「贖罪――ログトとフィルフィナ」

 父親の声を受けても、リルルは目覚めることなく穏やかな寝息を立てていた。

 フィルフィナが掲げる光の中に浮かび上がる娘の寝顔を見つめ、言葉もなく立ち尽くしたログトの落ちくぼんだ目が悲しみの色をまとって、わずかな涙がにじんだ。


 ニコルとフィルフィナ、そしてロシュが少しの距離を取り、無言の父と娘の対面を見守る。

 何分、ログトはそうしてリルルを見つめていただろうか。


「――私は、本当にダメな親だな……」


 あまり高くない背の体が丸まり、ますます小さく見える容貌ようぼうになってしまったログトが大きく息を吐いた。魂までが吐き出されたかと思えるほどの大きな息だった。


「娘の寝顔を見るのは、赤ん坊の頃以来だ。ここで眠るリルルなど、初めて見たかも知れん……」


 ログトの膝が崩れる。側にある椅子がその体を受け止めた。


「その赤ん坊のリルルすら、抱いてやったことはほとんどない……。これでよく、リルルは私を憎まないものだ……。ソフィアやフィルフィナに世話を任せっきりにして、私は自分のしたいことばかり考えて……」

「少しは反省なされましたか?」

「フィル」


 揶揄やゆする調子すら込められたフィルフィナの声に、さすがにニコルがたしなめる。


「いや、いいんだ、ニコル。フィルが私に怒るのも無理はない」

「怒ってはおりません。私は旦那様がお嬢様に無関心であられるから、お嬢様付きのメイドにしていただきました。もしも旦那様のお嬢様に対する態度が少しでも違っていれば、怪しいエルフなど側には付けなかったでしょう」

「……私は、人を見る目はそれなりにあるつもりだ。お前がいい人物だと思ったから、リルルを任せた。私は自分の手ではリルルを構わなかったが、無関心であったわけではない。私は私なりに、リルルのことを考えていた……」

「将来、政略結婚にするためのこまとして、気はかけることでしょう?」

「フィル、言葉が過ぎるよ。……僕にはわかります。旦那様は確かにリルルを自分の野望を達成させるための駒にしようとしました。しかし、愛情がなかったとは僕は思いません。その気になればリルルを勉強漬けにして、どこの貴族の家にも嫁げるような淑女しゅくじょにしようとしたはずです」

「ニコル様、それはフィルもわかっています。しかし敢えて触れないのです」


 どうしてそれをここでいうのだ、とフィルフィナは口を尖らせた。


「旦那様が明確にこう考えていたかどうかはわかりません。ですが、リルルを成人まで自由にさせていたのは、ご自分の罪悪感があったからではないかと思います。せめて、未成年の間は自由にさせてやりたいという親心であったと……」

「今となってはわからん。ニコルのいう通りであったかも知れんし、そうでなかったかも知れん」


 ログトの体が椅子の上でますます丸くなった。


「だが、今いえることは、私はとても後悔しているということだ……。リルルがここで眠っている理屈は、何故だかわからんが、とてもよく理解している。この世界がリルルの見ている夢で、私たちはその住人なのだと。この世界を支えるためにリルルは眠り続けるのだと……。それもこれも、全て私の責任かも知れん。前国王の提案に飛びつきリルルを王妃として差し出し、私は念願の……心から求めていたフォーチュネットの旧領を取り戻した。それは未だこの手にある……が、今は虚しい。人生のほとんどを費やし、多くのものを犠牲にして得たもののはずなのに……」

「――旦那様……」

「私にとっての黄金の大地とは、フォーチュネットの旧領ではなかった。リルルのことだったのだ」


 懺悔ざんげするようにログトは両手を組んだ。


「白状する。私はリルルのことを忘れていた。求めていたものを取り戻せた嬉しさ、王室の縁戚えんせきになれた名誉……。が、空を飛ぶ王都から伸びた光が大地を撃ち、全てを燃やし尽くす寸前に、私は何故かリルルのことを思い出した。侵攻する外国の大軍勢が王都に到達し、王妃となったリルルがどんな目にわせられるかを想像した時、私はリルルと引き替えに得たものなどどうでもよくなった。王都に駆けつけ、リルルを取り戻し、ニコル、フィル――お前たち二人に引き合わせ、どこか静かな所に逃がそうと思い、王都に走ろうとして……」


 ニコルもフィルフィナも黙った。そこからは、地上に残った者たちが等しく受けた災厄さいやくだった。


「まあ、なんにしろ、反省しているのはいいことです。特別に許して差し上げることにします」

「フィル、言葉が……」

「今のわたしはこの家のメイドではありません。旦那様――いや、正確には旦那様ではないですね。ログト様に解雇された身ですゆえ、なにをいっても怖くないのですよ」


 ニヤリ、という音が似合いそうな形に口を歪め、フィルフィナは笑って見せた。


「いわゆる無敵の人、というやつです。今のわたしに怖いものはありません」

「元々そんなにないじゃないか、怖いもの」

「今のわたしはお茶とケーキが怖いです」

「――そのことについてだがな……」


 ニコルとフィルフィナに顔を向けたログトは二人に視線を彷徨さまよわせ、少しの逡巡しゅんじゅんの末、フィルフィナにそれを定めた。


「……フィル、応接間に来てくれないか。さっきもいったように話がある」

「わたしとニコル様、二人にではないのですか?」

「ひとりずつだ。頼む、先に行っているぞ」


 返事を待たず、ログトは寝室を出た。そのまま居間を抜け、廊下に出て姿を消してしまう。


「……ま、要件はだいたいわかっていますが……」

「フィル。あまり旦那様をいじめてはいけないよ。今の旦那様はだいぶ参られてるから」

「はいはい。ニコル様はお優しいのですね。わかりました。あまり・・・いじめません」


 フィルフィナもログトの後を追い、部屋を出た。


「だいじょうぶかなぁ……」


 不安を隠せない顔でニコルは自分がのぞけない領域に想いをせ、終始口を閉じていたロシュが、ようやくここで口を開いた。


「ニコルお兄様、お茶にしましょうか」

「ああ、頼むよ……」



   ◇   ◇   ◇



 応接間でフィルフィナを待ち受けていたログトの最初の一手は、フィルフィナの予想から少しも外れていないものだった。


「この通りだ、フィル!」


 フィルフィナが応接間に姿を見せた途端、待ち構えていたログトが俊敏に数歩を下がる。フィルフィナの目が縦に伸びたと同時にログトは両膝を折って正座し、がば、と床に手を着いた。


「我が家に戻ってくれ! 頼む!!」


 躊躇ためらいの欠片かけらもなく、ログトの額が床に叩きつけられた。一糸の乱れもない完全な作法を見せつけた後、ログトは全ての体重を額に傾けるようにして動かない。

 教科書に載せたくなるような、完璧で、美しいとさえいえるような土下座だった。


「ええぇ…………」


 扉を閉めながらフィルフィナは声を上げる。明らかに嫌そうな顔をしていた。


「申し訳ありませんが旦那様、フィルに土下座は意味がないのですよ」


 ログトの後頭部を垂直に見下ろせる、あと半歩前に出れば靴の爪先が触れる位置までフィルフィナが接近する。


「いつも旦那様はおっしゃっていたではないですか。『土下座は無料ただだ、無料のものを使わねばもったいない』と。濫発らんぱつすることで価値が減るので使いどころは考えなくてはならない、とも仰ってましたが、まあ、行動の意図を見抜かれるとこういうのは通用しないんですよね」

「…………」


 ログトは動かない。その表情がどんな形になっているのか、フィルフィナにはわからなかった。


「それに覚えてらっしゃいますか? お嬢様がお城に連れて行かれたあの日、フィルは懇願こんがんしましたよね? お暇を出すのだけは勘弁してほしいと――そう、今旦那様がなさっている土下座で。しかもあれは屋外、お庭の砂利の上でしたよ? 砂利が膝と額に痛いのなんの」


 ぴくり、とログトの肩が震えた。


「旦那様、本当はわたしがエルフとして結構な地位にいると認識されていると思いますが、正確なところまではご存じないでしょう。ま、話してませんですから仕方ないのですが、あの日のことをもし他のエルフが見ていたら、旦那様の命はその場でなかったのかも知れないのですよ?」


 ぴくぴく、とログトが戦慄わなないた。


「そういうわけで、そんな土下座でわたしの関心を買おうと無駄です――帰っていいですか?」

「フィルぅ!! 頼む、頼む、頼む!! 私のためではない! リルルのために!! リルルのために戻ってきてくれ!! このログト・ヴィン・フォーチュネット、一生の願いだ!!」

「ああ、もう、うざったいですね――」


 フィルフィナはポケットから取り出した爪磨きで爪の間のゴミをほじくり、息で吹き飛ばした。


『――とはいえ、ですね』


 何度も額で床を叩き続けるログトを見下ろしながら、フィルフィナは心の中で思う。


『今、こうやってこのお屋敷でお嬢様の面倒を見ているということは、実質戻っているようなもの。それは旦那様もわかってはいるでしょうが、それでなあなあにしないところは、評価してあげてもいいですか……』


 精一杯の誠意を行動で示そうと、立場も矜持プライドもかなぐり捨て、土下座をする機械のようになっているログトの姿に、その後頭部を踏んでみたいという衝動がフィルフィナの胸に湧き上がる。

 さすがに靴の裏で踏み付けるのはマズいと思い、言葉で踏み付けることにした。


『今はわたしの厚意でお嬢様の側にいる。が、それは契約ではありませんからね。わたしがひとつ機嫌の矛先を変えればどうにでも動いてしまう状況、旦那様はそれをどうにかしたい……ふふ』


 ログトのどこまでも商人らしい気質を見て、フィルフィナは口元がほころんでしまうのを止められなかった。本質的に、自分とこのログトの間に近似のものを感じていた。


『どうせ、お嬢様の面倒を見るのをやめて出ていくという選択肢は、あり得ないですからね……』


 自分も甘くなったものだ――フィルフィナはくすりと小さく笑うと、肩をすくめて見せた。


「――やれやれ。仕方ありませんね。では旦那様、話し合いに応じてもよろしいですよ」

「ほ、本当か!?」

「ええ」


 音が立つくらいに派手に顔を上げたログトに、フィルフィナは微笑みかけた。


「では、まずはお給金の確認から参りましょう。以前は月にこれだけいただいていたいたわけですが」


 魔法か手品のように取り出した算盤そろばんをじゃらりと鳴らし、フィルフィナは指を滑らせて五玉ごだまを上一列に並べ、六桁目の五玉を下ろした――五十万。


「さあ、旦那様のお気持ちを存分に表してください」

「気……気持ちか……」


 ログトは震える手で、五桁目の五玉を下ろした――五十五万。


「こ、これで……」


 算盤から視線を外し、フィルフィナの顔色をうかがったログトは、ヒッと喉を鳴らした。


「――――――――」


 全く笑っていないフィルフィナの目が、そこにあった。


「を……をを、をを……」


 ログトの震えきってスプーンすらつかめなさそうな指が六桁目の一玉いちだまにかかる。ありったけの勇気を振り絞り、ログトはふたつの一玉を上げた――七十五万。

 その冷たさで炎さえ消せそうだったフィルフィナの目が、にっこりと笑った。


「まあ、そこら辺で負けておいてあげましょう。旦那様ったら、商売がお上手なんですから」

「は……はは、はははは……」

「では、契約金は月収三ヶ月分ということで」

「――――――――」


 あんぐりと口を開けたログトの前で、フィルフィナは二枚の紙を取り出した。ログトが固まっている中、迷いのない手つきで白い紙をそれぞれ、全く同じ文章であっという間に埋めて行く。


「両方の書類に署名と押印を」


 いわれるがままにログトは、二枚の書類に署名と押印をした。完全に放心していた。


「あと、割り印もお願いしますね――はい、毎度ありがとうございます。では、これで契約成立ということで」


 片方の書類を胸に納めるとフィルフィナはもう片方をログトに握らせ、空いている手で握手を求めた。操り人形のようにログトはそれに応じた。


「ああ、そうそう」


 にんまりと笑ったフィルフィナが、最後のトドメを放った。


「以前いただいた、五千六百万エルの退職金――あれは当然、お返ししなくていいということで、よろしいですね?」


 ログトはこくこくと肯いた。その顔には薄氷のような笑み、そして目には涙が光っていた。

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