その三「切り取られる、永遠」

 最初は体に合わないと思ったメイド服が次第しだいに体に馴染なじみ、目をつぶってでも屋敷やしきの中を歩けるほどには仕事にれてきたフィルフィナは、その暮らしの中で幸福を感じていた。


 すべてがおだやかで、静かで、やさしかった。


 人間の軍勢にまれる前の里も平和ではあったが、外界と隔絶かくぜつした世界の中では、常に緊張きんちょうめていた。そのせまい世界を自分が守らなければならないという責任感、気負いが常にかたにかかり、それが肩凝かたこりのようにフィルフィナの心をらせていた。


 その里よりもっとせまいこの世界は、ただただ、あたたかくかろやかで、安らぎがあった。


「まあ」


 庭の東のすみに建てられた小さな東屋あずまやせまいテーブルを囲んで四人も入ればいっぱいになってしまう屋根の下に一きゃく安楽あんらく椅子いすが設置されている。そのあしがアーチ状になった椅子いすの上で、やわらかい風と陽光にほおでられながらリルルがねむる姿があった。


「またここでお昼寝ひるねですか」


 夜更よふかしも好きだが、ねむるのはもっと好きな少女がかべる愛らしく幼い寝顔ねがおに、フィルフィナはほうきを手にしたまま微笑わらってしまう。午前の勉強の時間でつかれたのか、うたたではない熟睡じゅくすい寝息ねいきが、規則正しくれていた。


大人おとなしくねむっていていただければ、遊ぼうとせがまれることもないのでわたしは楽ですが……。いったいどんな夢を見ているのですかね……おっと」


 リルルのかたからずり落ちそうになっている厚手のガウン、それを直そうとしたフィルフィナは、しげみのかげから不意に現れた気配に足を止めた。


「にゃあ」

「おや」


 フィルフィナの前で立ち止まったのは、あの灰色のねこだった。エルフのメイドの足元に歩み寄ってきて首を上げ、そこだけが黒い右の耳をぴくりと動かして見せた。


「こんにちは。今日きょうもいいお天気ですね」

「にゃ」

「そういえばあなた……お嬢様じょうさまに名前はつけてもらってないのですね」


 フィルフィナの言葉をるようにしてねこは体をよじり、低い階段を上って東屋あずまやの屋根の下に入っていく。

 ゆっくりとした調子でれている安楽あんらく椅子いす、その上でねむんでいるリルルに目を向けると、いている椅子いすだいにしてテーブルの上にがった。


「にゃー」


 そのまま、するりとテーブルの上からリルルのひざに下り、物顔ものがおで体を丸めた。


「むにゃむにゃ」


 ねこはまるでリルルの体そのものを安楽あんらく椅子いすにするかのように、リルルのおなかひざが作るゆるやかな曲線のつながりに背を寄せ、少女の内側にぴったりと収まる。

 肘掛ひじかけにせられていたリルルのうでが自然に下り、目を閉じたねこの上にかぶさって、幸せな形が完成した。


 ほうきを持ったまま一連の動きを無言でながめていたフィルフィナの目が、縦にびた。


「すやぁ」

「にゃー……」


 安楽あんらく椅子いすゆるやかにれる。安息と幸福に満たされてねむ一人ひとりと一ぴきせて。


「……うらやましいですね……」


 少女のひざいだかれてねむねこ、その安らぎ、うれしげで、満ち足りた表情に、フィルフィナは素直すなおすぎる感想を息と一緒いっしょらした。

 できれば、このねこと今すぐ代わってほしかった。


「生まれ変わったら、わたしもねこになってお嬢様じょうさまの膝にかれてみたいところです……せんない願いですが……」


 くすりと笑ったフィルフィナはふとした思いつきに手のほうきを置き、屋敷やしきにいったん入る。時を置かずして一枚の葉書大の白い厚紙と一本の鉛筆えんぴつを手にもどってきて、そよ風のひとつも起きないよう静かに足を運び、リルルとねこの対面にすわった。


「さて、絵などいたことはないのですが、上手うまくいきますか、ね……」


 細い指が鉛筆えんぴつにぎる。鉛筆えんぴつの先がさほど広くない厚紙の表面をすべす。

 しばらくの間、やさしい風が庭の花々をでる音、リルルとねこ寝息ねいき以外、世界には何も聞こえなくなった。


 ここは少女とメイドとねこがいるだけの庭。

 閉ざされた、完璧かんぺきで、幸福な世界だった。


 そんなやさしい世界の一部が、エルフのメイドの少女によって切り取られていく。

 いくらかの時間が流れて、おどり続けていたフィルフィナの手は止まった。


「ふう」


 真っ白だった紙が必要なものだけでくされ、フィルフィナは満足の吐息といきらして鉛筆えんぴつを置き、自分が切り取った世界と現実の光景を合わせるように見比べた。


「……初めての割には、これはとても上手うまえがけたのではないですか?」


 切り取られた世界にあるのは、細く黒い輪郭りんかくと、光とかげだけ。

 たったそれだけで構成された少女と、ねこと、安楽あんらく椅子いす

 永遠に動くことのない、永遠の世界だった。


「わたしは絵の才能もあるようです。なんと優秀ゆうしゅうなメイドなのでしょう。さすがわたし」


 微笑ほほえみ、フィルフィナは椅子いすから立ち上がった。ほどなくしてリルルは目覚めるだろう。『おなかが空いた、おやつはない?』と言って。


「まったくうちのお嬢様じょうさまいしんぼう。付き合わされる方は大変です。ああ、何を用意しましょうかね……」


 心地ここちよいなやみにおもいをあたためながらフィルフィナは東屋あずまやはなれ、屋敷やしきに向かった。故郷の里では得られることのなかった、安らかな幸福感が胸いっぱいにあった。



   ◇   ◇   ◇



 閉ざされた世界に、やさしい風がいていた。


 リルルはぼすけだ。

 朝、フィルフィナが寝室しんしつおとずれて起こさねば、昼までねむっているのではないかという勢いでくぅくぅとねむつづける。まくらきしめ、満ち足りた顔で夢の世界にただよっている。


 早朝、いつもの買い出しに出かけ、太陽がやや上がってきた時刻になっても、フィルフィナはそんなリルルを起こそうとはしない。少なくとも時計とけいが八時を示すまでは待った。


 今朝けさも買い物かごをいっぱいにしたフィルフィナが市場から屋敷やしきに帰ってても、リルルの寝室しんしつのカーテンは閉ざされたままだった。


 リルルの寝室しんしつを外からうかがい、やはり起きている気配がないことを確かめ、フィルフィナ勝手口に回ろうとして、屋敷やしきかべ伝いに歩いてくる例のねこ鉢合はちあわせする。


「おはようございます」

「にゃー」


 挨拶あいさつらしい声を発してねこはフィルフィナのくつに鼻先をちょん、とつけ、そのまますれちがった。歩いて行く背中を足を止めて見送ったフィルフィナの視界の中で、ねこはリルルの寝室しんしつの窓の真下で足を止め、体をばすようにしてぶ。


 窓枠まどわくに前足を引っかけてしがみつき、そのままの体勢で「にゃあ」とはっきり鳴いた。

 窓ガラスの向こう側で足音がどたどたとひびいたと思った瞬間しゅんかん、シャッ! とするどい音が走ってカーテンが開く。


 しがみついているねこの前足の上をかすめるように、外開きの窓が勢いよく開けられた。

 長いかみをぼさぼさにした幼い少女の、よだれに少し口元をよごした笑顔えがおが現れた。


「ねこさん、おはよう!」

「にゃー」


 寝起ねおきの快活な挨拶あいさつこたえたねこは、身を乗り出すリルルにきしめられた。少女の遠慮えんりょのないほおずりにヒゲを曲げられても文句も言わず、ねこは朝の抱擁ほうようを体いっぱいに受ける。


「ねこさんは今日きょうもかわいいねー」

「にゃ」

「朝ごはん食べたらいっしょに遊ぼうね。朝ごはんはまだ? あれ、フィル?」

「ここにいますよ」

「あ、いたいた」


 少しの距離きょりはなしてリルルとねこの視線を受けたフィルフィナは、まぶしいその光景に目を細めた。


「フィル、おなかすいた。ごはんにして!」

「朝の挨拶あいさつの前にそれですか。まったく。お嬢様じょうさま寝坊ねぼうの上にいしんぼうなんですから」

「おはようおはよう! これでいい?」

「はいはい、おはようございます。もうシチューは温めるだけなのですぐに朝食にいたしますよ。だからそんなにえないでください」

「またシチュー? フィルはシチューしか作れないんだ」

「文句があるならシチューもきでパンだけですよ」

「わ、それはいやだね。ね、ねこさん」

「にゃー」

「まったく」


 フィルフィナは勝手口に向かい直して歩き――そして、またかえった。


「そういえば……」


 よくも窓からこぼれ落ちないものだという姿勢で身を乗り出したリルルのはしゃぐ姿と、そのうでの中からするりとけて地面に降り立ったねこの姿が遠くに見える。

 あれだけねこ可愛かわいがっているリルルが、寝室しんしつの中にねこをひっぱりんだことは一度もなかった。布団ふとんの中で一晩中、まくらの代わりをさせていても不思議ではないというのに。


「……ちがいますね。ねこの方が屋敷やしきの中に入ろうとしないのか……」


 今も、リルルが部屋へやの中に体をもどそうとした途端とたん、なすがままにされていたはずのねこが身を退くようにうでの中からのがれたのだ。

 まるで、建物の中に入るのをよしとしていないように。


「庭が自分の領域であって、建物の中はそうではない、ということですか」


 それが、ねこおのれに定めた領分なのだろう。自分のねぐらかどこかに向かおうと尻尾しっぽりながら去って行くねこの後ろ姿を遠くに見つめながら、フィルフィナはおもった。


「そうなると、屋敷やしきの中でわれているわたしなどは気位においておよびもしないと……そういうことですね……えらいものです」


 動物でも持っている気高さがあるということに、フィルフィナは口元をゆるませた。


「わたしも見習わなくては。――さて、お嬢様じょうさまにご飯を食べさせないと……」



   ◇   ◇   ◇



 しばらくの間、そんな時間が積み重なるように何気なく過ぎていった。


 朝、まだねむっているリルルを、窓辺にしがみついたねこが鳴き声で起こし、笑顔えがおのリルルが飛び出してくるという光景をフィルフィナは何度も目撃もくげきした。


 居間での勉強の時間、一冊の教科書を開いて教授しているフィルフィナ、首をかしげてそれを聞いているリルルといった構図を、いつの間にか窓の外からねこがのぞきんでいるのに遭遇そうぐうするのもめずらしくなかった。


 わきまえているのか、ねこは声をかけることもなくじっと見つめているだけで、眉根まゆねを寄せて設問に集中しているリルルが気づかないほどだった。その気づかいにフィルフィナもえて気づかないふりをし、何もなかったように授業を続けた。


 大して何も変わらず、安らぎだけがあり、かえってみれば、とてつもなく貴重きちょうな時間。

 そんな、満月のように満ち満ちた時間。


 だが、リルルもフィルフィナも、知っているはずのことを忘れていた。

 ――満月はいずれ、残酷ざんこくけゆくものであるということを。

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