その七「猫の夢」

 うずくまったまま、リルルがいた。なみだかせ続ける目が見開き、顔の全部がこわばって『信じられない』と言っていた。


「……ねこさんが……カラスに殺されたんじゃないって……?」

「そうです」


 フィルフィナはうなずく。確信を持って。


根拠こんきょのある話です。さかのぼってお話ししましょうか……」


 見上げてくるリルルの視線を受けながら、フィルフィナは軽くあごを上げ、青くかわいた空を見た。ねこたましいのぼっていった軌跡きせきを探すように、小さく視線をめぐらせた。


「お嬢様じょうさまおっしゃいましたね。『カラスの大きな声がしたからびっくりした』と」


 中段まで上がった太陽の光をはだに感じ、フィルフィナは小さく息を吸った。


「――ねこの悲鳴は、聞きましたか?」

「あ…………」


 リルルの熱くにじんだひとみが、左右にれた。


「お聞きには、なっていないでしょう……?」

「でも、それはわたしがまだねむっていたから……」

「四羽のカラスにおそわれているのです。悲鳴を上げて抵抗ていこうするのが普通ふつうでしょう。ですが、カラスに傷を受けた様子はありませんでした。ねこつめも出ていなかった。何より、お嬢様じょうさまが聞いたカラスの声はわたしも聞いたのです。だからけつけることができた」


 エルフとしての自分の聴力ちょうりょくには自信がある。のがすはずがない確信があった。


ねこは声を上げなかったのです。いいえ、上げられなかった。――もう、死んでいたのですから。それに」


 またも冷たい、はだを切るように寂寞せきばくとした風がけていく。その風が運んできた落ち葉が墓標の上に乗ったのを、フィルフィナは指でつまんではらった。


「あのねこの体はとても冷たく、筋肉は固まっていました。この冬の入り口の時期、冷えた朝といえ、殺された直後にあの冷たさは考えにくい。そして筋肉が固まっているのは、死後硬直こうちょくが始まっている――死んでから二時間以上はったことを示しているのです……」


 だからひつぎの中でねこあしを曲げることができなかったのだ、とフィルフィナは言い足した。


「……こ……このことから、導き出せることは……」


 フィルフィナは論理を連結させる中で、自分でも予想していなかった深い領域にんだことに、今、気がついた。それが語ることがフィルフィナの胸の裏を感情の熱さであぶり始めていた。


 あぶられた熱量をがすためのなみだが、フィルフィナの目からあふれ出す。嗚咽おえつもなくなみだを流し始めたフィルフィナを、リルルもまた声のないなみだを通して見つめた。


「あのねこは、夜明けの前には、お嬢様じょうさま寝室しんしつの窓のそばにいたのです……」

「――――――――」


 元気だった時、リルルの寝室しんしつ窓枠まどわくに飛びつき、ねこが少女の目覚めを呼んでいたあの習慣しゅうかん。その、まさしくぶ地点にねこはいた。いたはずだった。それしか考えられなかった。


「お嬢様じょうさまには内緒ないしょにしていましたが、あのねこはもう、死期がうかがえるほどに弱っていました。もう、この冬はせないのだろうと思っていました。ですが、わたしの見込みこみはあまかった……あのねこはそれどころか、明日あしたの命も知れない状態だったのです……」


 心の中心に発生した強力な重力場が生む引力に、身も心もまれるような感覚。なみだの熱さがほおを焼く感触かんしょく戦慄おののきながら、フィルフィナは自分の体がにぎりつぶされるような錯覚さっかくを覚えた。


ねこ普通ふつう、死期が近づくと身をかくすのです。弱った体を守るために、せまかくれられる場所に……。そして、そのまま寿命じゅみょうむかえて……だからわたしも勘違かんちがいをしました。このねこはまだ獲物えものを追っている。せまい所にもぐみ、死がおとずれるのはもう少し先だろうと……」


 それは、まだあのねこには生きていてほしいという願望が思わせた計算のくるいだったのだろう。もしもあのねこに思い入れも何もなければ、おかさなかった間違まちがいだったかも知れなかった。


「まだ太陽も顔を出さない時間、買い出しに出かけようとわたしが玄関げんかんを出た時には、このねこはお嬢様じょうさま寝室しんしつの前にいたのです。……わ、わたしは、気づいてあげられなかった……」


 フィルフィナの足首がれた。足裏から伝わるおそれが、体を支えることも難しくさせた。


「暗かったとしても、少し気をつければ目に留まったかも知れないのに……目に留まったのであれば、あ、あ、あんな無残な姿にされることもなかったのに……」


 ――『死』が、フィルフィナの心に無数のヒビを入れる。幼き時、先代の女王である祖母の死に立ち会った時にも感じたことのない感覚だった。

 まさか、そんなものを、一匹いっぴきねこの死から受けることになろうとは。


「お嬢様じょうさま、申し訳ありません。……あなたにも、本当に申し訳ありません」


 フィルフィナはリルルから視線を移し、なみだにじみきった目で墓標を見た。

 何もかもが、熱くぼやけてしか見えなかった。


「あなたはかしこねこ……本当に、かしこねこでした……。きっと、自分の命がもうすぐきるということを、暗いねぐらの中でさとったのでしょう。だ、だから、あなたはまだ夜も明けきらない時間に、ねぐらから……あなたの気持ちが、痛いほどにわかります……」


 フィルフィナが流すなみだが、波を打ってその勢いを増した。声に感情のふるえが、心のきしみが乗って、リルルもまた共鳴するように心を熱くした。


最期さいごには、最期さいごの時には、大好きなお嬢様じょうさまそばで、できるだけの近くで死にたい……その一心で、もう歩くことさえも相当の難儀なんぎだったのに、あなたはそれでも、身を引きずるようにして……」


 ぼやけきった視界を幕にして、フィルフィナはそれに投影とうえいされるまぼろしを見た。

 それは自分が体験したことのない、低い低い、地をいずるような視点だった。

 見慣みなれている屋敷やしきさまが、見慣れない視点から見える――。


 母屋おもやを右手に、庭を左手に見て、もどかしさしかないにぶさでずる、ずる、ずると景色けしきおくに進んでいく。音にもなりきれない鳴き声が、わずかな空気のふるえとなって小さくひびく。すべての感触かんしょくが遠い。目も耳も鼻も、毛皮をでるさわりも口の中の感覚も半分、死んでいる。


 一秒ごとに、自分が少しずつ死んでいくのがわかる。が、それは大した問題ではなかった。それはもう止めようのないものなのだ。だから、気にしない。しても仕方ない。

 かべ沿いにい進むこの母屋おもや、六つ先の窓の下にたどり着くことの方がはるかに大事だった。


「ああ……」


 ああ、これはねこ記憶きおくなのだ、とフィルフィナにはわかった。ねこのこしたものを自分はている――そんなあり得ないことが、あり得ないはずはないこととしてフィルフィナには受け取れていた。


「あなたが最期さいごに笑っていたわけ、今、わかりました……」


 この瞬間しゅんかんまでの今までの生涯しょうがい、その間についやした苦労と同じだけのものをしぼって、目指していた窓の下に体を運ぶ。運ぶことができた。

 冬の朝の、体をいていくような寒さも遠くなる。


 もう、見ることもぐことも、味わうこともらない。いや、左の耳もらない。

 遠くなりきった五感、そのすべてをしぼり、右の耳にそそむ。

 ――今、求めるものは、ただひとつ。


「あ……あああ……」


 その感覚に命のすべてをった右の耳を、母屋おもやかべにつける。ぴたりと、隙間すきま無く合わせる。そこがいちばん、近い場所だったから。

 すると、こえてくる。かべを通し、向こうで静かに立てられる音がこえてくる。


 すぅ…………すぅ…………。


「あなたは、あなたは……あなたは……」


 心が、やわらいだ。それは、しあわせをもたらしてくれる音だったからだ、いつも。

 あの時もあんな時も、やさしく体をくるんでいてくれていたあたたかさが、まぼろしであったとしても、よみがえる。錯覚さっかくであったとしてもかまわない。今は現実と変わらないのだから。


 唯一ゆいいつ残っていた感覚もゆるやかに遠退とおのいていき、体がかべすべってくずれることさえ感じない。すべてが軽くなる――ねむりに入る瞬間しゅんかん、ほんの一瞬いっしゅんの中の一瞬いっしゅんに感じるあの浮遊感ふゆうかんが、体内の時間感覚では永遠に続く。


 生と死の狭間はざまにある夢現ゆめうつつの世界で、ねこは思った――思ったことだろう。

 ああ、よかった…………と。


「あなたは、お嬢様じょうさまいだかれている夢を見ながら、死んでいったのですね……」


 今まで殺せていた嗚咽おえつが殺せなくなり、のどおくからあふれ出る悲痛な音のうめきに、フィルフィナの顔が大きくゆがんだ。


 安楽あんらくな夢を胸にきながら命の灯火ともしびきさせたねこ、その生き様と死に様を他人が、自分などが評価するなど、烏滸おこがましいもいいところだとは思う。

 ――思ったが、フィルフィナには、こうとしか思えなかった。


「なんと、なんというしあわせなねこなんでしょう、あなたは……」


 それは、激しいにくしみに転化してもおかしくないほどのすさまじい嫉妬しっとさえ覚える、認識にんしきだった。


 フィルフィナのひざが、折れるようにくずれた。体が前にたおれ、支えようとしたうでむなしく曲がり、こおるような冷たさの地面に額をぶつける。が、そんな痛みもかまわなかった。無様でしかないその格好も、どうでもよかった。


 今は、この体をげるものをどうなみだにしてがすか、それだけが問われていたから。


「あ……ああ、あ、あああ、あああ…………!!」


 今までに上げたことのないような声、自分がそんな声で泣くなど、想像すらしなかったような声で、エルフの少女は泣いた。


 冬の空の高みに、エルフの少女の号泣ごうきゅうひびきがまれていく。主人のなみだを心で肩代かたがわりするように大声で泣くその声に、リルルの悲しみが少しうすらぐ。


「ね……ねこさん……」


 リルルの視線がねこ亡骸なきがらがある地下から、たましいのぼっていったであろう空に向けられる。


「ねこさん……天の国で待っててね……わたしも、いつかきっと……」


 どれだけの時間が過ぎたかわからなくなったころ、自分の体からしぼれるだけの声がき、それでも体を起こすことのできないフィルフィナの耳に、リルルのつぶやきが聞こえた。


「きっと、わたしもそっちに行くから……先に行ってて……そして待ってて……」


 ――天の国。

 あたえられた生を懸命けんめいに生き、それを使い果たしたものたちが行けるという、死後の世界。

 その世界では、生前に出会ったものたちがつどい、永遠に安息の中で過ごせるのだという。


 その世界にねこが行けるのかどうかは、だれにも確信がない。いや、そもそも存在するのかどうかも、だれも確かめたことはない。

 ただ、その存在を願う者たちが多くいる――それだけが、確かな事実だった。


「そ……そう、そうですよ……」


 流れるなみだが大河から河に変わったころに、慟哭どうこくに満たされていたのどを言葉に使うことができるようになったフィルフィナは、それでもしぼさねば音にならないおもいをつむいだ。


「あんなにお嬢様じょうさま可愛かわいがられ、愛されたのです。あなたには、天の国でお嬢様じょうさまの側にいる義務があります……。長い旅路たびじをたどって、天の国にたどり着いて……そして、お嬢様じょうさますわ主座しゅざをあたためていて……そうでなかったら、このわたしが承知しょうちしませんよ……」


 自分が天の国におもむけるとしても、それはおそらく、ずっとずっと後のことだろう。


「あなたは、天の国で、お嬢様じょうさまさびしさをやさなければならない……おたのみしましたよ……。その代わり、この世では、わたしがあなたの代わりに、お嬢様じょうさまを見守りましょう……あなたが一生をけてお嬢様じょうさまを見守ったように、わたしもこの生涯しょうがいけて……」


 死者とのちかいだ。

 あらゆるちかいの中で、最も破ってはならないものだ。

 それを承知しょうちで、フィルフィナはちかった。それを破ったならば、この身とたましいけと。


「フィル……!」


 リルルがくずおれたままのフィルフィナにうでからめるように、ほおほおけるようにしてきつき、再びなみだ井戸いどげ始める。そんなリルルのなみだのあたたかさを自分のなみだと合わせながら、フィルフィナも泣いた。さらに泣いた。


「リルル…………!」


 二人ふたりの声が重ねられ、鎮魂歌ちんこんかとなって庭に流れる。

 小さな命の、大きな存在を天の向こうに送る歌は、まだ終わりを見せないようだった。



   ◇   ◇   ◇



『――お嬢様じょうさま


 少しの時間の後。こんなやり取りがあったことを、二人ふたりは覚えていた。


がたいかも知れませんが、あのカラスたちをにくんではなりませんよ……』

『どうして……あのカラスは、ねこさんの体をあんなにして……』

『あのカラスたちは、命をつなぐためにあのねこ亡骸なきがらを食べようとした。わたしたちが食べずには生きられないように。それがたまたま、庭のすみで死んでいたねこだった……。それだけのことなのです……カラスたちは、あのねこうらみや悪意があったわけではない……』

『でも……』

『お嬢様じょうさまも、わたしも、食べずには生きられない……それはだれかの命をうばつづけていると同じことなのです……。あのねこだって、あの庭でいくつもの命をうばつづけました。お嬢様じょうさまも、わたしも、あのねこも、本質的にはあのカラスたちと等しいのですよ……』

『それは……』

『それが仕方ないことだとか、悪いことなのだとは、わたしの口からは申しません。わたしにもその答えを口にする資格はないのです。ですからお嬢様じょうさまも、性急せいきゅうに答えを出す必要などありません、――ただ……』

『…………』

『ただ、命とはそうやって成り立っているもの、命と命をうばうことが生きるということ、仕組みだということを覚えておいて……それだけが、フィルの願いです……』

『…………うん…………』

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