その六「涙の向こうの真相」

 フィルフィナはこれまで、幾多いくたの死体を見てきた。

 りの獲物えものとしての動物はいうにおよばず、故郷こきょうの里に侵入しんにゅうし警告しても退こうとしない人間、亜人あじん魔獣まじゅう――自身で手にかけたものも数多い。


 そして半年ほどにもなる、この王都に流れ着く事件となった里への大規模襲撃しゅうげき

 物量に物を言わせておそい来る王国軍の精鋭せいえい相手にフィルフィナは奮闘ふんとうし、何百人以上の命を一度の会戦かいせんうばったはずなのだ。


 だから血生臭ちなまぐささにはれている、今更いまさらどんな死体をたりにしたとしても、心がぐらつくことなどあり得ない――。


 そんなあま認識にんしきなどは、リルルが泣きながらきしめる一ひきねこを見た瞬間しゅんかん、基部からたたき折られ、薄焼き菓子ウェハースのようにくだけ散っていた。


「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ――――――――!!」


 どこからそんな声が出せるのか、どうしたらそれだけのなみだが流せるのか。庭の草木の枝葉がふるえ、少女の足元には水たまりができるのではないかという、号泣ごうきゅう。その張り上げられるリルルの絶叫ぜっきょう障壁しょうへきになって、フィルフィナは近づけなかった。後退さえしていた。


「うわぁぁぁ、あああ、あああああぁぁぁぁ!!」

「お……お嬢様じょうさま……」


 心臓が胸の中で転がっているのではないかという激しい動悸どうきの中、フィルフィナはようやくねこ死骸しがいを観察することができていた。

 目をそむけたくなるむごたらしい姿ではあったが、見ないわけにはいかなかった。


「あ……あ、ああ……」


 ねこは、深い穴を全身に穿うがたれていた。


 その傷がみな、カラスのするどいくちばしによるものは想像がついた。四羽のカラスにってたかってついばまれたのだろう――左目などは食われたのか、眼球がなくなっている。


 それでも、表情を形作っている顔の筋肉の配置だけはおだやかに見えるように置かれているのが、余計に凄惨せいさんさを感じさせた。


 左の眼窩がんか、収まるものをうばわれ穴だけになったそこから流れ出た血の流れが赤いなみだのように見えて、フィルフィナの血流と心を氷のように冷えさせた。今までに感じたことのないたぐい恐怖きょうふが足の裏からエルフのメイドをおそい、フィルフィナ自身も理解不能のふるえに体が激しくらぎ、きしんだ。


ていたら……ていたら、窓のすぐ外でカラスの大きな声がしたから!!」


 事情をたずねる前にリルルがつばを飛ばしてわめき出す。自分で言葉にしなければ、自分自身もこの状況じょうきょうが整理できないとその顔が言っていた。


「びっくりして窓を開けたら、ねこさんが……ねこさんがぁぁ!!」

「あ、あああ、ああ……」


 四羽のカラスにおそわれているねこを見、リルルは飛び出したのだ。たまたま置かれていたほうきを手にし、それをまわしてカラスたちをはらおうとした――買い出しから帰ってたフィルフィナが聞いた声が、その一部始終いちぶしじゅうなのだろう。


 わずか、二分にも足りない出来事のはずだった。


「ねこさん、ねこさん、ごめんなさい!! わたしが……わたし寝坊ねぼうじゃなかったら!! ねこさんを助けてあげられたのに!! わたしがぐずだったから!! わたしのせいで、わたしのせいでねこさんが死んじゃった…………わたしの、わたしの、わたしのせいでぇ!!」

「お……お嬢様じょうさま…………」


 フィルフィナをしばっていた呪縛じゅばくの効果がようやく、わずかにうすれる。手を前にばすことができ、リルルのかたに手を――置きたかったが、あらぶるほのおのようにわめくリルルをきしめることはできなかった。


 なみだ豪雨ごううを落とす雲となったリルル、それを浴びるねこ

 その一人ひとり一匹いっぴきの領域にれるには、気が遠くなるような量の勇気が必要だった。


「と……とにかく、そのねこをそんないたましい姿のままにしておくことはできません。ねこが、可哀想かわいそうです……」

「フィ……フィ、フィルぅぅ……!!」


 リルルが今日きょう初めて、フィルフィナの方に目を向けた。フィルフィナがそのなみだれきった幼い少女のひとみを真正面からのぞくのは、彼女かのじょにとって、生涯しょうがい最大の勇気が要求されることかも知れなかった。


ねこもお嬢様じょうさまに、こんな血まみれの姿を見られたくはないはずです……。フィルがねことむらいます。ですからお嬢様じょうさま、フィルにそのねこの体をお預けください。お願いです……」

「う、ううう、ううううう…………!!」

「このねこの、そしてお嬢様じょうさまきようになるよう、万事ばんじフィルフィナが取り計らいます。ですから……」


 おだやかさを保とうとつとめたフィルフィナのうながしにリルルはねこいた体を激しくって抵抗ていこうを示したが、数分間の説得に折れ、渋々しぶしぶではあるがねこの体をわたした。

 メイド服やエプロンが血でけがれることを少しもいとわず、ねこの重みをうでく。


 覚悟していたよりも軽い、猫の重み。だが、その軽さが心には重かった。こんなに軽いのか、とフィルフィナのたましいが震えた。


「ああ……」


 フィルフィナは、気がついた。自分が今まで、この猫を腕にいたことがないことに。

 これが、最初で最後のただ一度だけの抱擁ほうようになる――フィルフィナは灰色のその形を一度だけ、ぎゅっときしめた。


「わあああ……あああ、あああ、ああ、あ…………!!」


 いていたねこの形がわずかな支えになっていたのか、リルルの小さな体がその場にくずちる。まだそのなみだの流れはきる気配を見せなかったが、声の高まりは明らかに退潮たいちょうを示していた。


「――――お嬢様……」


 それとわるように、フィルフィナの目がなみだを流し始める。身を張りこうとするあるじの悲しみの発露はつろ邪魔じゃましないよう、フィルフィナは声を殺して泣いた。それでも、殺そうにも殺せない嗚咽おえつ心拍しんぱくのようにのどかられた。


『……あ……?』


 そんな中で、わずかに残っていたフィルフィナの冷静な理性が、腕の中にあるかすかな違和感いわかんとら分析ぶんせきし、言語にすることができていた。


『……かたくて、冷た、い……?』



   ◇   ◇   ◇



「ごめんね、ねこさん……」


 葬儀そうぎは、フォーチュネットの屋敷やしきの庭、その片隅かたすみで行われていた。


「ねこさんに、こんなものしか用意できなくて……」


 リルルがまだ物心つく前に使っていたおもちゃ、それを集めて保管していた蓋付ふたつきのおもちゃ箱が物置から引き出され、よごれを丁寧ていねいぬぐわれたそれが、死んだねこひつぎになった。


 赤くよごれた寝間着ねまきから普段着ふだんぎのワンピースドレスに着替きがえたリルルが、白いシーツにくるまれて傷をかくされたねこに呼びかける。その言葉を背中で聞きながら、フィルフィナはシーツからわずかに飛び出している、黒い右の耳にもシーツを引き上げた。


 フィルフィナもいつものメイド服だったが、血にれたものとは着替きがえている。ねこ葬儀そうぎ埋葬まいそうを、そのねこ自身の血でけがれた服で行うのは恐縮きょうしゅくだというくらいに気が引けた。


「ねこさん、ごめんなさい……本当にごめんなさい……」


 庭にいていた冬の花、その全部をんできたのかというくらいにかごいっぱいの花々でリルルはねこひつぎを満たした――白いシーツがかくれて、完全に見えないほどに。

 そしてリルルはポケットに手を入れ、にぎったひとつのなにかをささやかなひつぎに入れた。


わたしの宝物の、綺麗きれいな石をあげる……これでいっぱい遊んでね……」


 シーツの中でまっすぐにびたねこあしあしの間に、リルルは自分の拳大こぶしだいよりすこし小さな丸い石を置いた。自然石にもかかわらずほぼ完全な球体に近い、深海を思わせる深い青みをびた石だった。


「ねこさん……」


 背中から受けるリルルの視線と声、心をくようなその痛ましさを存分に味わいながら、フィルフィナは決死のおもいで、必要な言葉を口にしていた。


「……お嬢様じょうさまふたを閉じてよろしいでしょうか。もう……」

「うん……」


 フィルフィナがふたかかえ、箱にかぶせる。四本のなわで箱をしばり、封印ふういんとした。

 リルルが箱のかたわらにひざを着き、体をたおすようにして箱に口づけする。体をはなし、立ち上がり、無言でいのりの言葉をつむいだ。


 フィルフィナは箱に口づけこそしなかったが、いのりの言葉は口の中で唱えた。

 それが葬儀そうぎすべてだった。


「――では、収めます」


 あらかじっていた深い穴の底に箱を置き、フィルフィナはリルルにシャベルをわたした。


「お嬢様じょうさま、一回だけ、土をかけてあげてください」

「…………」


 嗚咽おえつは止まったが、なみだはまだ細い川のように流れ続けるリルルが大きなシャベルを手にする。鉄の皿の上に小さく土をせ、それを丁寧ていねいに穴の底、ねこひつぎの上に置いた。

 一礼をしてフィルフィナはシャベルを受け取り、盛り上げられた土をもどす作業に移った。


 ものの数秒で箱は見えなくなり、三分もしないうちに穴はもどされた。

 シャベルの皿で地面を固く平らに整地し、その上にこれも用意していた煉瓦れんがを小さく並べ、表面にセメントモルタルをり広げ、その上にまた煉瓦れんがを並べる。


 そんな作業が、小一時間は続いた。

 その間、フィルフィナから数歩はなれたリルルは一言も発さず、ただただねこのことを回想して細い目のおくひとみくもらせていた。

 やがてフィルフィナが身を起こし、立ち上がった。


 十段ほど煉瓦れんがが積まれた直方体の墓ができあがっていた。めいも何もられてはいない墓だったが、そんなものは必要はなかった。

 リルルもフィルフィナも、その積まれた煉瓦れんがを見れば思い出すだろう。


 せっぽちの見映みばえのしない灰色の毛、右の耳だけが黒い、かけがえのない自分たちの家族であったねこのことを。


「――――」


 最後に、かごに残った花でリルルが墓標の周囲をかざり、フィルフィナと並んで墓標の前に立つことで、埋葬まいそう儀式ぎしきは終わった。


「…………」


 冷たくかわいた風が庭に音を立てるくらいにきつけ、きさらしの二人ふたりの少女をたたく。服が冷え、はだが冷え、心も冷える。

 何かをすることでかろうじてめられていた喪失感そうしつかんが、あらわになる。


「ねこさん……」


 何もかもが冷え切ったこの世界、唯一ゆいいつの例外として、リルルが流すなみだだけが熱かった。


「ごめんなさい……ねこさん、ごめんなさい……」


 生まれた時から一緒いっしょにいたねこが、今はいない。どこに行ってしまったのかも知れている。


 ここからは手の届かない所に行ってしまった、愛するもの。そのおもいのふるえが少女のなみだきせぬものとしてさせ続け、うつむいた少女のほおが流れるなみだによってけずられるのではないかと思わせるほどだった。


わたしがぐずだったから……ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」

「――お嬢様じょうさま


 丸まるようにうずくまり、かたを無限にふるわせ泣くリルルに、フィルフィナは語りかけた。


「……今からお話しすることがどれだけお嬢様じょうさまなげきを減らせるかはわかりませんが、お嬢様じょうさまの苦しみを少しはやわらげることができるかも知れません……聞いていただけますか」


 心と体のなみだすだけで本当に精一杯せいいっぱいのリルルは、こたえない。

 だからフィルフィナは、返事を待たずに語り出した。


「あのねこが死んだのは、お嬢様じょうさまのせいではありません。決して」


 リルルはこたえなかった。だが、悲嘆ひたんふるえが一瞬いっしゅんだけ、止まった。


「あのねこは、カラスに殺されたのではないのです。――何故なぜなら」


 フィルフィナは目を閉じた。自分が組み立てようとする論理の構造を見直し、綱渡つなわたりをするような緊張感きんちょうかんを持って、言葉をつなげた。


「あのねこは、もう、夜が明ける前には死んでいたのですから――」

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