「みんな、いっしょだよ」

「――――――――」


 ニコルの中で、世界がまった。

 目の前の光景が意味することを飲み込めず、息さえ止めてみずからの全てを張り詰めさせて、固まった。

 いったいそのまま、何十秒の時間を突っ立っていただろうか?


「か…………っ」


 そんな彼が硬直の呪縛じゅばくからき放たれたのは、不足する酸素を要求する肺がいい加減にしろとうったえてきたからだ。

 

「か、かはっ、かふっ、かはっ……」


 ニコルは小さく長くき込み、必死に空気をむさぼってから、再びリルルに――大きくあくびをして顔をむにむにとさせている彼女の姿に、ひとみ焦点しょうてんを当てた。

 

「ああ、ホントによく寝た」


 ニコルが何度目をまばたかせても、上体を起こした姿でリルルはそこにいた。

 少年の妄想もうそうであったり、勘違かんちがいであったり、願望がんぼうではない――現実の存在としてそこにいた。


「こんなにすっきりして目が覚めるの、生まれて初めて。――ニコル、どうしたの?」

「ぼ……」


 またあくびでふくらんだなみだそでぬぐったリルルがニコルに微笑ほほえみかける。そんな微笑みにさらされたニコルは、喜びもうれしさも見せず、むしろおびえるように戦慄わなないていた。


「僕は……僕は、明日、死んじゃわないといけないのかな……」

「どうして?」


 寝台の上に座るリルルが、首をかしげて笑う。その拍子ひょうしに、長く青みがかった銀色の髪が肩口を流れた。

 もう眠りの女神でもなんでもない――普通の少女でしかないリルルが、笑っていた。


「私の目が覚めると、なんでニコルが死んじゃわないといけないの?」

「だ、だって……願ってしまったから……」


 まだたましいの内に打ち込まれた衝撃しょうげきが抜けきらないニコルが、言葉をこぼす。自分でも半分なにをいってるかわからず、ほとんど反射だけでくちびるが動き続けていた。


「今、君が目覚めれば、僕におはようといって微笑みかけてくれれば、明日の命はらないんだ、って……。明日からの僕の命を差し出すから、君を目覚めさせてほしいって祈ってしまったんだ。きっと、願いがかなったんだ。祈りが通じたんだ。だから、僕は……」

「あー、もう、ニコルったら、失礼だなぁ」


 リルルの笑みが深くなり、よりまぶしく輝いた。


「ニコルがいちいち命をけないと、私は目を覚まさないわけ? 私ってそんなにねぼすけちゃんなの?」

「だ……だって、だって、だって……」

「もー、そんなことはどうでもいいの!」


 ぱっ、と掛布団かけぶとんをその全部が宙に浮くくらいにね飛ばして、リルルは寝台の上に立った。その思い切りのよさに呆然ぼうぜんと見上げてきたニコルにリルルは、満面の笑みの中で、宣言せんげんした。


「さあ、ニコル! 続きをしましょう!」

「続きって……うわあぁっ!」


 リルルはんだ。ニコル目がけて、鮮やかに、思い切りよく跳んだ。

 少女の後先あとさきを全く考えていない跳躍ダイブを前にしてもなお、ニコルは反応が遅れた。

 あとは、重力の法則にしたがうしかない運命が待っていた。



   ◇   ◇   ◇



 いったん落ちてしまった自分の肩を支え直すこともできないフィルフィナは、お茶の用意をせた台車ワゴンを押しながらに、廊下ろうかからリルルの居間いまにのろのろと体を戻した。


 ニコルがリルルの寝室から出てくる様子は、まだない。廊下でその頃合いを待っていたフィルフィナは立って待ち続けるのにも疲れ、居間のテーブルに着いて待つことにした。


「……はぁ……」


 おぼんをテーブルの上に置き、ふたつあるポットのうち、柿色かきいろに焼かれた陶器とうきのポットに熱い湯を注ぐ。


「…………はぁ…………」


 中に入れてある茶葉が茶を抽出ちゅうしゅつするのを待つ間も、フィルフィナの表情をくもらせるかげりが払われることはなく、無限のため息がり返された。


「なんかこう、疲れましたね……。この何十日かで、何十年かとしを取った気分です……」


 首を大きく左右に曲げる。コキコキと軽くなる音は小気味はよかったが、それがフィルフィナの心を晴れさせることもなかった。

 寝室のとびらの向こうからは猫があばれるような音が響いてくる。それも彼女の憂鬱ゆううつを加速させた。


「自分がしていることに後悔こうかいはないのですが、このむなしさはどうにもしんどいですね……。思い切って旅に出れば、気晴らしにもなるんでしょうが……お嬢様のお世話もあるのでそういうわけにもいかないし……。ああ、こうなんか、心がぱっと明るくなるようなことはないのでしょうか……?」


 いくらか前につぶやいていたことと同じようなごとを口にしながら、フィルフィナは自分の湯飲ゆのみに柿色のポットの茶を注ぎ、両手でかかえて中の緑茶をすすった。


「ああ、美味おいし」


 口にふくんだ緑茶、そのほのかな苦みと若芽わかめを感じさせる風味は確かにした心地好ここちよかったが、いうほどにフィルフィナの心を晴らせてはくれなかった。

 寝室への扉の向こうからは声が聞こえてくる。リルルのはしゃぐ声、ニコルのあわてる声が重なる。


「――む」


 一瞬で、フィルフィナの眉間みけんに深い谷がきざまれ、片目がするどい角度を作った。


「――お嬢様にニコル様! いくらお屋敷でもさわがしいですよ! 遊ぶなら外でしてください!」


 扉の向こうからの声がむ。ふん、と鼻を鳴らしてフィルフィナは再び湯飲みの中をすすった。


「まったく、お嬢様もニコル様もまだ子供ですよ。今日で十七歳になられたというのに、昔とちっとも変わってない。……もう、やはりこのフィルの教育がりなかったから、お嬢様の不憫ふびんな身を思って一緒に遊びすぎたからでしょうか。もう、わたしってばつくづく無能……」


 うつわに盛った煎餅せんべいに手をばし、フィルフィナはそれを腹立ちまぎれにバリバリバリバリと音を立ててくだいた。

 一枚を口の中で粉砕ふんさいしきると、途端とたんに虚しさが利子りしをつけて心にのしかかり、ますます重いため息をかせた。


「ああ、わたしは世界でいちばん不幸なメイドです。いったい、なんの因果いんがでこんなことに――」


 なげくフィルフィナの髪の中で、耳が跳ねた。また奥の扉の向こうからはしゃぐ声が響いてきたのだ。エルフの少女のこめかみに血管が浮き上がり、限りなくで肩になっていたフィルフィナの肩が、一瞬で怒り肩に跳ね上がった。


「ああもう! 直々じきじきしからないといけないのですか! 面倒臭めんどうくさい!!」


 怒りが手に力を余らせる。厚く土で焼かれているはずの大ぶりの湯飲みが、指の圧力によって亀裂きれつを入れられた。


「お嬢様もニコル様も、そろいも揃って! いい加減に大人になってもらわないと――――と?」


 フィルフィナの心の中で、しんが抜け落ちたような空白が空いた。


「――――――――と…………」


 怒りにふくらんでいた感情がまたたく間にしぼむ。熱くなっていた頭に、震え上がるほどの寒風かんぷうが吹き込む。

 てつくほどに冷静になってしまった頭で、考えた。

 考えさせられた。


 言葉にすることはできなかったが、ひとつの解答――というより、行き止まりにぶち当たった。


「――――あ」


 理解するよりも早く、フィルフィナは弾かれたように立ち上がった。手から零れた湯飲みがテーブルの上にゴトンと落ちて転がり、残っていた緑色の液体をき散らしても、それに関心も払えなかった。


「あ…………あ、あ、あ、ああ……!?」


 十数歩の距離を一気に飛び越すような歩幅ほはばで走り、扉のノブをつかむと同時に加減もしていない力でそれを押し開く。ねじるような方向に押し開かれた扉、先日交換されたばかりの蝶番ちょうつがいするどい悲鳴を上げ、引きちぎられて短い生涯しょうがいを終えた。


 支えを失った扉が倒れた衝撃しょうげきで、寝台しんだいかくしていた衝立ついたても倒れた。

 その、寝台越しに。


「――――――――」


 抱きついて体を振ることで遠心力をつけてニコルを回し、抱きつかれて体を回され、回転する羽のじくにさせられて目を回しているニコルの姿が、フィルフィナの網膜もうまくに映った。


「――――お……」


 美しいアメジスト色のひとみが、張り詰めた緊張きんちょうの中で、にじんだ。

 そんな彼女の眼差まなざしと、全力ではしゃがれて目を白黒としているニコル、はしゃいでニコルの目を白黒とさせているリルルのふたりとの視線が、合った。

 アイスブルーの美しい目がまばたき、フィルフィナが世界でいちばん愛する顔が、本当に、本当に愛らしく――微笑ほほえんだ。


「わ、フィルったら扉こわしちゃって。修理代はフィルのお給金から払っておいてよ」

「お――――」


 大きく見開かれたフィルフィナの目の奥が、熱くえた。

 小さな足が床をる。真珠色の津波が心の防波堤を乗り越えて瞳からにじみ出し、滲み出した瞬間にはもう、止めどもないものとして流れ出して、撒き散らされた。


「おじょうさまぁぁっ!!」


 抱き合っているリルルとニコルに、腕をいっぱいに広げてフィルフィナは飛び込んだ。

 そのフィルフィナに、リルルとニコルはそれぞれの片腕を大きく差し伸べ――開かれた空間に小柄なエルフのメイドが、自らの身と心の全てを投げ込んでいた。


「リルル、リルル、リルル――リルル、リルルぅぅ…………!!」


 リルルが、ニコルが、フィルフィナが互いを抱き、抱き合った。フィルフィナの両の頬に少女と少年が、これ以上くっつけられないというほどに近く、近くほおを当てた。

 ふたりの頬に顔をはさまれ、表情の全部を震わせて、フィルフィナは涙を流した。

 流す以外のことなど、できなかった。


「あはははっ、フィルったらそんなに泣いちゃって。大感激しちゃったの?」

「な、なな、泣いてなんかいませんっ! わ、わたしは怒っているんです! お嬢様がねぼすけだから! 起こしても起こしても起きて来ないから怒っているんです! もう、お嬢様のねぼすけっ! ねぼすけねぼすけねぼすけ!」

「ごめんごめん! それよりもフィル、私お腹いちゃった! もうぺこぺこで死にそうなの! 早くごはん食べたい!」

「あるわけないじゃないですか! もう、お嬢様は朝ごはん抜きです! 一生、死ぬまで朝ごはん抜きです! ずっと起きて来なかったのを、猛烈もうれつに反省してください! も、もう、もう……」

「よかった……よかったよ、リルル、フィル……!」

「はぁいっ……!」

「あははは……!」


 三人は抱き合う。力いっぱいに抱き合う。それが自分たちの幸せの形だというように。

 みっつに別れているぬくもりも、心も、なにもかもをひとつにするように。

 抱き合い、抱き合って、抱き合う――。


「みんな……みんな、みんな――」


 喜びの中で、幸せの中で。

 ここに集い合った家族の三人は歌い合う。

 ――再会の歌を。


「僕たちは」「私たちは」「わたしたちは」

「いつまでも」「いつまでも」「いつまでも」

「ずっと」「いつまでも」「ずっといつまでも」

「「「三人で、みんなで、いっしょだから――――」」」


 三つの心をかし合い、ひとつの幸せとなったリルルも、ニコルも、フィルフィナも気づかなかった。

 この寝室から、隣の居間から、あれほど部屋の空間を゛まめていたぬいぐるみの大群たいぐんが、ひとつ残らず消えていたことに。


 その現象に気付き、その意味を理解するのは、もう、あとのことでもいいだろう。

 今は、ここにいるたった三人に訪れた幸せの意味の方が、

 ずっと、ずっと、ずっと、大事なのだから――。

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