エピローグ(上)「変わる庭」

 五ひきねこたちがフォーチュネットていの庭を去って、実に十四年の歳月さいげつが流れた。

 その間、フォーチュネットの屋敷やしきはさほどの改築かいちく増築ぞうちくもされず、ほぼリルルが産まれた当時の形を保っていた。


 しかし、この屋敷やしきを取り巻くもの、環境かんきょうは大きく変わった。

 成長したリルルはニコルと結婚けっこんし、屋敷やしき敷地しきちはニコルがおこしたアーダディス騎士きし王国の飛び領地と定められた。


 フォーチュネット伯爵はくしゃく号の継承けいしょう権を持ちながら、同時にアーダディス騎士きし王国王妃おうひとなったリルルは、十八さいでの初産ういざんを皮切りに、この屋敷やしきにおいて、一年ごとに四人の子を出産した。


 長男、アルス。

 長女、アルシュラ。

 次男、エクシード。

 次女、リィルリィナ。


 そして、リルル・ヴィン・アーダディス二十二さいの春――まさに彼女かのじょの誕生日。

 付記ふきするなら、ニコルの誕生日でもあり、子供たち四人の誕生日。

 エルカリナ王国暦四百六十一年、四月一日。


 リルルは第五子、三男のネクスの出産をげていた。



   ◇   ◇   ◇



 王都の春の空をさわがせる花火がいくつも打ち上げられ、こずえに止まった小鳥たちがそのたびおどろいて羽ばたいた。


「ネクス王子ご誕生、ばんざーい!!」「ばんざーい!!」

「アーダディス騎士きし王国家、ばんざーい!!」「ニコル騎士きし王、ばんざーい!!」


 フォーチュネットていの周囲、いつもは人通りの多くない道は今、かたわせないとまともに歩けない混雑で満たされ、人々のほがらかな笑顔えがおと笑いでいろどられている。道のわきには列を作るように食べ物屋の屋台が並び、代金をかいさずに食べ物がわれていた。


 道だけではない。


 フォーチュネットていの庭にも大勢の人々がしかけていた。普段ふだんさびしささえうかがわせる庭が今日きょうは年に一度の祭の会場そのものになって、めかけた人々が笑い合いながらそこかしこで歓談かんだんしている。


 耳をませば何十種類の会話が一度に聞こえて、それがひとつの大きなうねりになって理解もできないくらいだった。


 そんなにぎやかさからほんの少しの距離きょりけられ、リルルの寝室しんしつだけがさわがしさから隔離かくりされていた。



   ◇   ◇   ◇



「ふぅ」


 一時間と少し前、まさに出産を終えたばかりのリルルはよごれた寝間着ねまき着替きがえ、シーツも何もかもがえられた寝台しんだいの上で大きく息をいた。ガラスをたたくようにして外からのさわがしさが伝わってくるが、この寝室しんしつだけはまだ静かなものだ。


 ここにはつかれた顔を見せたリルルと、甲斐甲斐かいがいしく世話をするフィルフィナしかいない。


 少し前までは、リルルの身内ともいえる人々でごった返していた。みな、見事に第五子を産んで見せたリルルの健闘けんとうたたえ、誕生したあかぼう可愛かわいらしさに賛辞さんじの言葉を並べ、使い果たし、笑うしかできなくなっていた。


 産後のつかれきったリルルをいたわるために、アーダディス騎士きし王国をぐ運命を課せられた王子を人々に見せるために今、ニコルたちは庭にいる。新たな王子の誕生を今か今かと待ち受けていた人々の期待にこたえるために。


「お嬢様じょうさま、お薬湯やくとうを」

「ありがとう、フィル」


 フィルフィナがぼんせて運んできた、大ぶりのカップいっぱいのい緑色の液体、それが湯気と共に放つにおいにリルルは顔をしかめたが、口をつけると一気に飲み干した。


不味まずいわね、これ、相変わらず」

不味まずく作っておりますから」


 フィルフィナはましがおに波のひとつも立てずに言った。カップを返しながらリルルは苦笑くしょうする――年をるにつれて、嫌味いやみや皮肉の水準が徐々じょじょふくらんでくるメイドに。


「しかし、さすがにれたものですね」


 渡されたカップを寝台脇のテーブルに置き、フィルフィナは揺らぎのない表情で言った。


「五ひき目の出産となると」

「単位がちょっと失礼すぎやしない!?」

「ああ、これは申し訳ありません」


 少しも申し訳なさそうにフィルフィナは頭を下げた。


「五回目となるとコツもつかめてくるものよ。最初のアルスの時はかなり手こずらされたからね。フィルとロシュちゃんがいなければ、どうなっていたかわからないわ」

「すんなり出していただいてこちらも大変手間がはぶけました」

「相変わらず口が減らないんだから、フィルは」

「大年増ですから。それにしても、五人とも同じ誕生日に合わせて産んでみせるとか、いったいどういうコツなのですか? 偶然ぐうぜんにもほどがありませんか?」

「合わせたくて合わせてるわけじゃないわよ。合わせて出てきた子どもたちに聞いて」

「七人家族なのにお誕生日会が一日ですむとか、その辺は大変楽で助かります。このメイドの苦労にお気をつかっていただいて、まことにありがとうございます」


 八十さいえた実年齢ねんれいを感じさせずにフィルフィナは、この屋敷やしきてから十六年になろうというのにもかかわらず、少女のような印象にほんのわずかな歳月さいげつしかうかがわせない真顔で言って見せた。


 対するリルルは――幼児の印象はもう完全に消え、二十二さいという実年齢ねんれいよりはまだ少女の印象をその面差おもざしに残してはいるものの、確かに五人の子どもを持つ母の貫禄かんろくを得ていた。もう、彼女かのじょフローレシアお嬢さんと呼びかける者はいないだろう。


 この、エルフのメイドをのぞいては。


「フィル、窓を開けて。新しい空気を入れてちょうだい」

「うるそうございますが、よろしいのですか?」

「みんな、ネクスを、わたしたちを祝ってくれているのよ。迷惑めいわくなんかじゃないわ。むしろ、みんなの声を聞きたい……」

「タダ飯タダ酒にありつこうとしている者が半分以上ですが」

「もう、フィルったら」


 リルルは笑った。フィルフィナのするど毒舌どくぜつも、まるで小鳥のさえずりのように聞こえた。


「しかし、ネクス様をお庭に連れ去られたままで、母として寂しくはないのですか?」

「もう何ヶ月もずっとお腹の中にいられたのよ。やっと解放されたんだもの、しばらく一人にさせてほしいわ」

「なるほど、そういう考え方もあるわけですか」

「ばんざーい!! ばんざーい!!」


 フィルフィナが窓を開けると、風に乗って万歳ばんざいの声が遠くからひびいてくる。屋敷やしきへいの外、正門の向こうからだというのに、それはとても景気よい調子で聞こえてきた。


「アーダディス騎士きし王国家、ばんさーい!! ゴーダム公爵こうしゃく家、ばんざ――い!! フォーチュネット伯爵はくしゃく家、ばんざ――――い!! ネクス王子ご誕生、ばんざ――――――――い!!」

「まだやってるのね、あのもよおし」

「希望者に万歳ばんざいさせて、その声がめでたげであればジョッキ一杯いっぱいにあふれるくらいの酒を注いで飲ませる……あまり品がいいとは思えないたわむれですね」

「いいじゃない。さびしいよりずっといいわ。みんな喜んで、幸せだもの」

むすめの誕生日にはおくものひとつ寄越よこさなかったあの旦那だんな様も変わるものです。孫の誕生に大盤振おうばんぶいの大盤振おうばんぶい。万歳ばんざい審査しんさ員までする始末。けちんぼなところは、とことんけちんぼだったのにもかかわらず」

「お父様とうさまの悪口は言わないの。お父様とうさまも反省して心をえたのよ。いいじゃない」

「ですから、陰口かげぐちをするにとどめています」

「もう、フィルったら」


 リルルはまた同じ台詞セリフを口にした。笑顔えがおと共にれる台詞セリフだった。

 窓を開け放った寝室しんしつに風がながむ。出産の血生臭ちなまぐささをぬぐり、平常にもどす風だった。


 カーテンをらすそんな風を、リルルは大きく高いまくらに背を預け、ななめに身を起こした姿勢で受けた。風にやさしくでられるかすかに青みがかった銀色のかみは、フィルフィナと出会った時と同じ色、同じ形だ。


 時間の流れの中でも、変わらぬものはある――今は、まだ。


「しかし、おかしな庭ですね……」


 たわむれにカーテンを指でつまむフィルフィナは、フォーチュネットの庭をながめた。

 そこで笑顔えがおかべている主要な人物を列挙すれば、どれほどおかしな庭かわかる。


 現役げんえきのエルカリナ国王が平民とかたを組んで自作の歌を歌い、その側で魔界まかいの女王が微笑ほほえみを絶やさず、エルカリナ王国随一ずいいち公爵こうしゃくが養子となった四さいの子どもの手を引き、現役げんえきのエルフの女王が冒険者ぼうけんしゃ時代にそれでかせいでいたというリュートをいて歌っている。


 双子ふたごのエルフの王女たちが立食用の料理をせわしなく運び、魔界まかい摂政せっしょうである魔族まぞくの少年が女性にかたぱしから声をかけ、そのたびに白い僧衣そういの女性になぐられ、まだ少年の面影おもかげを残す小柄こがらな国王――リルルの夫であるニコルが、まるで啄木鳥きつつきのように会釈えしゃくかえしていた。


「本当に、おかしな庭ですね……」


 かつて、この庭は自分とリルルと、一匹いっぴきの大事な存在だけの世界だった――そんなフィルフィナの感傷かんしょうはそのままリルルにも伝わって、リルルはふっと、その目にかげを作った。

 ずっと、庭には大して手を入れていない。あのねこたちの墓もそのままある。


 しかし、この庭はもう、あの時の庭のままではなかった。

 フォーチュネットの家が、自分たちが変われば、形を変えていない庭も変わるのか。

 変わらないものなど、変われないものなどありはしないのか。


 この区画の周囲を通行止めにしてもらってまでの生誕いわいだというのに、そんな中で、リルルとフィルフィナだけが刹那せつなさびしさを覚えていた。かつてのこの庭という世界の中で生きてきた者、今も生きている者だけが共有できるさびしさだった。


 変わることはかなしさなのか。喜びなのか。

 永遠に、あの時の庭のままで時が止まってくれればよかった――そんな、口にしたくてもすることのできない言葉をふたりはんだ。


 変わらなければ、得られないこともある――たくさん、たくさん。

 生まれてきてくれたアルスも、アルシュラも、エクシードも、リィルリィナも、ネクスも、変わっていく時の流れに連れられ、来てくれた存在だからだ。


「……時は何かを置き去りにし、失い、そして得ていく……」

「それはちがうわ、フィル」


 ほろ、と不意のなみだ一線ひとすじ流したフィルフィナは、背後からの呼びかけにかえった。


 身も心も大人となったあの時の幼子が。

 あの時の幼子が見せていた笑顔えがおのまま、そこにいた。


「時は、永遠にのこしてくれる。のこしてくれるものもある。

 ――わたしたちは、覚えているわ。確かに覚えているわ。

 あの、ねこさんのことを。

 ねこさんたちのことを。

 そして、わたしたちが死んだとしても、忘れない。決して忘れるはずがない。

 この世で得たものは、天の国でがれる。

 わたしは、そう信じているわ……」


 歌うような調べの中で、一瞬いっしゅん、このせまい世界の中だけで、時がまった。

 それは、長い長い、永遠と思えるような一瞬いっしゅんだった。

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