「そして」

 窓際に立ったニコルはリルルに背を向け、空の向こうを見通すような遠い目を向ける。目にれた、王都の青い空が窓の向こうに広がっていた。

 ニコルは知っている。覚えている。

 かつて王都の街並みを底にし、この空に代わって宇宙が広がっていた光景を。


 光と影だけで作られた、墓場はかばのような景色。そこで覚えた消え行く希望と、侵食しんしょくしてくる絶望。

 自分は戦った。

 フィルフィナを守れず、リルルを守ろうとしてたおれた。

 今、自分がこの屋敷で安息あんそくの元にいられるのは、リルルの心の力によるものに他ならない。


 自分の存在と引き替えに、全ての人々の幸せを願ったリルルが起こした、奇跡。


「そう……あの時、聞こえたんだ……」


 ニコルは、耳をました。

 屋敷の周辺の静寂せいじゃくを飛び越え、大通りの方からかすかに喧騒けんそうが聞こえてくる――いや、その半分以上はニコルの想像が聞かせているものだった。

 それは、王都の息吹いぶきだった。王都の心音しんおんで、脈拍で、生きているあかしだった。


 今、眠るリルルが静かに立てている寝息と等しいものだった。


「世界が再生される瞬間、君が願ったのを。『みんな、幸せになって』って――」


 ニコルは振り返る。ひとつの寝室の中で自分とリルル、そして親しい人々のぬいぐるみの列しかいない部屋で少しの距離を置き、愛する少女を見つめた。


「君の願いは届いたんだよ、リルル。……すごいことだよね……」


 リルルは眠る。眠り続けている。

 すこやかに、愛らしく、満足げに――。


「王都に生きる人々、王国に生きる人々、世界に生きる人々は幸せになった……今は、みんなが笑顔で暮らしている。あの悲惨ひさんな出来事がまるで夢だったように、ううん、夢としか思っていない人がほとんどだ。当たり前だよね……なにもかもが元に戻ったんだ。死んだ自分さえも……」


 とんでもない力だ、とニコルは思う。いったい、誰にそんなことが可能なのか。そんなとんでもないことを、目の前の少女はたったひとりでやってのけたのだ。


「リルル。僕は君を、心から尊敬そんけいする。心から君を、ほこりに思う。

 僕が、好きなリルル。

 僕が、恋するリルル。

 僕が、愛するリルル……。

 君という女の子と双子のように生まれ、心が通じ合えることが、僕のなによりの名誉めいよで……」


 ニコルの目がうるんだ。心を沸騰ふっとうさせる熱が伝わってなみだを熱して、水色のひとみ煮立にたたせた。

 込み上げて来るものをまぶたせきで押しとどめようとしたが、それが涙の洪水こうずいはばめた試しは、そう多くない。


「でも……でもね……リルル……」


 ニコルの胸をがした涙は出口を求め、その目のはしから流れ出た。


「実は、君が幸せすることができていない人々も、まだいるんだよ……。君を知る人々、君にしたしんだ人々は、みんな心をけずられ、それをめ合わせられない……。君が眠り、目覚めず、微笑ほほえみかけてくれないさびしさを、埋められない……」


 少年のほおを、涙の河が洗う。しゃくり上げもせず、嗚咽おえつらさず、少年は泣く。

 この二ヶ月の中で、胸にまっていた感情の残滓ざんしを洗い流そうとするかのように。

 悲しみは、涙でしか洗い流せない――誰かがそういっていたような気がする。誰だったか……。


「みんな……みんな、君が目覚めないことで寂しいんだ……。そしてフィルも、僕もそうなんだ。君はまだ、みんなを幸せにできていないよ……僕の幸せは、君と共にしかないんだから……。僕には、君が必要なんだよ、リルル…………!」


 少年のひざくずれ、床に落ちた。上体を寝台にもたれさせることで支えてもらい、ニコルは感極かんきわまった心を制御せいぎょできず、布団に顔を埋めた。


「リルル、目を覚まして……起きてほしい……! 僕は、今、君が目覚めてくれて、僕におはようといってくれたら、明日からの命はらない……! だから……!」


 ニコルの手が布団を握り、きちんとかれていたシーツがその形を崩した。少年のたましいからき上がる涙がその行き場を求めてシーツを濡らし、とどまる気配も見せずにあふれ出続けた。


「リルル……リルル、リルル……起きて……お願いだよ、リルル、リルル……リルルぅ…………」


 少年の祈りを込めたつぶやきに、リルルは――――目覚めない。

 目覚めない。

 世界がそのことわりを一瞬でたがえたりしないように、目覚めない。

 今日の太陽がいずれは落ち、夜がめぐり、明日の朝日が昇ってくるのが確約されているように。


 ――目覚めない。

 安らかな眠りの中にあって女神とした少女は、おだやかに眠り続ける――。


「…………」


 どれだけの時間を、涙についややしただろうか。

 外から大きく吹き込み、ふたりの頬を、髪を、心をでていった春の風が呼びかけになったように、


「……ごめんね」


 ニコルの心は、震えを止めた。


「……ごめんね、リルル。いつもふたりきりになったらこうなってしまうね……。僕がちゃんとしてなくてはいけないのに……。フィルも、サフィーナ様も、ロシュだってつらいのに……我慢がまんしているのに、男の僕がこんなんじゃいけないよね……」


 ゆっくりと立ち上がり、時計を見る。ニコルは涙を拭きながら苦笑する――部屋に入ってからどれくらいの時間がったのか、立ち入った時の時刻を見ていなかったから、わからない。


「フィルは……まだお茶の用意ができないのかな……もうそろそろ呼びに来てもいいはずだけれど……」


 寝台にすがりついたことで乱れた襟元えりもとを直し、ニコルは窓を閉めようとリルルに背を向けようとし――


「えっ!?」


 た、その時だった。

 かすかにリルルの寝息が乱れ、可憐かれんくちびるが震えた――震えたように見えたことに、心を引っ張られた。


「――リルルっ!?」


 ニコルは反射的にリルルの元に顔を寄せる。

 が、眠り姫のまま布団に包まれ、目を閉じるリルルは、それ以上の反応はしめさなかった。


「リルル……いや、そんなはずないか……気のせいだよね……」


 眠り続けるリルルは、息をしている。肺は空気を取り入れ、吐き出すことで膨らみしぼみ、それによって胸は上下する。呼吸のたびに顔はほんのわずかに震えるし、唇がほんの少しの隙間すきまを作ることだって当たり前にあった。


 だが、そのめずらしくもないことに、ニコルの心はきつけられた。

 リルルの顔の上に咄嗟とっさに寄せてしまった自分の顔は、彼女の顔と拳ひとつ分の間合いしかけられておらず、少女の愛らしい顔立ち、ぷっくりと小さくふくらんだ薄桃色の唇に、目がくぎつけになった。


「リ……リルル……」


 少年の衝動しょうどうが張り詰める。

 唇と唇の間のわずかな距離を若い本能が埋めようとし、埋めようとした瞬間に、若い理性がそれを引きがした。


「――ぼ、ぼ、ぼぼ、僕はなにを考えているんだ!」


 視野の全てにリルルの顔をとどめたままニコルは、顔の全部を朱色しゅいろめてさけんだ。衝動と理性の力が均衡きんこうたもって、ほんの少し後頭部を押されただけで眠る少女の唇に口づける距離を、埋めることも離すこともできなかった。


「ダメだ、ダメだ、ダメだ! 眠っているフローレシアお嬢さんの唇をうばうなんて! そんなことは紳士しんしとして、騎士として許されない! ああ、僕はいったい、なんというはしたないことを――」

「――ああ、しようがないなぁ――」


 ニコルは、目を見開いた。


「――――え?」


 風が吹いた。

 薄桃色の風が、そして、微かな青をまとった銀色の風が、螺旋らせんを巻いて、吹いた。


「もう、どうしてそんなに固いかなぁ?」


 少女・・の腕が、ニコルの頭に回った。

 息をするという概念がいねんさえ忘れさせられ、思考も脈動もなにもかもが固まっているニコルが、さからいがたい力に顔を寄せられ――その唇を、少女の唇の上に着地させられていた。


「――――――――ん」


 十七秒のキスが、わされた。


「よいしょ」


 少女がニコルの頭に手をえ、優しく持ち上げて遠ざける。瞳の震えさえ固められてしまったニコルは、おどろくことすら許されず、大きな人形のようになすがままにされた。


「ふああ――あぁ……あ」


 少年の上体が退いてできた空間を埋めるように、少女の体がゆっくりと起き上がる。

 生きているのか死んでいるのか見た目ではあやしくなったニコルの目の前で、少女は両の腕をいっぱいに伸ばし、背を大きくらし、あくびで生まれた涙のつぶを、寝間着ねまきそでいた。


 そして――少女は、少年に顔を向ける。

 女神のように優しく、少女の愛らしい微笑みが、リルルの風をまとっていた。

 少年のわずかに濃い水色の瞳の中で、少女のアイスブルーの瞳が、リルルの輝きを放っていた。


「――おはよう、ニコル」

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