「罪と、赦しと、祝福と」

「しゅ……祝福……?」


 ニコルはうなずき、その微笑ほほえみにいろどられた顔を、わずかにかげらせた。


旦那様だんなさま。ニコルは、旦那様を裏切りました。誠実せいじつであり続けねばならない騎士であるこの身が、こともあろうに旦那様とのちかいを破ったのです」

「誓い……?」


 ログトの目が泳ぎ、記憶を検索していた。


「去年の園遊会えんゆうかいの後、旦那様に大運河だいうんがさそわれて二人きりでお話しした夜のこと、覚えていらっしゃると思います」

「あ……ああ」


 ログトが拡散かくさんしかけていたその瞳孔どうこう焦点しょうてんを、合わせた。あの時もこうやってログトはニコルの前でひざまづき、懇願こんがんするようにひとつの誓約せいやくを求めた――。


「旦那様はおっしゃいました。僕とリルルがうのはいい、話をすることも構わない――しかし、子供ができるようなことはやめてくれ、と」

「ニコル、お前は……」

「僕はまだ、リルルの純潔じゅんけつれてはいません。自分の名誉めいよちかって、それは真実であるとべさせていただきます。――しかし、リルルを王城にらえた前国王陛下の野望が明らかになりつつあり、このままではリルルがそれに利用されると判断した頃、僕はリルルと共にメージェ島へと脱出しました」

「それは……焦土戦術しょうどせんじゅつ街々まちまちが焼かれ、人々が王都に送られ、侵攻軍が上陸しようとしているころの……」

「はい。まさにその頃です。そして……僕はその島で、リルルと結婚式をげようとしました」


 ログトの目が見開かれた。


「式が成立する寸前、島は襲撃しゅうげきを受け……その後の混乱でなにもかもが流れ、今にいたっています。――自分は、旦那様に言いふくめられ、それを了解して誓いを立てたにも関わらず、それをみにじろうとしました。騎士が立てた誓いは、騎士という崇高すうこうな立場によるもの。一度立てた誓いをつらぬき通すがために、世の信頼を受けているのが騎士だというのに……」

「そ、それは仕方がないことではないか。私はその頃行方不明も同然だった。王都に向かうべき命令を受けながら行かず、意地を通してフォーチュネットの地にとどまっていた。そんな私の……」

「僕はそれを言い訳にしたのです。旦那様が行方不明だからと。仕方がないと。旦那様の許しも得ず、あろうことか禁じられていた約束を、自分も同意した誓いを破り捨てて。……僕は卑怯ひきょうな人間です。それだけでも僕は、騎士の名に相応ふさわしくない……」

「ニコル様……それは、あまりに潔癖けっぺきが過ぎるというものです……」


 フィルフィナはその台詞セリフを音にしていいたかったが、だまった。そうしようというのがニコルという人物だということは、心にめいじられるほどにわかっていた。


「――ですから、旦那様!」


 ログトが地に着けていた両の手を、ニコルが取った。姿勢を起こされたログトの顔がニコルに向けさせられ、少年の燃えるような眼差まなざしを正面から受けた。


「僕がほっするのは、僕とリルルの結婚に対する、旦那様の心からの祝福だけなのです! 元より僕は、リルル以外の女性を妻にしようなどとはつゆほども思っておりません! 旦那様をあざむこうとした僕が口にしても信じてもらえないかも知れませんが、それだけはお信じいただきたく! 僕の不誠実をお許しください!!」

「ニ、ニコル!」


 音を立てるようにニコルの頭が下がる。次には上体が前に倒れそうになるのを、立場を変えたようにログトの腕が支えた。


「わ……私は、お前を許す許さないなどという、そんな資格がある人間ではない。私こそ、到底とうてい許されることのない人間だ……。ニコルとリルル、本当のお前たちの幸せをわかっていれば、なにがいちばん大切なのかを最初から理解していれば、こんなことにはならなかったのだ……。私の野望で、妄執もうしゅうで、長い間お前たちの心を散々さんざんに苦しめた……。私はお前のような立派な人間を前にして、本来、なにかを語れるような人間でもない……」

「旦那様……」

「ニコル、その呼び名はもう、私には相応しくない。私はお前の主人ではないし、お前よりえらぶれる人間でもない。お前の前にいるだけで、ずかしさで心がつぶれてしまいそうな、つまらない人間なのだ」

「――それでは、別の呼び名で呼ばせていただいてよろしいですか」


 ニコルが顔を上げた。

 ログトの戦慄わななく表情が、少年の水色のひとみうつった。


「父さん、と呼ばせてください」


 心臓を両手で包まれ、握られたかのように、ログトのなにもかもが、止まった。


「僕はリルルを妻にします。たとえリルルが永遠に眠り続けても、リルルは僕の妻です。僕の命がきるまで、連れうことをここに誓います。……父さん、僕をあなたの息子にしてください。僕は昔から、いつかあなたの息子になれることを夢見ていたのです」

「こ……こ…………」


 ログトの目から、新たな涙がみ出された。


「こ……こんな、こんなつまらない人間を……お前の父にしてくれるのか……」


 それは今までほおを流れていた涙と色は同じだが、全然違う種類の涙だった。


「ニコル、リルル。私を許してくれるのか。こんな身勝手な自分を……」

「父さんも僕を許してください。本当に心からい改め、ゆるしをうものが許されなければ、この世は地獄です。永遠の苦しみです。父さん――ふたりで、許し合いましょう」

「旦那様、わたしも謝ります……」


 フィルフィナが目を閉じ、微かにあごを下げ、懺悔ざんげするようにいった。


「わたしも散々旦那様をあざむいてきました。バレなければいい、知られなければいいと。お互いに知らない方が幸せなのだと。――許しがなければ、この世は地獄ですか……。わたしも罪深い存在です。ニコル様の側にいるのが恥ずかしいくらいに……」

「フィル。お前はリルルを守ってくれた。それだけでいい。それだけでいいのだ…………ニコル」

「はい、父さん」


 答えるニコルの瞳からも、美しい涙があふれていた。


「私はまたひとつ、間違まちがいをおかすところだった。物でお前との距離をめ合わせようなどと……全てを捨てることで許しを得ようなどと……」


 震えるログトの手がニコルの肩をつかむ。それはしがみつくような強い力のものではなく、触れたものをあたためようとする、優しいものだった。


「わ、私は幸せ者だ。リルルのような娘と、お前のような息子を持てる幸福な人間は、ふたりとおるまい。お前とリルルは、私が生涯で得たものの中で、最も価値あるものだ。お前たち二人こそが、私が人生で得るべきものだったのだ……。ありがとう……ありがとう、ありがとう……」

「父さん」

「……私は、その『父さん』という響きが嫌いだった。私は父をそう呼んでいたが、父は私に振り返りもしなかった……いつだって無視されて……だが、今初めて、私はそれを好きになれた。いいものだ……お前の口から出るそれは、やわらかくて、やさしくて、なんと胸にみるものだろう……」


 ログトがニコルの背に腕を回し、その丸めた体をニコルの胸にもぐり込ませるようにして抱き寄せた。小柄な自分のふところにすっぽりと入ってきたその体の意外な小ささを思い知らされて、ニコルはおどろきに目を開かされた。


「私は父を信じられなかった。何度も裏切られてきたからな……。だから私は、人を、他人を信じられなかった。信じないことにした。全て契約けいやくでがんじがらめにし、しちを取ることでようやく信用した。裏切られた時、いつでもその胸をせるようにしていた……。私は結局、この歳にいたるまで誰からも愛されなかったし、誰も愛さなかった……。なんという情けない人間だ……」

「僕とリルルは、父さんをおしたいしておりました。今だって……それはお信じください」


 うん、うん、とログトが子供のように首を振った。


「――そして、父さんも、僕とリルルを愛してください。父さんの世界にあるものをみんな愛してください。リルルはそのために、父さんを生き返らせたのです。父さんの心を救うために。父さんを心から愛しているがために」

「そうか……そうかも……そうだな……それはうれしいことだ……」

「旦那様」


 他人のような顔をして、それでも涙がかくせないフィルフィナが素っ気ない声でいった。


「わたしも旦那様を愛しておりますよ。本当にどうしようもない旦那様なら、どうにかしておりました。それをお忘れなく」

「はは……ははは……。フィルがいうと、説得力があるな……」


 ログトがニコルを抱きしめる。ニコルもそれに応え、自分の新たな父となった男の存在を腕の中に収め、父の涙が流れる音を聞いた。


「家族……家族か……。今、初めて私は、フォーチュネットの家を取り戻せた……。人と人が結ばれていない家など、空虚くうきょもいいところだ……。私は今まで、必死に器ばかりを追い求めて、それを満たす酒を忘れていたのだ……ははは……愚かだな、実におろかだ……」

「――その愚かさに気がつけるということは、とても素晴らしいことなのですよ……」


 フィルフィナは贈り物としてその言葉をえた。いわれた者たちの、いった本人の心にも染み入る、それは至言しげんだと思えた。



   ◇   ◇   ◇



「――ニコル、この屋敷だけはもらってくれ。リルルのためにも」

「父さん」


 すでに夜も更けきっているというのに、ログトは出立しゅったつの支度をして玄関に立っていた。


「リルルはこの屋敷が好きなのだ……。リルルの想い出が染み込んでいる屋敷だからな……。フィルがいつもいて、お前が遊びに来てくれたこの屋敷が。だからここで眠ることを選んだのだろう……。だからニコル、お前はこの屋敷で寝泊まりしてほしい。私のことは構わずともいい」

「父さんは、どうするのです」

「私がちょろちょろしていても、お前とリルルの邪魔になるだけだろう」

「そんな」

「フォーチュネットの領地は代官に任せている。私はこの王都で逼塞ひっそくつもりだった……が、ニコル、お前が領地を譲られてくれないとなると、管理は私がしなければならない……。私もとしだ、もう五十六……五十七か。あとどれだけ生きられるかはわからん。死んだ後のために、最低限の基盤造きばんづくりはしなければならん――ニコル、さすがに私が死んだ後は、息子となったお前は私のものを引きいでくれるな?」


 帽子ぼうしかぶりながら、ログトは微笑んだ。


「宿は既にとってある。それから私はいったんフォーチュネット領に戻る。しかしひまを見つけては往復おうふくするつもりだ。ニコル、我が息子よ。リルルのことは、頼んだ」

「――はい、父さん」

「……何度聞いてもいい響きだな。あとは、リルルの『お父様』を一日も早く聞きたいところだ」

「先ほどの父さんがリルルにいった言葉、あれはリルルに届いていると思います」


 応接間の許し合いの後――ログトはリルルの寝室に戻り、リルルの元で膝を着いてささやいた。リルル、一日も早く目を覚ませ。こんなニコルのようないい男を待たせるものではない。早く目を覚まし、ニコルにおはようをげてやれ――と。


「ならいいがな……しかし、リルルは寝ぼけるくせがあるからな……」

「あはは……そうですね」

「このぬいぐるみは、王都を離れる前に必ず完成させて持ってくる」


 白い紙袋を持ち上げてログトはいった。


「――フィル、リルルのこと、くれぐれもよろしく頼む……」

「この完璧かんぺきなメイド、フィルフィナに万事お任せください」


 フィルフィナが一礼する。その横でニコルは、静かに立っているロシュに目配めくばせした。


「お父様。このロシュが宿への道中、護衛ごえいいたします」

「あ、ああ、頼む……ロシュ、だったか? お前はいったいどういう立場の者なのだ……?」

「それは歩きながらでご説明いたします。長い話になりますので」

「あ、ああ……?」


 ランプをかかげたロシュが先導せんどうする形で、ログトは玄関から出て行った。


「――あのお歳で、王都とフォーチュネット領を何度も往復するなど体に毒ですよ。仕方ありませんね、特別に転移鏡てんいかがみ調達ちょうたつしてあげますか……」


 やれやれ、という感情をことさらに強調してフィルフィナが大きな息をいた。


「あの頭髪とうはつが豊かでない旦那様も心から反省なさっている様ですし、そのご褒美ほうびです。ああ、なんて甘いメイドのわたし」

「フィルのそういう優しいところが好きだよ」

「愛しているくらい仰ってください。もう、ニコル様ったら気がかない」


 ぷい、と口をとがらせてそっぽを向いて歩き去るフィルフィナに、ニコルは笑みで応じた。


「……やっと、一日が終わるのか……。今日は本当に濃い一日だった……。でも、色々大きなものを得た一日だったね……記憶に残る一日だよ……」


 心地好い疲れを覚えながら、ニコルはフィルフィナの足跡あしあとむように歩き出した。



   ◇   ◇   ◇



 ――翌朝。


 リルルの寝室を埋めくすぬいぐるみの中に、父ログトのぬいぐるみが加えられた。

 それが置かれた瞬間、眠り続けるリルルが浮かべる笑みがほんのわずかに――ほんのわずかだが、より濃くなったことには、誰も気づかなかった。

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