その五「夜と、朝と、黒い風」

「そう、ねこさん、ちゃんといてくれてるんだ」

「はい」


 用事でおそく帰ってたリルルを出迎でむかえ、フィルフィナはリルルが飲んだあとのカップをぼんせながらこたえた。

 が落ちると、居間いま暖炉だんろに火をくべないといけないほどに冷えてくる。小さな暖炉だんろではかれた魔鉱石まこうせきが燃やされ、青白い光を煌々こうこうと発しながらやさしい熱で部屋へやを暖めていた。


「……ですが、寒くなりましたから、なるべく風の当たらない場所で、動かないようにしてやり過ごすのでしょう。姿を見る機会は一段と減ると思いますよ……」

「ねこさんは、お部屋へやの中には入ってくれないから」


 何度か部屋へやに招くのをこころみ、決して成功しなかった体験を数えているのか、窓辺に寄せた椅子いすひざを乗せて窓の外をながめているリルルは、フィルフィナに背中を見せながら言った。

 背もたれをきしめるようにして体を支え、足をぱたぱたと上下させている。椅子いすから転げ落ちかねない危ない姿勢だったが、フィルフィナには忠告する余裕よゆうもなかった。


「ねこさんのためなら、何でもしてあげるのに。ねこさん、どこにいるんだろう……」


 窓ガラスの向こうでは、庭の真ん中に建てられた二本の外灯がいとうあわあかりでうすく周囲を照らしている。そんな明るくもない光をたよりに、リルルはあのねこの姿を探しているようだった。


「そうですね……」


 生返事なまへんじをしながら、フィルフィナは別のことを頭の中でめぐらせていた。

 ――あのねこはいったん姿をかくせば、もう庭に現れることはないだろう。

 りに必要な体力を失い、おとろえた体を守るためにねぐらにこもり、そのまま衰弱すいじゃくしていく可能性が高い。


 冬が過ぎ、暖かな春になっても姿を見せないねこを探して、リルルはどう思うだろうか。冬の間にあのねこのことを忘れてくれればいい――そんな、少しの望みもない期待を脳裏のうりぎらせて、フィルフィナは自分の情けなさに自嘲じちょうした。


「……やはり、さびしいですか」

さびしいよ」


 リルルの応えは、期待以上でも以下でもなかった。


「いつも一緒いっしょだったもん。今だったら、いやがるねこさんを無理矢理でも連れてきたいくらい」

「そうですか……」


 フィルフィナの中で、何かが揺らぐ。だから、次の言葉がれたのかも知れなかった。


「わたしでは、あのねこの代わりにはなりませんか……」


 フィルフィナは自分の口から出た言葉にハッとした。思ってもいなかった言葉だった。

 リルルはかなかったが、足の動きは止まっていた。


「あ……」


 フィルフィナの口が開く。したが言葉を探して、まよった。言葉をつなげなくてはいけない、そんな強迫観念きょうはくかんねんだけがフィルフィナに声をつらねさせた。


 まるで、自分で通るとも信じていない弁明べんめいのようだった。


「あのねこがいなくなっても、わたしはお嬢様じょうさまのおそばにいますよ。さびしくなんかさせません。ええ、決して……ですから……」

「フィルは、あのねこさんの代わりにはならないよ」


 リルルはかずにそうこたえ、それは冷たいつららのやりとなってフィルフィナの胸にさった。

 思いつきを口にしてしまったばつだと思えるほどの痛みだった。


「そ……そ、そうですね……」


 自らのおろかさと後悔こうかいが、フィルフィナのあごと視線を下げさせる。首を支えていることさえも、今のフィルフィナには重すぎた。


「も、申し訳ありません……せんないことを口にしてしまって……」

「だからフィル、いなくならないでね」


 ――え?

 反射的に、フィルフィナの顔が上がる。

 まばたくと、椅子いすの背もたれにしがみついたリルルが、かえった姿勢で見つめてきていた。


 いつもの愛らしい顔なのに、今夜だけはっきりとわかるくらい大人びた目が、フィルフィナを正面から射貫いぬくようにして見据みすえてくる。その心にさる視線に、フィルフィナは固唾かたずを飲んで食道の中に流し込んだ。


「フィルがいなくなって、代わりにあのねこさんが帰ってても、ねこさんはフィルの代わりにならないよ」

「…………」

だれも、だれかの代わりになんてなれないの。あのソフィアのママだって、わたしの本当のお母様かあさまの代わりにはなれなかったもん……」


 リルルを産んで間もなくくなった生母せいぼ、代わってリルルに乳をあたえ育てた乳母うばのソフィア。

 二人ふたりともそれぞれの意味で、リルルにはかけがえのない『母』――聞かされていたそのことをフィルフィナは、呼吸さえできないめた心地ここちの中で思い出していた。


「だから、フィルもわたしそばから、いなくならないで」


 幼い少女が、まっすぐにエルフのメイドを見つめていた。

 リルルのひとみ、そのアイスブルーの色にたたえられた、かすかに焼けてにじむようなかがやき。それをたりにし、フィルフィナの心がふうじられた。


 時をめられた彼女かのじょの心を再び起こすには、次にとなえられる呪文じゅもんが必要だった。


「フィルの代わりは、だれにもできないんだから。ね」

「あ…………」


 フィルフィナのくちびるの先が戦慄わななくようにふるえ、はっ、と息が吸えた。


「わ……わたしは……」


 こたえよう、何かを言わなければならない。

 そう思い、あせるが、思考の歯車は空転して、おもいの動輪どうりんつながらない。

 ただ、アメジストのひとみわきからほろりとこぼれる細いなみだだけが、吐露とろとなってフィルフィナをわずかに、ほんのわずかに軽くした。


「も……申し訳ありません……」


 だから、フィルフィナは動けていた。何かが自分の中からけなければ、一生この場でくしていたのかも知れなかった。


「本当に、くだらないことをお聞かせしてしまって……わたしとしたことが……」

あやまらないでいいよ。フィル。それより」


 にこ、とリルルが笑った。天使のみだった。


「それより、ちょっとおなかいちゃった。なんかおやつない?」

「だ……旦那だんな様と、先ほど、一緒いっしょにお食事をされてきたところでしょう……?」

「量が少ないんだもん。豪華ごうかな感じばっかりで食べた気しなかった。ね、おなかいたー」

「ふ、ふふふ……」


 体をひねったままの体勢でリルルは足と口を動かす。そんな、少女の年頃としごろらしい仕草にフィルフィナも笑い、前髪まえがみはらりをして目尻めじりなみだはらうことができていた。


「ま、まったく、食べ過ぎて太っても知りませんよ。少しだけですからね」

「やった。フィル、大好き!」

「もう、仕方ないんですから……明日あしたにでも、おやつの買い足しをしておかないと……」


 スカートのすそらしてフィルフィナはくるりと身をひるがえし、廊下ろうかつながるとびらに向かって歩き出す。リルルに見えないかげでハンカチを取り出し、それを目尻めじりに当てた。


「お嬢様じょうさまは、本当にお寝坊ねぼうの、いしんぼうなんですからね……」


 微笑ほほえみながらフィルフィナは居間を出る。ハンカチにみて指先に伝わるなみだ、そのあたたかさが、今の彼女かのじょの幸せの温度だった。



   ◇   ◇   ◇



 フィルフィナは考えていた。

 ねこが姿を見せずにいつの間にか消えるように死に、その事実をリルルの心を乱さないようにさとさなければならないのは、冬の気配が終わるころだろうと。


 どう伝えれば少女のなげきを減らすことができるのか、それは冬の間に考えればよい。


 ――それが、自分の願望がんぼうがさせるあまい考えであるということを思い知らされたのは、早くも翌日のことだった。


 日課である市場いちばへの早朝の買い出しに出かけ、買い物カゴをいっぱいにして家路いえじをたどってきたフィルフィナがフォーチュネットていを視界の遠くにとらえた時、運命のすべてをく声がとどろいたのだ。



   ◇   ◇   ◇



 東の空にまだ姿を見せたばかりの朝日が、薄雲うすぐもしに弱い光を街に投げかけているくらいの時刻だった。

 冬に入りかけた季節では寒そうなメイド服姿のフィルフィナが、馴染なじんだ道をややうつむき加減で歩いていた時、鼓膜こまくを針でつくようにするどい声が、屋敷が建ち並ぶ住宅街にひびわたった。


「カァ!」


 瞬間しゅんかん、フィルフィナの目がかれた。ひらめくような予感にそのあごが上がる。

 エルフの鋭敏えいびん聴覚ちょうかくは、それがカラスの鳴き声であることはもちろん、声がした正確な距離きょりと方位とを瞬時しゅんじにして把握はあくしていた――フォーチュネットてい屋敷やしきから!


「カァ! カァ!」

「っ!」


 フィルフィナはした。羽ばたきの音も重なって聞こえてくる、数羽が興奮する気配。屋敷やしきに至る最後の十字路をえたフィルフィナは、カラスたちのさわてる声の向こうに、この場では聞きたくない声を、聞いていた。


「あっちいけ――――!!」

「お嬢様じょうさま!?」


 カラスたちと同じ場所から、リルルの声が聞こえてくる!


「この、この、この、この――――!!」

「クァ! カァァ、カァ!!」


 わめくカラスの羽が空気をたたく音、血が上りきったようなリルルの悲鳴に似たさけび、それが意味することを知ってフィルフィナは買い物カゴをその場に捨て、けられる限りの全速で屋敷やしきへいに向かって真正面から走った――門に回る猶予ゆうよなど、一秒もない!


「リルル!!」


 地をりつけ、フィルフィナはんだ。自分の背丈せたけをより高いへいを一度の跳躍ちょうやくえ、さらへいのてっぺんをくつの裏でっていた。

 常人のわざでは到底とうてい届かない高さの宙に、少女の姿がおどる。


 屋敷やしき母屋おもやを右、それが面する庭を左にしたフィルフィナが空中から見下ろし、正面に目撃もくげきしたのは――四羽のカラスがくるうように群がり暴れる真ん中で、にぎったほうきまわして風を巻いている、寝間着ねまき姿のリルル!


「っ!」


 跳躍ちょうやくの最高点に達していた時にはすでに両の指の上にせられていた小石を、フィルフィナは親指の力だけではじす。それだけの動作で、小石は空気の層をつらぬくのが見えるほどの高速の弾丸だんがんとなって、二羽のカラスを同時にった。


「カァァ!!」


 胴体どうたいの真ん中に強烈きょうれつ一撃いちげきを受けてカラスたちがぶ。フィルフィナの体が庭に着く前にさらに二発、小石の弾丸だんがんち出された。


 リルルを包囲ほういするように飛んでいた残りの二羽にも、容赦ようしゃのない直撃ちょくげきが打った。カラスからけた黒い羽根がい、もんどり打って地面にたたきつけられたカラスは身悶みもだえする声を発し、っていたような襲撃者しゅうげきしゃを前にして一斉いっせいに羽ばたき、空にげていった。


「お嬢様じょうさま大丈夫だいじょうぶですか!!」


 フィルフィナはリルルの元に走った。ちょうどリルルの寝室しんしつの窓のそば、ほとんど建物のかべれる位置で後ろ姿のリルルがほうきを捨ててうずくまる。

 四羽のカラスを相手にリルルが大立ち回りを演じるなど、異常そのものだった。


「お嬢様じょうさま――――」

「あああぁぁぁ――――――――!!」


 リルルの背中からかたにフィルフィナがれようとした瞬間しゅんかん、少女が発したものすごい声にばそうとした手がふるえ、足までが止まってしまった。

 今、この瞬間しゅんかんまで、リルルから聞いたことのない色の声。


 絶望となげき、いかりとかなしみが混濁こんだくした絶叫ぜっきょう

 そのすさまじい迫力はくりょくの前にフィルフィナはすくみきって、全身の血がこおるくらいに冷える感覚を覚えた。


「ねこさんがぁ……ねこさんがぁぁぁ――――!!」


 リルルがく。顔の全部をなみだらし。

 そして、白い寝間着ねまきうで胸元むなもとを、な色で染め上げて。

 少女がいだく灰色の大きなかたまり――赤い色の正体の血をす元。


 フィルフィナののどが音もなく引きつり、息が止まる。アメジスト色の瞳孔どうこうが開く。

 今、この瞬間しゅんかん、時が巻きもどってくれればいいのに。

 そんな願いがだれかに聞き入れられることもなく、現実は、酷薄こくはくに刻み続けられた。


「ねこさんが、死んじゃったぁぁ――――!!」


 幼い少女が降らせるなみだの雨を浴びるように。

 いくつものついばまれたあと穿うがたれたあの灰色のねこが、血まみれの無残なむくろとなって、リルルのうでと胸の中で、永遠に動かなくなっていた。

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