番外編「リルルと、フィルと、ねこ」

その一「フォーチュネットの庭」

 ――これは、傷つき王都の貧民街ひんみんがいの一角でたおれていたフィルフィナが幼いリルルに拾われ、彼女かのじょのメイドとなってフォーチュネット家で働き出し、一週間ほどがったころの話――。



   ◇   ◇   ◇



「はぁ」


 早朝のフォーチュネット家の庭、門から屋敷やしき玄関げんかんに続く石畳いしだたみの道を、紺色こんいろのエプロンドレスに身を包み、真っ白なエプロンを前に垂らした一人ひとりの少女がほうきいていた。


 おだやかな朝だった。

 空にはうすく雲がかかっているが、洗濯物せんたくものすのに心配になるほどのものではない。百人が視線をあおがせれば七十人は「晴れだ」と断じるような空模様だ。


 ゆるやかな風は冷たくなく、少女の長いかみをさわさわとやさしくさわってくれる。一週間ほど前まで王都にけていたあのするどく冷たい風に比べれば、あまいくらいにやさしい風だった。


 そんな中を、少女はたったひとりで庭をく。同僚どうりょうのメイドもいなければ、メイドたちを監督かんとくする執事しつじもいない。

 この屋敷やしきつとめる使用人は、自分を合わせて計一名。


 そして、この屋敷やしきに住まう主人も約一名――少女はそう理解していた。

 まだ六さいと幼い伯爵はくしゃく令嬢れいじょう、リルル・ヴィン・フォーチュネット。

 少女をこの屋敷やしきに招き入れ、二度と出ていけないのろいでしばけた張本人だった。


 もっとも少女は、そののろいをとてつもなく甘美かんびなものとして受け入れたのだが。


 とはいえ、リルルはあくまで少女の直接の主人であるだけで、この屋敷やしきの本当の当主は別にいる。

 ログト・ヴィン・フォーチュネット。

 伯爵はくしゃく号を有するれっきとした貴族であり、リルルの父親だった。


 少女がこの屋敷やしきころがりんだ時にはかげすら見せず、幼いむすめだけで住んでいるわけはないと少女は思っていたが、どこか上がらない風采ふうさいが貴族というより商人に見せているこの男は一昨日、ようやくその姿を見せた。


『お前が新しいメイドだと?』


 顔の知らない少女が自分の留守中にいつの間にか居座いすわり、屋敷やしきに勤めていた執事しつじや前のメイドたちが代わりにすべしたという報告に、ログトは少しだけおどろいた顔を見せた。


 げた理由は聞かずとも推測すいそくできたらしい。目の前で直立しているメイド服姿の少女が、森妖精もりようせいの一族――エルフにしか見えなかったからだ。


 人間に比べて美しく洗練せんれんされた容貌ようぼうを持ち、長くとがった耳を特徴とくちょうとする森の種族。人間に比べて十倍は長いという長寿ちょうじゅほこるこの妖精ようせい族たちは気位きぐらいが高く、そのほとんどが深き森の中に逼塞ひっそくし、人間たちとまじわらない。


 ――少なくとも、人間側はそう理解していた。


 里にいられない事情を持った者、冒険心ぼうけんしんを持った相当の変わり者がごくごく少数だけ人間の領域に入ってくる。世界最大の巨大きょだい都市であるこの王都エルカリナにも、大通りを一日見張っていれば何人かは目撃もくげきできるくらいの人数はいるだろう。


 自分たちをたっとい存在であると自負じふし、人間を見下すエルフたちを、人間もまた冷たい視線で見返した。『エルフと言葉を交わすとのろいがかけられる』という昔からの迷信めいしんを頭から信じる者も少なくない。


げたのか。なら、契約けいやく違反いはんだ。退職金ははらわんでいいな』


 ログトはそう納得なっとくし、自分の前で背筋をばして立つメイド服姿のエルフの少女に目を向けた。


『お前の名は?』

『フィルフィナと申します』


 エルフの少女はそう名乗ってスカートのすそを両手でつまみ、あざやかなカーテシーを披露ひろうして見せた。

 ログトはあごに手をえてかんがみ、目の前の現実を頭の中で咀嚼そしゃくしてから、言った。


『手を見せてくれ』


 エルフの少女――フィルフィナが広げて差し出した白い手を子細に見つめ、自分のあごを指で数分間まわして、『もういい』と手を下ろさせた。


『耳だけはかくしてくれないか。なら、いつまでもここにいていい』

『かしこまりました、旦那だんな様』

『今は険悪そのものになっているが、いずれはエルフとあきないをすることもあるだろう。そのためには伝手つてが必要だ。先手を打てれば、独占どくせんできるからな……』


 そんなログトのひとごとを、フィルフィナの耳はのがさなかった。王都で消費される水産物を一手に引き受ける大企業きぎょうの経営者であるとは聞いていたが、さすが、一流の商人というだけはある。つとめて作っている無表情が思わずゆるみそうになった。


『では、むすめのことをたのんだ』


 よほどいそがしいのか、その言葉を残してログトは茶の一杯いっぱいも飲まずに屋敷やしきを出て行った。この屋敷やしきに立ち寄ったのは、屋敷やしきがたまたま移動の道筋にあったから――それくらいの意味合いしかなかったらしい。


『……おいそがしい方ですね、旦那だんな様は』


 自分で言うのも悲しいが、一人娘ひとりむすめの側にこんな得体の知れないエルフのむすめ屋敷やしきに置いてはなれられるログトという人物を、フィルフィナははかりかねていた。


『お父様とうさまはめったに帰ってこないの。フィルが屋敷やしきにいてくれて、さびしくないわ。だからうれしい』


 出かけていく父親を見送ったリルルは、フィルフィナに満面のみを見せてそう言った。


『……みの家来はいたのでしょう?』

『前の人たち、あまり好きくなかった。本当に仕事でいるだけだったもの』

『ああ……』


 エルフの少女が屋敷やしきたくらいであわを食い、このお嬢様じょうさまを見捨ててしたのだ。仕事以外の感情などはうすかったにちがいない。突然とつぜんくもぞらを見せたリルルの顔からフィルフィナはそう推測すいそくした。同時に、このリルルが愛情にえていたことも。


『だからフィル、ずっと屋敷やしきにいてね』


 にぱ、とリルルが笑う。くもぞら一瞬いっしゅんにして晴れ間を見せるかのように。


わたし、フィルのこと、とっても大好きになれると思うから。――約束、ね?』

「約束……ですか……」


 石畳いしだたみにかかった砂をほうきはらいながら、この一週間のことをフィルフィナは思い出す。


 エルフの里で王女、それも王位継承けいしょう権第一位という至上しじょう高位こういにいた自分にとって、まさしく下働きのメイドという身分は違和感いわかんだらけのものだった。


 だが、リルルに見よう見まねで教えられながら屋敷やしき掃除そうじし、買い出しに出かけ、料理を作っているうち、次第しだいにこのメイド服が体に馴染なじんできていることにも気がついていた。


 リルルひとり、自分ひとりというこの屋敷やしきの中では、気を張ることはない。

 故郷の里では、常に自分はたみから注目される存在であり、責任ある王族のひとりとして背筋を正し続けなくてはならなったのだから――。


「にゃあ」


 フィルフィナのほうきを持つ手が、止まった。

 声がした方にかえると、花壇かだんかげから一ひきねこが上半身をのぞかせ、フィルフィナに向けてあまえるような声を上げていた。


「――また、あなたですか……」


 フィルフィナの眉間みけん不機嫌ふきげんの谷がきざまれた。


 とことこと歩いて石畳いしだたみの上にすわんだそれは、やや青みがかった灰色の毛で全身がおおわれた、せっぽちのねこだった。


 見映みばえはよくない。成猫せいびょう……いや、もう老猫ろうびょうというべきか。表情にいの気配がにじみ出ていて、ヒゲには張りもなく、所々に兆候ちょうこうが出ている。年老いた野良猫のらねこ、という表現がぴったりの、そこらの道端みちばたを歩いているどこにでもいるようなねこだった。


 顔立ちも愛らしい作りとはとても思えなかったが、ただ、愛想あいそだけはあるようだ。


 フィルフィナの足元に寄ってくるとその鼻先をフィルフィナのくつにこすりつけ、愛嬌あいきょうのある声で鳴く。フィルフィナがほぼ真下を見下ろすと、全身灰色の毛の中で、そこだけが黒く染まっている右の小さな耳が印象を残してひとみに映った。


「にゃあ、にゃあ」

「ああ、もう、あっちに行ってください」


 派手にばすわけにもいかず、フィルフィナはくつ爪先つまさきねこしやった。


「あなた、毎日見ますね。ここは野良猫のらねこは立ち入り禁止です。わかっているのですか?」

「にゃあ、にゃあ」

「わたしもここの使用人ですから、あまり派手なことはしたくないのですよ。警告けいこくしているうちに退去たいきょしていただければ手荒てあらなことはいたしません。ですから……」

「にゃあ、にゃあ、にゃあ」

「……話が通じないみたいですね……」


 元々通じるはずもないのだが、フィルフィナはこめかみに手を当て、頭をった。


「わたしが庭を掃除そうじしている横から庭をらされでもしたら、とてもとても立腹りっぷくするのですよ。さあ、ほら、自分のねぐらにお帰りなさい」


 フィルフィナがほうきを軽くり、せたねこはらおうとする――が、ねこは意外な俊敏しゅんびんさでび、するどいはずのほうきさばきをひょいとかいくぐって見せた。


「……生意気なねこですね」


 一度、二度、三度とフィルフィナはほうきの先をす。そのどれもは本気ではなかったが、さりとてにぶくもないほうきはらいをねこび、せ、んでそのすべてを回避かいひした。


「なかなかやるではないですか」


 フィルフィナは一度ほうきを引いた。


「が、わたしとて、お嬢様じょうさまのご信任を受けてこの庭を守っているのです。あなたのような侵略者しんりゃくしゃくっするわけにはいきません。――本気を出させたあなたがいけないのですよ」

 

 フィルフィナがほうきげ、そのひとみをきゅっと縮めた。

 今度は必ずえ、気絶ぐらいはさせる。ねらいを定め、稲妻いなずまごと一撃いちげきを落とすのだ。


「にゃっ」


 相手の気配が変化したことに気づいたのか、ねこはピンと両脚りょうあしばし尻尾しっぽを立てた。今までのじゃれるような動きから、りにいどむ者の真剣しんけんさにその挙動きょどうが変わる。

 エルフのメイドとねこの間に緊張きんちょうの糸が張られ、められ、めきられ――。


「――覚悟かくご!」


 電光石火でんこうせっかの一歩をフィルフィナがもうとしたその時、声はた。


「フィル!」

「わ」


 渾身こんしんの力をめてつまずいたフィルフィナがねこの手前で派手にたおれる。冷たい石畳いしだたみがエルフの少女の平たい体を、この上もなく固く受け止めた。


「ダメだよ、フィル。ねこさんをいじめちゃ」

「ね……ねこさん……?」


 顔まで石畳いしだたみに打ち付けたフィルフィナが、赤くなった鼻をさえながら身を起こす。

 闘志とうしすべがされたエルフのメイドが目にしたのは、かすかに青みがかった銀色の長いかみ綺麗きれいな、ひとりの幼い女の子だった。


「そ。ねこさん。――ね、ねこさん、ねこさん。こっちおいで」

「にゃー」


 青いワンピースドレスの少女の手招きに、野良猫のらねこにしか見えないねこはたっと地面をると彼女かのじょの足元にぱっと飛びつき、彼女かのじょいているくつに鼻先をこすりつけた。


「おはよう、ねこさん。今朝けさはフィルとじゃれてたんだ」

「にゃあ」

「ねこさんはいつも可愛かわいいね。すりすりしちゃう」

「にゃー」


 どう贔屓目ひいきめに見てもそこら辺の野良のらにしか見えない薄汚うすよごれたねこを迷うことなく抱き上げ、ほおずりする、その少女。


「リ……リルルお嬢様じょうさま……」


 彼女かのじょこそが、エルフの少女が生涯しょうがいけて仕えようと決心した、唯一ゆいいつの存在。

 リルル・ヴィン・フォーチュネット伯爵はくしゃく令嬢れいじょう

 まさしく、その人だった。

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