にこぼれ、ほおの上を転がり続ける。


 フィルフィナにはそのなみだの意味がわかる。十二分にわかる。だから、少年が泣いている間は何も言葉をかけることができなかった。


 少年の名は、ニコル・アーダディス。

 母はリルルの乳母うばであり、リルルとは乳兄弟ちきょうだい間柄あいだがら――一時期ニコルの母がこの屋敷やしきんでいたため、物心つくまではリルルとは本当の兄姉きょうだい双子ふたごのきょうだいのように育った。


 そんなかれが死んだねことどのようなかかわりを持っていたかは最早もはや、自明の理だ。


 まだ七さいに届かないかれが声をころして泣くその様子は、少しとしはなれた兄を失ったに等しいこの状況じょうきょうにとっては不自然に見えるかも知れなかったが、フィルフィナにはくちびるを強くみしめて少年が泣き声を上げまいとする理由が、聞かずとも容易よういに理解できた。


 少年は、ニコルは、自分の泣く声が風に乗り、母屋おもやの自室に引きこもっているリルルの耳に届くことを、今この瞬間しゅんかん、どんなことよりもおそれているのだ。

 リルルの苦しみをよみがえらせないよう、少女の悲しみにこれ以上の色をせないように。


 声を上げない慟哭どうこくがどれだけの時間続いたのかは、フィルフィナにはわからなかった。ただ、少年の心の痛みを思うだけで、長いはずの時間はおどろくほど早く過ぎていった。


「――ごめんなさい、フィルおねえさん……」


 メイドに背中を見せて泣いていた少年が、服のそでなみだぬぐっていた。


 その質素しっそな――いや、粗末そまつな服と言えてもしまえるそれにはぎがいくつも当てられ、裕福ゆうふくな者たちが屋敷やしきを構えるこの住宅地においては不相応と見えたが、背筋がびた少年の背中にはいやしさはない。


 火熨斗アイロンがきちんと当てられたえりそで、固めにめられたベルトがこの少年の身だしなみの良さを物語り、単調な生地きじに刻まれた糸のあと微妙びみょうな色のちがいもまるで意図を持った装飾そうしょくのように見せていた。


 こしには木でできたさやと木でできたつかの、明らかにおもちゃのけんが差されている。だが、少年のその姿を遠目に見れば、それは立派な騎士きし帯剣たいけんとしかうかがえなかった。

 粗末そまつな服装の、とてもちっちゃな、とてつもなく気高い騎士きしの姿だった。


「男の子のぼくが、こんなに泣いてしまって……なんてみっともない……」

じる必要など少しもありませんよ、ニコルちゃま」


 横顔を見せたニコルにフィルフィナは微笑ほほえみかけた。まずしい平民の出だが、その生まれの低さを感じさせない端正たんせいさがそこにのぞく。リルルと並んで立っても少しの遜色そんしょくもないその印象は人の目を引くのか、このとしになるまで三度の誘拐ゆうかいおそわれているほどだ。


 もっとも、その三度ともを自力ですことに成功しているのが、かれ武勇伝ぶゆうでんだった。


「フィルは知っています。ニコルちゃまがあのねこのことをどんなに大好きだったか。それはお嬢様じょうさままさるともおとらぬものでしょう。その悲しみはこのフィル以上のものでしょう」

「……ぼくはあのねこにお願いしました。自分がいない間、リルルをまもってほしいと。かしこねこはそれにこたえてくれました。リルルをちゃんとまもってくれました。だから、ぼくはあのねこ尊敬そんけいします」


 もう、その存在に『あの』とつけなければならない痛みをこらえながら、少年は言った。


「あのねこはリルルの騎士きしでした。とてもとても立派な騎士きしでした」


 まだなみだかわかないほおを午前の光にかがやかせながら、ニコルはこしけんいた。いつもそのおもちゃをこしにして遊びにくるニコルだが、木のを見せることは滅多めったに無かった。


 立てた木のやいばの腹をひたいに当ててニコルは目をつぶり、何かをとなえてから目を開いてやいばななめにり、それをさやに納めた。

 それは、騎士きしが相手に敬意を示す儀礼ぎれいのひとつだった。


ぼくも、そんな騎士きしになりたい」

「…………」


 なれますよ、とフィルフィナは音にならない声でつぶやいた。今すぐこの少年に、金のモールがついた緋色ひいろのマントを着せてあげたい。それはとてもとても似合うだろう。


「――申し訳ありません、ニコルちゃまがわざわざいらしてくださったのに、お嬢様じょうさまがあんな調子で……」

「仕方ないです。あのねこが死んで昨日きのう今日きょう……リルルはやさしい女の子です。だから、それだけ痛みも受けてしまう。今は、そっとしておくのがいちばんですから」

「はい…………」


 フィルフィナはこの少年の利発りはつさに微笑ほほえまされるだけだった。初めてこの少年の姿を見た瞬間しゅんかん、その背中に天使のつばさがついていないか、本気で探したものだった。


 リルルと出会ったのと同じくらいに、この屋敷やしきて本当によかったと、心から思わされる要因のひとつだった。


「フィルおねえさん、リルルのこと、どうかよろしくお願いします」

「かしこまりました」


 こしを曲げて頭を下げるニコルの姿に、フィルフィナはそれ以上に頭を下げてこたえた。


「ニコルちゃま、おいそがしいとは思いますが、できるだけ機会を作ってかよってあげてくださいまし。今はこのフィルより、ニコルちゃまのお顔がお嬢様じょうさまにとって何よりの心のお薬。お嬢様じょうさまの心が一日も早くえるよう、ご協力をお願いいたします……」

「はい」


 ニコルははにかんだ。そのほおに子どもらしい照れ、じらいの赤さがいていた。



「じゃあ、ぼくはこれで失礼します」

「帰り道、お気をつけて。お母様かあさまやお祖母様ばあさまによろしく」


 最後、ねこの墓に一礼したニコルは計ったように正確な回れ右をし、庭に真ん中に出ると、かれた石畳いしだたみの道を通って門から出て行った。

 フィルフィナもならうように墓に頭を下げ、おもいをはらうように歩き出す。


「――――」


 庭の真ん中に立ち、そこから視線をめぐらせ、庭の全景を見渡みわたした。

 今までこの場所で感じたことのない空虚感くうきょかんさびしさ、寒さが心をじわじわとむしばんでくる。

 この庭に住まう存在がひとつ、いなくなった。その認識にんしきの重さを知って、彼女かのじょふるえた。


 メイドとなって初めてこの庭に立ったあの時の庭と今の庭は、別世界であるとも思えた。


たかが・・・、たかが一匹いっぴきの猫が死んだだけで……」


 それだけで、この世界はこんなにも変わってしまうのか。

 それだけで、この心はこんなにもきむしられるのか。


「わたしは……こんなにも弱い者だったのか……」


 だが、それは嫌悪感けんおかんもよおすものではなかった。むしろ、そんな自分が好ましく、愛おしくも思えた。

 だから、優しい顔で言えていた。戦士でしかなかった自分より、ずっといい――。


 風が吹く。昨日よりは冷たくない、緩やかな風。庭の真ん中に立つ少女をなぐさめるように。


「――お嬢様」


 今日、まだ顔を見せてもいない主人をおもい、フィルフィナは母屋おもやに目を向けた。


 朝、閉ざされた寝室しんしつとびらしに少女の泣き声は聞こえてこなかったが、とびらを開けることができなかったフィルフィナには、わかる。少女は布団ふとんの中というせまい世界にこもり、体と心の一部が欠けてしまった喪失感そうしつかんもだえ、声もなく泣いているのだろう。


 ニコルが遊びにたと知るといつもは笑顔えがおで飛び出してくるのに、今日きょうは顔も見せない。ニコルもとびらしに短く言葉をかけていたようだが、反応がないことに無理押むりおしは下策げさくと思ったのか、やみの言葉だけをかけて早々に引き上げていた。


 悲しみはなみだでしか洗い流せない。そのなみだを流しくしてしまったその先からは、いつまでもうずき続ける古傷と付き合うように、にぶく長い痛みと付き合い続けるしかない。

 今のリルルの薬は、本当のところは、時間しかないのかも知れない。


 痛みにれて、感じなくなってしまうようになるまで――。


「……それは、あのやさしいお嬢様じょうさまにとっては、難しいことでしょうが……」


 他人の痛みに寄りえるから、痛みを知ろうとするから、あの少女はやさしいのだ。

 感じ続けることのできる痛みを、リルルは忘れないようにじっと大事にする。

 それは、いやなこと、苦しいことを忘れてしまう行為こういとは、正反対のものなのだ。


「――しかし、考えないようにするのも大事なのですよ、リルル……。考えないことは、忘れてしまうことではありません。心の引き出しにしまって、おりれ、大事な宝物を手に取ってながめるように取り出すのです。それが大人おとなになるというひとつのことなのですよ……」


 エルフのメイドは空を見上げ、そうつぶやき、ふっと思考をえた。


「しかし、あのねこはもう弱り切っていた……あのせ方は、もう何日も食べていないせ方だった……そんなはずは」


 フィルフィナはこめかみに指を当て、この数週間における庭の情景を思い起こした。


「……以前のようにとはいかないとはいえ、それなりにりはできていたはずです。小さな虫をつかまえていたのも何度か見た……わたしが見逃みのがした、出くわすことのできなかったものもいくらでもあるでしょう……庭のあちこちに穴がられていましたし……」


 ネズミのように速く逃げるものは無理だとしても、動きのにぶい動物や、土の下で冬ごもりする小さな虫などにはありついていたはずだ。


えさはあるのに、せていた……もう、食べ物を消化できないほどに弱っていた……そういうことなのでしょうが……」


 そこからが、わからなくなる。


何故なぜ、自分が食べることができないとわかっていたのに、りを続けていたのでしょうか? もう、とっくにねぐらに引きこもってじっとしているような時期だったのに……」


 わからない。体力を消耗しょうもうして、死期を早めるだけではないか。

 ねこ埋葬まいそうを終えてからずっと考え続けているこの矛盾むじゅんを、フィルフィナは解決することができなかった。家事はとどこおっているのに手が動かない。ふとした時にかんがんでしまう。


「――ああ! 考えていてもらちがあきません。ここは一発、苦手な洗濯せんたくでもしますか」


 絶対量が増えている自分の独り言をりまきながら、フィルフィナはたまった洗濯物せんたくものに向き合う決意を固めて母屋おもやに入り、洗濯せんたく場にんだ。洗濯物せんたくものの山にちらと目を向け、そむけたくなる本能を理性でさえつけてから、室内のポンプで水をみ出す。


「――――」


 いくつかの衣類に赤い血がついているのを見てフィルフィナの胸は小さくなく締め付けられたが、喉の奥から込み上げてくるものを殺してフィルフィナは両のそでをまくった。


 手が切れるような冷たい水と顔にぶつかってくる石鹸せっけんあわと小一時間格闘かくとうし、すすいだ洗濯物せんたくものを固くしぼって水気を切り、屋敷やしきの裏手の物干ものほし場に向かう。


 干した洗濯物せんたくものが表からは見えないように作られた洗濯せんたく場は、四方を建物に囲まれた中で、切り取られたようにが当たっていた。建物と建物の隙間すきまから風が通り、フィルフィナの豊かなかみをそよがせる。


 水を切っても重いシーツを広げて物干ものほ竿ざおにかけ、ピンと張った下着で空気をはたくようにしてそのしわをばすフィルフィナの耳に、違和感いわかんともなう小さな音がぶつかってきた。


 ……ィ。


 フィルフィナの耳が無意識にねる。バサバサと音を立てていた手が止まる。


 ……ィ。


「ああ……もう……」


 フィルフィナの顔が左右非対称ひたいしょうゆがんだ。明らかに小動物の声だった。

 声がするのは、ここからは数十歩以上はなれたどこかの物陰ものかげからのようだ。まずフィルフィナの頭に浮かんだのは、屋敷やしきに害をなすあの、にっくき小型哺乳類ほにゅうるいの姿だった。


「……ネズミり担当がいなくなったので、一足早いの春ということですか。人がふくしているというのに、空気を読まないネズミですね……あと一週間は大人おとなしくしていればいいのに……」


 下着をたらいの中に置き、手をいて、ひじまでまくっていたそでばした。

 ポケットから一本の棒状のものを取り出す。ほたるが発する光の半分くらいの光量をそれは放っている――蛍光石けいこうせき、暗い照明器具だが、火をける必要もない便利なものだ。


 悪さをするネズミは光も差さない物陰ものかげまわると相場が決まっている。射線がつながるなら小石の直撃ちょくげきをぶつけてやるつもりで、フィルフィナは音の発生源にしのあしで近づいた。


「『ネズミも鳴かねばたれまい』といいますよ。わたしの機嫌きげんが悪い時に現れたあなたがいけないのです。鬱憤うっぷん晴らしの犠牲ぎせいになってもらいましょう――まったく」


 そう、口の中でぼやきながらフィルフィナは音を立てず、しかし風のように足を運んだ。滅多めったに近づくことのない、ほとんど不要品を収納している大型物置、そのわき煉瓦れんがくずれた隙間すきまから、ガラスにつめを立ててくような、本当に小さな声が聞こえてくる。


「ここですね」


 頭を入れようとしてギリギリ入るかどうかという入り口。わずかな風がみ、その空気の流れ方を目で読んでフィルフィナはさとる――この空間は袋小路ふくろこうじだ。


「これが本当の『袋小路ふくろこうじのネズミ』、いえ、『ふくろのネズミ』ですか」


 勝利の確信に微笑ほほえむ。ひざを着き、左手に蛍光石けいこうせきを、右手に小石をにぎって顔が地面にれるくらいに低くし、気配が伝わってくる横穴をのぞきもうとした。


「さ、無駄むだ抵抗ていこうはやめて大人おとなしく出てきなさい。態度が殊勝しゅしょうならば慈悲じひもありま――」


 ぼんやりとした光のかたまりのような蛍光けいこう石で空間を照らし――た瞬間しゅんかんだった。

 フォーチュネットていを中心とした、南北東西九区画に息づいたすべての生物が、その場で飛び上がるような悲鳴が発せられたのは。



   ◇   ◇   ◇



 自分の寝室しんしつ布団ふとんを頭からこうむって小さな写真立てを胸にき、止めどもなくにじつづけるなみだまくらに吸わせ続けていたリルルは、かべの数枚をけてひびいてきた悲鳴に思わず、その姿勢のままこぶしひとつ分の高さをがった。


「な、ななな、にゃに!?」


 悲鳴のぬしがフィルフィナであるのと、雷神らいじんかみなり直撃ちょくげきを頭から受けたようなすさまじいさけびであったことにリルルは、目覚めてから数時間こもっていた空間から身を起こす。

 外では天地が割れたのかと目を白黒させて戸惑とまどっている内、壁越かべごしに足音がひびいてきた。


 フィルフィナの足音であるのは想像がついたが、まるで一歩ごとにたおれそうになる自分の体をかろうじて支えるような、彼女かのじょらしからぬ無様な走りようだった。


「お嬢様じょうさま!!」

「な、なななな、なに? どうしたの?」


 いつもは必ずするノックを省略してとびらを開け放って現れたフィルフィナの姿にリルルはおどろいた。かみと服はほこりを浴びたようによごれ、左足にいていたはずのくつがなく、何より冷静さをどこかに落としてきたようにあわてている、そんな表情を見たことがなかったからだ。


「お、おおお、おおおおお……」

「火事? 地震じしん? あ、地震じしんじゃないか……なに? 泥棒どろぼうでも入ったの?」

「お、おお、落ち着いて、落ち着いて、き、ききっ……あ、し、舌をみまひた……」

「話すフィルの方が落ち着いてよ」


 取り乱しきったフィルフィナを前にリルルはあきれきり、あわてる気もなくした。


「こ、ここ、子どもが、子どもが……」

「子どもがなに? ニコルの近所の子たちが遊びにたの? わたし、今は遊ぶ気になれないの。おびしてお菓子かしを持たせて帰ってもらってよ……」

「ち、ちち、ちがうんです」

「何がどうちがうの?」

「ああ、もう、どう説明したらいいのか……すみません、一杯いっぱいいただきます」


 リルルの返事を待たずフィルフィナは水差しの水をコップに注ぎ、一気にそれをあおった。

 なみなみとがれた水をのどを五回鳴らして飲み下し、ふうと太い息をく。


「す、少し、落ち着きました……」

「で、なぁに? フィル、わたしもうしばらく一人ひとりになりたいの。だから用事は――」

「子どもがいるんです!!」

「だから」

「あのねこの子どもなんです!!」


 開いたリルルの口が開いたままになり、目はまばたたきを忘れ、心は空白になった。

 心拍しんぱくすら一瞬いっしゅん停止してしまったそんなリルルに、フィルフィナは、張り上げられるだけの声を張り上げ、必死のおもいでわめいていた。


「あのねこの子どもたちがいるんです!! いえ、今、産まれているんです!! ――三ひきが出て、四ひき目が出ようとしているのを見ました――お嬢様じょうさま、早く、早くいらしてください!!」

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