「リルルの望み」

 夜の空をつらぬいて消えていった悲鳴にさそわれるように、ニコルとリルルの視線が桟橋さんばし岩壁がんぺきをつないでいる基部きぶに向けられた。

 街灯がいとう薄暗うすぐらあかりの中に浮かび上がった道を、とてもそれで表を歩くような勇気はかないくらいの薄着の若い女性が、必死の形相ぎょうそうけていくのが一瞬だけ二人の網膜もうまくに焼き付いた。


 かなりの速度で走り去ったその女性の残像をめるように、十数秒の時間をはさみ、十数人の男たちが同じ方向に向けて走っていくのが続いて見えた。


「待てこのアマぁ!」

手前てめェら、逃がすんじゃねえぞ!」

「ジジィ! 邪魔じゃま退けぇ!!」


 不幸にもすれちがった老人が、あらくれ者としか見えない男たちに乱暴らんぼうに払われる。よろけた老人は細い悲鳴を上げながら金属の街灯の柱に背中を打ち付けられ、がっくりと倒れ込んだ。


「わかりやすい揉め事トラブルですね。どうもガラがいい街ではなさそうです」


 甲板の上からその様子を見ていたフィルフィナは目を閉じ、大きくため息をいた。この国の情報を前もってほとんど調べずに訪れたが、観光名所が多い反面、あまり居心地いごこちのいい国ではなさそうだった。


「そもそもこの国そのものがあまり治安ちあんがいいとはいえなそうですね。山賊は跋扈ばっこしているし、街はロクでもないのが肩で風を切って歩いているしで、長居ながいは無用のようらしいです。これは今夜のうちにでもさっさと出港してしまった方が賢明けんめいですね。まったくキリがない」


 滞在たいざいしている分、愉快ゆかいでないことに巻き込まれ続けるだけだろう。自分たちは想い出に残る新婚旅行に来ているのだ。楽しい想い出だけにしなければ。


「ね、そう思いますよね、ニコル様、お嬢様――」


 フィルフィナは桟橋に目を移し、視線の先にいるはずの二人の姿が忽然こつぜんと消えているのを見た。


「…………はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ…………」


 さらに深い、深く、深い深いため息がき出された。


「…………はいはい、わかっています。当然こうなりますよね。砂鉄が磁石に吸い寄せられるのと同じ理屈ですよね…………」


 男たちに跳ね飛ばされて倒れ込んだ老人をニコルとリルルが介抱かいほうしているのをひとみうつし、フィルフィナは全てをあきらめてタラップを渡り、桟橋に降り立った。


「クィル、スィル、着いてきなさい」

「今、なんかすごい悲鳴とすごくガラの悪い怒鳴どなり声がしたけど?」


 二頭の馬を押し込めた船倉せんそうからクィルクィナとスィルスィナが上がってきて、舷側げんそくから姉を見下ろす。そんな妹たちにフィルフィナは首を振り、あごをしゃくった。


「いつものことです。いつもの対処たいしょをします。早く来なさい」

「えー、ご飯の時間がまた押しちゃうのかよー。勘弁かんべんしてほしいなー」

「…………お腹いた…………」

「さっさと来る」

「うえー」

「フィル、ロシュも行きます」

「お願いします……」


 フィルフィナが歩き出し、不満を顔の全部で表しながらもクィルクィナがそれに続き、なにを考えているのか一切理解させない顔でスィルスィナが追い、最後にロシュが殿しんがりとなった。



   ◇   ◇   ◇



「おじいさん、大丈夫ですか?」

「あ……ああ、大丈夫ですじゃ……ご親切にどうも……」


 抱き起こしたニコルの腕の中で、かなりれた容貌ようぼうの老人が弱々しくうめいた。


「危ない倒れ方をしたようです。変な所を打たなかったですか?」

「幸い、頭は打たんですんで……背中をちょっと打っただけですじゃ。つ、つえは……」

「おじいさん、ここにあるわ」


 転がっていた杖をリルルが拾い、老人の手に持たせた。


「折れてはいないわ。お爺さん、災難さいなんだったわね……いったいなんなの、あれ?」

「あなたがたは、旅の方ですかな……。あれはこの港街を仕切っている裏社会の者たちで……」

「裏社会……」


 どこにでもある話だった。王都において快傑令嬢リロットとして活躍かつやくしていた時のリルルも、毎週のように対面したものだ、人間の体に巣くう病巣びょうそうのようにそれはある。

 同じ体にくっていても、病巣と別の病巣は仲良しというわけでもない。いくらでもいてくる。


「役人も賄賂ワイロを取って勝手自由にさせているものですから、大きな顔をし放題なのですじゃ……」

「ふぅん、悪者なのね――」


 ニコルはリルルが見せるアイスブルーの瞳に、リルル特有の輝きが宿ったのを感じてまばたきし、かすかに息を詰めた。問題発生の予兆よちょうだった。

 そんなリルルのそばにロシュが付く。老人の頭から爪先つまさきまで視線を走らせ、ロシュはいった。


「――脳波異常なし、骨格損傷そんしょうなし、大きな外傷なし。少しの打撲あり、緊急きんきゅう治療ちりょうの必要なし。ニコルお兄様、この方の健康に危険はありません」

「それはよかった。ロシュの診断しんだんなら間違まちがいないね。ロシュは医者になった方がいいかな」

すでに島民の検診けんしんは始めています」

「そうだったっけ。みんな長生きするね。帰ったらまた頼むよ」

「おじいさん、大したことなくて良かったわ」


 リルルが老人の体を支えるように立たせ、杖を突かせてその体を安定させた。


「今日は早めに家に帰って寝てね。お帰りも気をつけて」

「は、はい、なにもかも、ご親切なかぎりで。あなたがたもお気を付けて。この街にあまり、長く滞在たいざいしない方がいいですな……」


 老人はひとしきり頭を下げ下げしたあと、ゆっくりとした足取りで街角の中にまぎれていった。


「あー、あの連中思い出した。三日前の夜、ショバ代寄越よこせとかで船の前でわめいていた連中だ」


 ぽん! とてのひらを打ってクィルクィナがいった。


「ショバ代? 商売じゃないんだから、変な因縁いんねんね」

「桟橋の停泊代は役所に払ったっていうのに、自分の組には払ってないだろとか恐喝きょうかつしてきてさ。しりに一発撃ってやったよ。逃げていってもう来なかったけどさー」

「なにをしているんです。胸か頭を撃ちなさい。しかしそんなのが堂々とのさばっているというのは、ここはかなり末期的まっきてきなようですね……」


 フィルフィナの目にも戦闘的な光が宿り出す。本人は気がついていないだろうそんな瞳の様子を、ニコルはちらりと目で確かめた。

 倉庫街の奥だろうか、陸からの風に乗るようにしてかすかな悲鳴が遠く、遠く響いてくる。どう聞いても女性のものにしか聞こえないそれに、さっき聞いたばかりと思える男たちの怒声どせいが重なった。


「――放っておけないな、助けなきゃ。ロシュ、すまない。僕についてきてくれるかい」

「はい、ニコルお兄様」

「ここは僕とロシュだけで十分だ。フィルは、リルルたちを連れて先にどこかの飲食店に行っておいてくれ。どこにいても、ロシュなら見つけてくれるだろうし――ん」


 膝立ちから立ち上がろうとしたニコルは、くい、とそでを小さく引かれ、つんのめった。


「……リルル?」

「――――」


 ニコルが振り向くと、三日三晩雨に打たれてれそぼりきったような――捨てられた子犬の表情をしたリルルが、そこにいた。

 ニコルが目を丸くし、フィルフィナが巨大な予感――それも最悪なものを覚えて、頭を抱えた。


「ね、ねえ、ニコル、私……その、とてもとても、いいにくいんだけど……」

「いいにくいなら、わたしが代弁だいべんして差し上げましょう。お嬢様は今、こう考えてるのです――」


 全ての希望を捨てさせられたフィルフィナが、強烈な頭痛に耐えながらいった。


「ここは自分が快傑令嬢リロットに変身して、あざやかに事件を解決したいと! そうでしょう!」

「うんっ!」

「えええぇぇぇぇぇ――――――――っ!!」


 のどがひっくり返るような驚きの声をニコルが発する。周囲の建物の玄関や窓から何事かと人々が顔を出すくらいの、ニコルが生き返ってから初めて口から飛び出す、悲鳴そのものの声だった。


「だってリルル、もう快傑令嬢リロットにはならないっていう話だったじゃないか!」

「そうよ! 王都じゃみんな自分が結婚したことを知っているんだもん! 『快傑夫人』なんて新聞に書かれるのは嫌なんだもん! そんな号外ごうがいが出たら私、もうずかしくて生きて行けない!!」

「じゃあ、なんでここで――……あ!!」

「やっとお気づきになられたようですね。ニコル様……」


 とっくに気づいていたフィルフィナが自分のこめかみをみながらいった。血管の血流を外から制御しなければ思考が暴走しそうだった。


「ここは世界の裏側ですから、快傑令嬢やお嬢様が最も知られていない場所です。快傑令嬢を書き立てる新聞社もありませんからね。王都に伝わる可能性も低いでしょうし……ああ、なるほどなるほど、そういうわけですか、お嬢様が世界一周の旅をしたいなんていい出したのは……」


 真っ赤に顔がまったリルルが、啄木鳥きつつきのようにうなずいた。


「ええっ、じゃあ、快傑令嬢リロットとして大暴れしたいから、新婚旅行に世界一周を!?」

「うんっ!!」

「まったく、なんてしょうもない理由で……」

「お願いニコル! 一回だけ! これが最後の一回! 約束するから! 目をつぶって許して!」

「まあそりゃあ、王都ではできないわけだから、これが最後になるとは思うけれど……」

「それ以上に大切な理由があるの! もうこれが最後っきりになるしかない大切な理由が!」

「え? なに? それは?」

「手を出して! そして触って!」

「触る? なにを?」

「ここ!」


 最大限に思い詰めたような顔をしてリルルはニコルの右手を強引に取り、自分のお腹に当てた。


「お腹? リルル、腹痛ふくつうなのかい?」

「あ…………!」


 まるで要領ようりょうが得られないニコルの横で、最後のとんでもないことに思い当たったフィルフィナが、本気でおびえるようにその顔をゆがめた。


「そういえばお嬢様、昨日と今日と、やけにっぱい果物や果汁かじゅうばかりられていましたね……!」


 こくこくこくこく! と目をぎゅっとつぶったリルルが啄木鳥二羽分のように肯いた。


「あれ、確かにそうだったね。寄る街や村で柑橘かんきつ類ばっかり買って、そればっかり食べるからご飯が食べられなくて。リルルってそんなに酸っぱいものが好きだったっけ?」

「あああ、もう! このニコル様は!」


 さっしが悪すぎるこの少年に本気で|憤《いきどお

》り、フィルフィナはニコルの耳元に唇を寄せてささやいた。


「…………!」

「うんうん」

「…………………!!」

「うんうんうん」

「……………………………………!!」

「へええ、そうなんだ」


 得心とくしんした、というすっきりした笑顔でニコルは笑った。

 ――笑ったまま、その笑顔が固まった。


「スィル、どこの食べ物屋にする? あたしは美味おいしいお魚食べられる方がいいなぁ」

「……鳥が食べたい。しばらく食べてない」

「じゃあ『首なし美人亭』にするかぁ。あそこの店先から鳥を焼いた美味しい匂い漂ってたよね」

「ニコル様、そろそろ時間も危ないですから、とっととおどろいた方がいいですよ」

「あ、うん、ごめん」


 顔を真っ赤にしているリルル、肩をつついて催促さいそくするフィルフィナ、そんな二人を前にして、ニコルは息を大きく吸った。

 この感情を表すには、それだけ多くの空気が必要だったからだ。

 そしてニコルは――腹の中にめた空気の全部に着火したように、吐き出していた。


「えええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!」

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