「交渉――ログトとニコル」

「終わりました」


 朝の買い物にでも行ってきたかのような顔をして帰って来たフィルフィナを、ニコルは微かに苦い顔で出迎えた。


「どうされました?」

「……フィル、旦那様にキツく当たらなかったろうね?」

「ああ、ニコル様までフィルをお信じくださらない。大丈夫ですよ。旦那様の心を折ることはしませんでした。でも」

「でも?」

「お給金は五割増しにしていただきましたが」

「そんなに? 僕の警備騎士団時代の四倍弱くらいじゃないか」


 ニコルは呆れた。


「まあ、フィルの仕事ならそれくらいもらう価値はあるんだろうけれど……」

「いいじゃないですか。これでフィルは旦那様を裏切ることはいたしません。契約を重んじるという旦那様の主義は、フィルも好きです。――このお掃除お洗濯に要人護衛や要人襲撃の専門家スペシャリストであるフィルフィナが味方であれば、心強いでしょう?」

「お料理を忘れてない?」

「忘れてないから外してあるんです」


 フィルフィナは悪びれずにいった。決して料理が不味いわけではないが、作れる料理の幅が綱渡りよりも狭いこのメイドにニコルはなにをいう気もなくした。


「それよりニコル様、旦那様がお呼びになっています。応接間の方にどうぞ」

「やっぱりか……じゃあ、行ってくるよ……」

「ニコル様、一言だけ助言アドバイスをさせていただきますが」

「なに?」

「最初に土下座が来ますから、相手の調子ペースに乗せられないように」

「嫌だなぁ」


 ぼやきながらニコルは廊下に出、応接間に向かっていった。数十秒の間を置き、フィルフィナが気配を殺してその後を追い出したのを、今まで無言を貫いていたロシュがちらと目で制した。


「フィル、どうするのですか?」

「応接間の隣の物置から応接間をのぞき込めるようになっているのです。ですから」

「ですから?」

「のぞこうかと」


 ロシュがなにかをいう前にフィルフィナはすたすたと歩いて行く。その時にはニコルが応接間の扉を開けようと声を上げているのを耳に感じて、ロシュはため息を吐いた。


「ロシュも、日に日に人間臭くなっていく……ニコルお兄様の声が聞こえそうです」


 テーブルの上に残されたお茶の後をお盆に載せ、ロシュはもう一度深いため息を吐いた。



   ◇   ◇   ◇



「ニコル、この通りだ!」

「おやめください、旦那様!!」


 音も立てずに物置に入り込み、絶妙な小ささで隠蔽いんぺいしながら視界を確保しているのぞき穴から隣室の応接間の状況を見たフィルフィナは、案の定な状況に顔をしかめた。


「お願いします、お手を上げてください! 僕ごときに旦那様ともあろう方が、そんな格好をなさってはいいけません!」

「あっちゃあ…………」


 フィルフィナは頭の芯に響いた衝撃に頭を抱える。必死に床にいつくばろうとするログトを、ニコルが必死に起こそうとその両肩を抱えていた。


「しかし、しかし、今からお前に頼むこと、私の虫の良すぎる話を聞いてもらうにはこんな姿勢でも足りん! 私は自分の厚かましさに、穴を掘って埋まってしまいたいくらいなのだ!」

「旦那様、とにかく、とにかく落ち着いてお話をしましょう。今の旦那様は……」

「ニコル、頼む!」


 おぼれる寸前の人間のような必死の形相で、ログトはニコルの肩をつかむ。血走っているかのようにも見えるその目の色に、ログトの腕をつかみ体を支えようとするニコルが息を飲んだ。


「ニコル、頼む――お前の、お前の人生を私に売ってくれ!!」


 ニコルが、フィルフィナが同時に息を飲み、そのまぶたを跳ねさせた。

 一瞬ではその言葉の意図を図りかね、体を震わせてなにかを訴えかけようとしてくる初老の紳士の次の言葉を待つしかできなくなった。


「ニコル、お前はこれから地位ある者として、責任がある立場として様々なことをさねばならんだろう。小さいといえど一国の王、そしてお前がこの一連の事件でなにを成したかは、周囲に知られ始めている。お前と縁を結びたいという者たちが、こぞって押しかけてくるだろう」

「僕に……ですか?」

「ニコル、お前は自分で思っているよりもずっと、重要な立場にいる人物なのだ。お前を取り込んで利用しようという者は数多く、後を絶たないことだろう。その中には、縁談も数多くあろう。既に動き始めている者がいるという噂も耳にした……」


 フィルフィナは反射的に爪を噛んだ。『潰さなければ』とその目がいっていた。


「一国の王ともなれば、家を作り、子を成して家を次代に伝えねばならん。それが王たる者の責任だ……。お前はいずれどこかの姫君をめとり、子を作ることになるだろう。それをわかっていながら、私は頼む! 誰かと結婚するのだけは、やめてくれ!!」


 ニコルは肩に食い込んでくるもの凄い力に微かに顔を歪めた。だが、欲しいとはいえなかった。心の全部をぶつけてくるようなこの男の勢いに、完全に魂を飲まれていた。


「――もしも、万が一、万が一だ!! ことわりとしてあり得ないのはわかっているが!! もしも、奇跡が起こってリルルが目覚めた時! お前が誰かと結ばれているのをリルルが知ったら、どれだけ悲しむか!! どれだけ嘆くことか!! お前のことを一途に想っていたリルルが悲しむのを、私は見たくないのだ!! だから、だから頼む!! リルルのために、リルルのためにお前の一生を私にくれ……頼む、頼む、頼む…………!!」


 返す言葉を失っているニコルの前で瞳ににじませ、そして流れ出した涙の重さに耐えきれなかったようにログトはうな垂れる。嗚咽おえつの響きが二人だけの応接間に響き始め、呆然とするニコルは震えるログトの体が床に突っ伏さないのを防ぐだけの支えとなっていた。


「――ただとは、ただとはいわんのだ。代償は、お前の人生を縛るための代償は払う。金で解決するのかとお前は思うかも知れんが、私がお前に渡せるものは、財産しかないんだ。だが、私はその財産に命を賭けさせてもらう! 財産を命としてお前に渡す!! お前の人生をもらうからには、私の人生をお前に譲る!! それが私の生き方なのだ!!」


 ログトの右手がニコルの肩から離れた。懐から小さな冊子を取り出し、床に叩きつけた。


「これに目を通してくれ!」

「ああ、もう、見てられませんね」


 フィルフィナは物置から出、そのまま無遠慮に応接室に踏み込んだ。


「フィル!!」


 ニコルが叱咤しったに声を跳ねさせる。だが、フィルフィナは眉一つ動かさずにニコルとログトの横に立ち、床に置かれた冊子を拾い上げた。


「わたしはこの問題に口は挟みませんよ。ニコル様は旦那様を支えているので手が塞がっているでしょう。これを読み上げるだけです」


 薄い冊子だったが、黒塗りかというほどにびっしりと文字で埋められたそれは、目録だった。


「――以下の財産を、ニコル・ヴィン・アーダディスに譲るものとする……。……フォーチュネット郡全域の、領地の領有権と統治権……!?」


 最初の項目に、フィルフィナでさえ息を飲んだ。ニコルなどは言葉も呼吸も忘れた。

 それは、ログトの人生そのものだった。

 目の前でうな垂れている男がかつて失い、四十年という時間をかけて取り戻したものだった。


「旦那様、これは……!?」

「いったろう。私の人生を譲ると」


 目から吐き出される涙を床に落としながら、ログトは声を絞り出した。


「それくらいでもないと、まだ若いニコルの人生を、未来を奪う代償には足りん。いや、それでも到底足りない……だから、私は……」

「……フォーチュネット水産会社の全株式、各銀行の預貯金、その他株式、各種債券、手形、小切手、不動産……外国にまで土地を持っていたのですか、旦那様は……」


 それはフィルフィナの把握を遙かに上回る量と額のログトの資産だった。ログトが一代で築き上げた水産会社の株式、これだけで天文学的な額となるだろう。いや、それ以前にフォーチュネット郡の領地の権利だけでもそれの何倍になるかわからない。価値をつけるのも困難なものだ。


「だ……旦那様には、いったいどれだけの財産が残るのです。これ以上になにかの財産が、旦那様にはお有りなのですか……?」

「私も実業家だ。抜かりはない――といいたいところだが、隠居料として確保しておいた最後の国債の配当は、優秀なメイドに払う高額の給金でほぼなくなることになる……。私に残されるのは、王都の古びた一間の安アパートで慎ましく暮らせるくらいの、雀の涙くらいのものだ……」


 フィルフィナは大きく顔を歪めた。一気に罪悪感が胸に押し寄せ、途端に息苦しくなった。


「が、いい。細々とは生きていける。どうせ四十年前に戻るだけだ。いや、四十年前よりはよほどマシなのだ。あの時は、暮らす部屋さえなかったのだからな……」

「だ……旦那様……」

「ニコル。この屋敷も含めて、私が築いたものは九割九分九厘、お前のものだ。そして……王の地位についているお前にはもう無用のものかも知れんが、これもお前に譲る……」


 ログトは自分のシャツの襟に付いている徽章きしょう――三本のまっすぐに伸びる麦が並ぶ意匠デザインのそれを外し、身分証と共に床に差し出した。


「フォーチュネット伯爵位だ。受け取ってくれ……」

「旦那様ぁっ!!」


 ニコルは悲鳴を上げた。それは、父の放蕩ほうとうにより領地を含んだ全ての財産を失い、文字通りの裸一貫はだかいっかんで王都に出て来たログトがただひとつ持ち続け、飢えに飢えきりそれしか売る物がなくなった時でも、頑として売ることのなかったものだった。


「これだけは、これだけはいけません!! これは旦那様の命、魂そのものです!! 旦那様はこれのために今まで生きてきたのでしょう!! これは旦那様が手放してはならないものです!!」

「そうだ!! これは私の矜持プライドそのものだ!! 私の人生の、文字通りの全てを賭けたものだ!! だからこそ、だからこそ私は、ここでこれを失わねばならんのだ!! ニコル、お前の大切なものを譲ってもらうために!! お前の人生を譲ってもらうためにだ!!」


 ニコルが押し戻そうとした手を、ログトは止めた。鍛えている少年の力では押し返せないほどの異様な力が、もう年老いているはずの男から絞り出されていた。


「ニコル、頼む!! 重ね重ね、頼む!! リルルの側にいてやってくれ!! 眠り続けるリルルのためにお前の人生を捧げてやってくれ!! それさえお前が約束してくれれば、私の願いを聞いてくれれば、私は満足だ!! もうなにも思い残すことはない!! 頼む……頼む、頼む、頼む…………!!」


 男の号泣が部屋を満たす。ログトの腕を支えるニコルの手から力が脱け、ログトはその場に突っ伏した。フィルフィナのかげる目が無言で男を見下ろし、少女は胸を締め付ける感覚に耐えた。


「――――――――」


 ログトが差し出したものを前にして、膝を着いたままニコルは、黙して静寂を保った。

 この哀れな父親に、なんといって言葉をかければいいか――その答えを導き出すための百万の思考の末に、ニコルは、三百秒ぶりに口を開くことができていた。


「旦那様」


 ログトの体が、震えた。


「これは、この全ては、お受け取りするわけには参りません」

「……ニ……ニコル……!!」

「僕が旦那様からいただきたいのは、たったひとつだけのものなのです」


 絶望の顔を上げたログトに、ニコルは微笑みかけた。

 翼をなくした天使のものだと誰もが表現する、人の心を洗うように清々しい微笑だった。


「僕が真に旦那様からいただきたいのは、僕とリルルに旦那様が送ってくださる、祝福だけです――」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る