その二「庭の王とエルフのメイド」

 せっぽっちで色もきたなく、とっくにい始めている、どこのものとも知れない野良のらねこ

 そんなねこを両のうででぎゅっといだき、心底からうれしそうに笑う少女――リルルの姿に、フィルフィナの顔がこの屋敷やしきころがりんでの、いちばんの困惑こんわくの色を示した。


「お、お、お嬢様じょうさま……そんなきたないのをげるなんて、ばっちいです。野良猫のらねこほおずりするなど、仮にも貴族のご令嬢れいじょうがなさることでは……」

野良のらじゃないよ」

「は?」


 フィルフィナの顔がこの屋敷やしきころがりんでの、いちばんの情けない色を示した。


っているのですか? いつの間に? そんなきたなねこを?」

きたなきたないなんていっちゃダメ。この子は飼ってはいないけど、ずっと前からうちの屋敷やしきに住み着いているの」

「ずっと前から?」


 ああ、それで毎日のように見るのかとフィルフィナは納得なっとくしかけ、


「い、家の中で飼ってなければ、野良のら同然ではないですか。見た目も全然よくないし、もっとお嬢様じょうさま相応ふさわしいねこがいくらでも……」

「この子はわたしが生まれる前からこの屋敷やしきに住んでるの。お父様とうさまが言ってた」

「は、は、はぁ?」


 六年も前、いや、それ以前に――道理で高齢こうれいに見えるわけだ。


「だからこの子はフィルの先輩せんぱいなんだよ。ダメじゃない、先輩せんぱいに失礼な態度は」

「にゃあ」

「わ、わたしが、このねこ後輩こうはい……。下の立場ですか……」


 フィルフィナの目元と口元がゆがんでふるえる。情けなさより先に可笑おかしさがにじみ出て、不思議と侮辱ぶじょくは感じなかった――自分は高貴な種族、ほこたかいエルフだという認識にんしきよりも先に、自分はここで下働きするただのメイドである、という自覚が前に出た。


 心が、軽い。里にいた時のかた強張こわばりがない。それがエルフの少女を素直すなおにさせていた。


「確かに、ずっと前から住んでいるこのねこに比べて、わたしは外で拾われ連れてこられた上に、日も浅い……なるほど、これでは勝てる要素がひとつもないですね……」


 フィルフィナはほうきを足元に置いた。そのままメイド服のスカートのすそをつまみ、優雅ゆうがな仕草で広げて見せた。


「――ご挨拶あいさつおくれまして、申し訳ありません。わたくし、フィルフィナと申します。どうぞ、よろしくご昵懇じっこんのほどを……」


 非の打ち所のないカーテシーで礼をする。そんなフィルフィナにリルルのうでの中のねこは『苦しゅうない』というようにひとつ鳴き、灰色の毛の中でそこだけ黒い右の耳をひょこひょこと動かして見せてから、するんとリルルのうでからした。


「あ、ねこさん、待って」


 されたリルルが追うが、ねこみのしげみの中に入って姿を消し、そのまま枝葉をける音だけを残してはなれていった。


「あのねこさん、朝にはかせてくれるけど、何分かしかさせてくんない。いつもすっとげちゃうんだ。ずっといてなでなでしてあげたいのに」

「……その日分の家賃やちんはらったということなんでしょう。しかし……」


 フィルフィナは襟元えりもとを正し、コホンと咳払せきばらいした。


「お嬢様じょうさまが大変なねこ好きなのはわかりました。ですがやはり、どんな所を歩いているかわからないねこを軽々しくくのは、感心しません。衛生面えいせいめんでも色々と問題が……」

「ちゃんと後で顔と手は洗ってるもん。おなかこわしたこともないし」

「できたら服も洗濯せんたくしてほしいところですが……くつも合わせて……」


 二人分ふたりぶんとはいえ、結構な労力がかかる洗濯せんたくの作業を思い返してフィルフィナは言った。


「それに、お庭にねこを放置しておくのもいかがなものでしょう。ねこふんもすれば尿にょうもします。せっかくのお庭をいためることになりますよ」


 昔に裕福ゆうふくな商家のものを買い取ったという屋敷やしき、そして庭の全景を見渡みわたしてフィルフィナは進言した。伯爵はくしゃく号を持つ貴族の邸宅ていたくとしてはまとこにこぢんまり・・・・・としている方だったが、それでもこの屋敷やしきはそこそこの規模きぼほこっていた。


 取りあえず色がつく花がけばいいという、あまり手入れもされていない花壇かだんが何面か、手間がかからない品種を選んで植えられたみ、手を洗えるくらいの小さな噴水ふんすいすみの方に四人も入れば満員になってしまう小さな東屋あずまやで構成されている庭は貧相ひんそうなものだったが、庭は庭だ。


「その庭を管理するのも、わたしの仕事なのでしょう? なら……」

「ねこさんは、お庭のそこら辺でお便所しないよ」


 フィルフィナの口が動くが、言葉は出なかった。


屋敷やしきすみ格子こうしふたがかかってて、下に下水の水が流れるみぞがあるでしょ。ねこさんはそこでいつもお便所してるの。このお庭、ねこさんのばっちいのでくさかった?」

「……そういえば……」


 昔から住み着いているという話なのに、糞尿ふんにょうたぐい目撃もくげきしていない。その事実に思い当たって、フィルフィナは頭の中でも言葉が空転した。


「ということで、これはねこさんの勝ち」

「ですが……」

「それに、ねこさんは外から来るネズミを退治してくれてるよ。ネズミの一ぴき屋敷やしきの中で見たことないでしょ」

「ああ……」


 この規模の屋敷やしきならネズミの侵入しんにゅうけられないものだが、屋根の裏をネズミが走るという気配も感じたことがなければ、貯蔵している食料がらされた形跡けいせきも見たことはない。フィルフィナは懸命けんめいに反論を組み立てようとしたが、そのことごとくが無駄むだだった。


「ねこさんはフィルと同じくらい屋敷やしきの役に立ってるもの。だからいていいの。お父様とうさまも追い出すことはないっていってたし。フィル、まだ何かある?」

「…………ありません」

「じゃあフィル、ねこさんと仲良くしてね」


 にぱ、と勝利のみをその愛らしい顔にかせ、リルルは屋敷やしき玄関げんかんに向かって歩いて行った。そんなあるじの後ろ姿を見送りながら、フィルフィナはいっぱいの苦笑くしょうかべた。


「これでは、わたしが勝てるわけはありませんね……」


 そもそも、あのねこにリルルが心底からの愛情を注いでいるのなら、それをがすという選択肢せんたくしそのものが存在しないはずなのだ。

 リルルの喜びは、自分の喜びなのだから。


「……新入りは新入りらしく、大人おとなしくしていることにしましょうか。先輩せんぱいは立てなければ」


 自分に言い聞かせ、フィルフィナは庭を掃除そうじする作業にもどった。この庭があのねこ縄張なわばりであり、リルルがそれを尊重そんちょうしているのなら、自分はその美しい場を守るだけなのだ。



   ◇   ◇   ◇



 朝のちょっとした騒動そうどうから、二時間もしたころ


 裏庭の洗濯せんたくし場で、フィルフィナは水を張ったたらいで中の洗濯物せんたくものを洗い、すすぎ、しぼって物干ものほ竿ざおにかけるという作業に没頭ぼっとうしていた。


 エルフの里ではこんなことなどしたこともないし、やらせてもらえるはずもなかった。ちょっとした手ぬぐい一枚といえど、下働きの者に投げていればそれですんだのだ。


 フィルフィナが頭を下げる相手は、母である女王ただ一人ひとりだけ。うやうやしく挨拶あいさつしてくる臣下に会釈えしゃくをしたこともないフィルフィナにとって、この屋敷やしきは異世界そのものだった。

 それでも、今の境遇きょうぐうに不満など覚えなかった。すべては、自分で選んだことなのだから。


 他人の服や下着、シーツを一生懸命いっしょうけんめい洗い、よごれを落とし、新品同様にする――その作業にフィルフィナは喜びすら感じていた。すべては、あのリルルのためになるのだ。


「ふぅ」


 最後の大物であるシーツを物干ものほ竿ざおにかけ、額のあせを手でぬぐい、一段落いちだんらくの息をらしたフィルフィナの耳を、カサ、と草をける小さな音がさわった。

 ふくらむようなかみにほとんどうずもれているフィルフィナの耳が、ひく、とねた。


 反射的に手がポケット――あらかじめ適当な大きさの小石がいくつか入れられている――にまれる。指でし、相手にぶつけるための暗器あんきだ。


 音がした低い場所、音のかわき具合から目標は小動物、おそらくはネズミか。直感したフィルフィナに回答するように、次には物陰ものかげからその音の正体が飛び出していた。


 ――ネズミ!


「!」


 右手の人差し指に小石をせ、それを親指で勢いよくはじそうとしたフィルフィナは、すんでのところで動きを止めた。

 飛び出したネズミを後から風の速さで追う、一回り大きいかげが視界を過ぎったからだ。


「にゃっ!」


 地をって走るネズミを確実に追尾ついびし、小さな砲弾ほうだんのように、灰色のかげんだ。

 一直線に走る白いネズミとの距離きょり一瞬いっしゅんにしてめられる。

 フィルフィナがまばたきをした時には、横殴よこなぐりの殴打おうだを受けたネズミが、宙をっていた。


「――――」


 ぼてっとネズミが地面でねたと同時に、かげの正体が地面をんで残心ざんしんを切る。その灰色のかげの正体に、フィルフィナは賞賛しょうさん拍手はくしゅを送っていた。


「お見事」

「にゃ」


 フィルフィナにこたえたのは、朝のちょっとした騒動そうどうの主であるあのねこだった。

 気絶したネズミを前脚まえあしで転がし、動けなくなっているのを入念に確認かくにんしてフィルフィナに向き直る。その仕草は熟練じゅくれんした狩人かりゅうどのそれだった。


「先だっては大変失礼いたしました。きたないなどと言ってしまった無礼、おびします」


 こしを直角に折って謝意しゃいしめすフィルフィナに、ねこが小首をかしげて見せた。そんなねこの前に歩み寄り、フィルフィナはひざまずく。洗濯せんたく場の地面は土だったが、このねこの前ではスカートをよごすだけの価値はあった。


「そもそも、わたしはあなたのことをきたないなどと言える身分ではないのですよ。ここに連れてこられた時はもうきたないどころか、ゴミ同然でしたから……」


 たかだか一週間前の話だった。

 人間たちに襲撃しゅうげきされたエルフの里、仲間が里を捨てて撤退てったいするその殿しんがりをたった一人ひとりつとめて仲間を守り切り、逃亡とうぼう行方ゆくえをくらました先のこの王都で、自分はえと寒さのために力尽ちからつき、貧民街ひんみんがい軒先のきさきよごれきった身で行きだおれていた。


 あの時、リルルに見つけられ、拾われなければ、本当のゴミになっていたところだろう。


「……拾われたわたしなどに比べ、あなたは自分の意志でここに住んでいる。そもそもから立場がちがうのです。それもわきまえずに、あんな失礼なことを……」

「にゃあ」


 鳴き声がはずむ。そんなことは気にするな、と言うようにフィルフィナには聞こえた。


「……ありがとうございます。そのおびの印といってはなんですが、あなたのお体を洗わせてはもらえませんか」

「にゃー……」


 びたねこ尻尾しっぽが大きくられ、ぺちぺちと地面をたたく。


「なに、冷たい水ではありません。気持ちいいぬるめの湯を用意させていただきますよ」

「にゃっ」


 ねこ尻尾しっぽがぺち、と地面に落ちる。わかった、ということなのだろう。そのねこの仕草、表情、声音こわねの色から伝わってくる曖昧あいまいなものに、フィルフィナは思わず微笑ほほえんでいた。


「……わたしはねこの言葉などかいさないはずなのですが、あなたの心は何故なぜかよくわかりますね。不思議なものです。ねこはみなそうなのか、あなただけが特別なのか……」

「にゃあ」

「それでは、すぐ用意しますね。お待ちください」


 フィルフィナはたらいの水を浅く張り直し、給湯室に向かった。



   ◇   ◇   ◇



「にゃー……」


 ねこあしを折りたたみすわっても背中までからぬ浅いぬるま湯の中で、うでまくりをしたフィルフィナの手によって灰色のねこが洗われていた。ふたつのたらいの片方で石鹸せっけんあわが立ち、その中心となったねこ気怠けだるげな鳴き声を上げている。


「……意外によごれていないものですね。もっとこう、ノミなどついているものだと思っていましたが……え? ノミ取りはしっかりしている? お嬢様じょうさまに移ったら大変だから? たまに噴水ふんすいで水浴びも……? ああ、なるほど……」


 でるようなやさしい手つきの中でにゃあにゃあと上がる鳴き声から、意味が伝わってくることにフィルフィナはいちいち笑ってしまった、


「あなた、本当にお嬢様じょうさまのことが好きなのですね……」


 リルルが生まれる前から、このねこ屋敷やしきに居着いている。なら、窓の外からあかぼうころのリルルをのぞいたり、ようやく自分で歩けるようになったリルルを庭で見つめていたりしていたことだろう。フィルフィナのひとみの裏で、そんないくつもの幻像げんぞうが再生された。


「……わたしは、あなたがうらやましい。わたしが決してることはできないものですから……。わたしもねこに生まれ、この屋敷やしきで住んでいれば、あなたのように可愛かわいがられたのかも……」

「にゃっ!」

「ああ、これは失礼しました」


 ねこのおしり辺りを洗っていたフィルフィナは、自分の手がすべったことをあやまった。


「あなた、おすだったのですね……いえ、そうではないかと思っていましたが……いえ、本当に申し訳ありません。さあ、こちらのたらいですすがせていただきますよ」

「にゃ」


 もう片方のたらいに移ったねこが頭から湯を受け、あわの全部を落とされる。湯が体を流れ落ちた途端とたん、全身がぶるぶるぶるとふるわされ、フィルフィナは正面からその飛沫しぶきを受けた。

 タオルで水気を丁寧ていねいぬぐわれたねこが、首と背筋をばした姿で洗濯せんたく場の真ん中にすわる。


「いかがですか、気持ちよかったですか」

「にゃあ」


 その目尻めじりを満足の意を示すように垂れ下がらせたねこが、機嫌きげんのよい声で一声鳴いた。決して凜々りりしいとも愛らしいともいえない顔立ちだが、体をピンとばしてすわる姿は美しい。このなんでもない洗濯せんたく場がまるで王宮、玉座ぎょくざの間かと思わせる威風いふうさえただよわせている。


「そうされているとどこか、王者の気品さえ感じさせるものですね……」


 お世辞でもなんでもない。『王』をる者として、少女は素直すなおな感想を述べていた。

 それほどの時間を必要とせず短い毛はかわき、その仕上がりにねこは満足気に鳴いた。そして、まだ目を回して動けずに転がっているネズミの尻尾しっぽをくわえる。


「行かれるのですか」


 おしりを向け、ひょいとばされた首で挨拶あいさつされたフィルフィナは、思わず微笑ほほえんだ。このねこ礼儀れいぎ礼節れいせつも知っている。この屋敷やしきに住まい、我が主の側にいるに相応ふさわしいねこであるという認識にんしきに心は暖かくなるだけだった。


「あなたもおいそがしい身なのですね。……またゆっくりとお話しさせていただければ幸いです」


 ネズミをくわえたままねこはうなずき、そのまま洗濯せんたく場のおくに向かって歩き去って行く。この先にねぐらがあるのだろうか、その正確な場所はリルルも知らないと言っていた。


「……久々にいい交流をさせてもらいました。外の世界というものは、面白おもしろいものですね」


 青くわたった空を見上げ、は、と息をいてからフィルフィナは軽い足取りできびすを返した。

 住むのはあるじひとりだけとはいえ、ここはお屋敷やしき。その仕事は山ほど積み上がっているのだ。

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