その四「等しさの意味」

 暖かな陽気がいつしかかわいたすずしい空気に変わり、やがて、きを感じさせる冷たいやいばのような気配をはらんできた。

 春から夏、そして秋に移って――今は、冬の入り口。


 風に乗ってやってきた落ち葉が、門から玄関げんかんまでの道をめてくれるようになる季節。

 フィルフィナがこの屋敷やしきにやってきて、半年ほどった日。

 その日もフィルフィナは庭に立ち、ほうきを手にして落ち葉をはらっていた。


 ――声も音もなく近づいてくる、静かな殺気のようなものを覚えながら。



   ◇   ◇   ◇



「最近、ねこさんを全然見ないの」


 んだ表情でこぼされたリルルの言葉が、事態の開幕を告げるベルだった。


「秋の始めくらいは毎朝『にゃー』って起こしてくれたんだけど、最近はめっきり……フィル、知らない?」

「あのねこなら……」


 庭をくフィルフィナに居間から窓越まどごしに話しかけてくるリルルの憂鬱ゆううつそのものの声に、フィルフィナは一拍いっぱくを置いて、言葉を選んだ。


「……確かに毎日ではないですけれど、見ますよ。昨日きのうと、一昨昨日さきおとついも見ましたから」

「じゃあ、どこかに行ったんじゃないんだ……」


 リルルの口元が安らぐ。ただ、顔のかげりのすべてをはらうほどではなかった。


「冷える日も多くなりましたから、あんまり元気じゃないんでしょう」

「そうかなぁ。冬でもそこら辺をのしのし歩いてたんだけど……」

「もうおじいちゃんねこですし。無理がかないとしなのではないですか?」

「フィル、ねこさんを見たら伝えておいて。わたしが会いたがってるって」

「かしこまりました。さ、お部屋へやが冷えるので窓をお閉めください。風も出てきました」

「うん」


 ぱたん、と窓が閉められる。窓ガラスの向こうのリルルがテーブルの上で本を広げだしたのを横目で確認かくにんしてから、フィルフィナは庭の真ん中に歩を進めた。


「……確かに、見なくなりましたね……」


 気にはしていたことだった。

 自らをこの庭の王であるとっていた、右の耳だけが黒い灰色の毛をしたやせっぽちの老猫ろうびょうの姿を見る機会が実感できるほどに減ったのだ。


「確かに一昨昨日さきおとつい昨日きのうも、見ることは見ましたが……」


 それも、フィルフィナの鋭敏えいびんな感覚がわずかな気配を感じ取れたために目撃もくげきできたようなものだ。今までは自分の縄張なわばりを主張するように闊歩かっぽしていた姿などは、もう見ない。庭のすみの土をって虫を探しているのを目のはしに止めたくらいだった。


「また一段とせたように見えましたけれど……あれでは……」


 ほうきにぎったまま開けた庭の真ん中でくし、視線を落としかけたフィルフィナの耳が、豊かなかみの下でピン、とふるえた。みのしげみの中でカサ、となった葉のいに意識が向いていた。


 細まった目の中でひとみだけがそちらを向いた瞬間しゅんかん花壇かだんの中から小さく黒い石のようなものが枝と葉をけるようにして、飛び出した。


「――ネズミ!」


 害獣がいじゅうの出現にフィルフィナの手がポケットの中にまれたのと同時に、もう一つの気配がネズミの後を追うようにして現れ、細められていたフィルフィナの目が大きく見開かれた。


「にゃ!」


 あのねこだった。

 しげみをやぶるようにしておどし、すさまじい勢いで走るネズミを追って四肢ししばし、その体は矢のような速度で獲物えものらえようと追いすがり――。


「にゃっ」


 ねこした前足がネズミのかすって、空を切った。

 両のあしではなく腹から地面に落ち、そのまま動かなくなったねこの目の前でネズミは一目散に門に向かいげていく。


「っ!」


 フィルフィナの手がポケットの中の小石をつまみ、手首がバネのようにねた。まさしく弾丸だんがん弾道だんどうと速度で飛んだ小石はネズミのこし激突げきとつし、狙撃そげきを受けたネズミは吹き飛び、気を失って花壇かだんそばに転がった。


 命中を確かめてフィルフィナは緊張きんちょうき、もう一方に目を向ける。


「あなた……」

「にゃー…………」


 全身をばしたまま腹ばいになり、立ち上がろうともしないねこの側に、フィルフィナは歩み寄った。

 おのれ不甲斐ふがいなさをなげいているように小さくうなねこかたわらにしゃがみみ、かれの体を観察した。


「本当に、せましたね……」


 口と心の中で二度つぶやいてしまうほどに、猫は痩せていた。


 わずかにたくわえていたはずの脂肪しぼうなどはほとんど使い果たし、筋肉さえ動くのに必要最低限の量しかないのではないかという、骨と皮がりになるような姿だった。


「あなたがりに失敗するところなど、初めて見ました」

「…………」


 ねここたえない。見られたくないところを見られてしまったのを、るように押しだまっていた。

 この庭でりをするにもネズミをにがしたことなどは一度も見たことがなく、まよんできたへびや、時には小枝に止まった小鳥さえもっていたねこだった。


 ――それが、今。


「ちゃんと……食べていますか?」

「にゃ…………」


 顔だけを上げ、ねこはフィルフィナを見上げた。より細くなった目のはしに、かたまりのような目やにがこびりついている。フィルフィナはハンカチを取り出し、それをはらってやった。


「……体調がおもわしくないようですね。小さな獲物えものにはありつけているようですが……」

「…………」

「わたしは、なるべく他者の領域にはまない主義です。お嬢様じょうさま以外には。……ですが、あなたはお嬢様じょうさまの世界に生きる存在です。放ってはおけません。体を大事にしてください。わたしからの、心からの願いです」

「……にゃ」


 ねこ両脚りょうあしをふらつかせて立ち上がった。もう自分の体重を支えるのも苦労がるのか。


「待ってください」


 そのままねぐらの方に歩き出そうとしたねこを、フィルフィナは止めた。


「あなた、あのネズミを追っていたのではないのですか?」


 距離きょりはなれているとはいえ、たおれて転がっているネズミをそのままにして去ろうとしたねこの様子に、フィルフィナは思わず早口になっていた。


せているのですから、食べないと。そのためにあなたはあのネズミをろうと追っていたのでしょう。それを…………あっ」


 不意に、フィルフィナの背筋を小さな電撃でんげきのような感覚が走って行った。それは天啓てんけいさずけられたようなひらめきだった。

 そういえば、一度も見たことはなかった。


 このねこをあんなに可愛かわいがっているリルルが、えさをやろうとしたことがないことを。


「あなた……」


 リルルがえさをやることをこころみたことがない、なんていうことは考えられない。

 考えられるとすれば、このねこは、リルルからえさをもらうことをこばんだのだ。

 だから、リルルとこのねこの間には、えさのやり取りが発生しない。


 リルルは、言っていた。


「『この子は飼ってはいないけど』と……。そういうことなのですか……」


 フィルフィナが猫を見つめるひとみの温度が、変わった。


 リルルとこのねこは、住まいを近しくしているだけの、対等な関係なのだ。

 だから、一方的なほどこしは存在しない。食べ物も、愛情も。


「あなた……本当に気高けだかねこなのですね……」


 孤高ここう

 みすぼらしい外見でも、自分の力だけで生きようとするその精神の在り方に、フィルフィナは思わずなみだこぼしそうになった。


 こんな場所で、こんなに出会いがたい心に出会えるとは。


「……失礼しました。わたしはおもちがいをしていたようです。……ついでとは言ってはなんですが、あなたにひとつ、おたのみする事があります。聞いてもらえますか」


 小首をかしげたようなねこに向かい、フィルフィナは矢継やつばやに言葉をつなげた。


「あそこで転がっているネズミを片付かたづけてください。わたしはネズミの死骸しがいになんて興味がありません。わたしは庭を綺麗きれいにすることが仕事のひとつ。それを手伝てつだっていただければありがたいのです」

「…………」

「確かにおたのみしました。それと、一日も早く元気になって、お嬢様じょうさまに顔を見せてあげてください。あなたがいないとお嬢様じょうさまがお顔をくもらせるのです。いいですね」

「――にゃ……」


 うなずいたのかねこは頭を下げると、フィルフィナの靴の先に鼻の先を当ててから、よろよろと歩き出した。動かないネズミの首を口でくわえ、少し難儀なんぎをするように獲物えものを重そうに運び、ねぐららしき方に姿を消していった。


「本当に、お願いしますよ……」


 ねこが残していった足跡あしあとにフィルフィナは語りかけ、それから空をあおいだ。

 冬の乾燥した空気が、清冽せいれつな青の色を空にかぶせている。目にみるようなその青い色に、少女は迷う心を漂わせた。


「そうなったら、わたしはお嬢様じょうさまにどう伝えればいいのでしょう……。ねこはどこかに行ったらしい、と伝えるべきなのでしょうか……。弱ったねこは身をかくすといいます。――そのまま見つからなければ、どこかに行ったのと同じことになるのでしょうが……」


 幼い少女の心をくには、十分過ぎる力を持つ事実。リルルの心を守るには、いったいどうしたらいいのか。


「……屋外で生きる猫は、十年も生きれば長寿ちょうじゅといいますからね。それに比べて、わたしは七百年……あと六百年は軽く生きられる……そんな命でも、お嬢様にとっては同じ命なのでしょうね……ふふふ……」


 皮肉ひにくでも自嘲じちょうでもない。エルフの命が猫より重いとか、猫の命がエルフより軽いとか、そういう領分をはるかに超えた先に、真実がある。

 フィルフィナは、あの猫とこの庭で出会えたことを、幸福なことだと思った。


 故郷こきょうの里では決して学ぶことのできないことを、この小さな庭は教えてくれる――。

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