「再会――ログトとリルル」

 フィルフィナはリルルの居間を飛び出した。飛び出した途端に一瞬足がもつれ、崩れた体勢を手で辛うじて支えなければならなかったほどの慌てようだった。


「マズい、マズい、マズい、マズいですねこれは! まさかこの家の当主の存在が認識からそっくり抜け落ちていたなんて! でもこれも、普段から屋敷にいない旦那様が悪いのです! あのハゲ! じゃなかった、あの薄毛ときたらもう!」


 自分の不明を完全に相手の落ち度にすり替えたフィルフィナが、屋敷の廊下を転ぶ寸前のような姿勢で走るその後を、全く冷静なロシュが視線だけで見送った。


「っと、このままではいけません。相手に主導権を握られるのはこのフィルフィナの名折れ! あなたのことを忘れていました、なんて悟られてこちらが不利になるのだけは避けなければ!」


 応接間の扉が近づいてくる。フィルフィナはてのひらに載る程度の小さな容器を取り出してその先端のふたを開け、指の先に赤い粉末を少量付着させ、躊躇ためらわずにそれを両の目尻に塗り込んだ。ツン、と染みる強い刺激が瞬く間に目を痛めた。


「旦那さまぁ!」

「おお」


 応接間、革張りのソファーに座らされていた男がのっそりと立ち上がった。薄汚れてはいるが上等なチュニックと仕立てのいいズボンで最低限の上品さは保っているが、今ひとつ風采ふうさいが上がらない中肉中背の、初老に入ろうとしている薄毛の紳士――。


「フィル、やはりいてくれたか。よかった。お前はいてくれているものと――」

「旦那様!!」


 走る勢いのまま部屋に飛び込んだフィルフィナはその紳士、このフォーチュネット邸の紛れもない当主でありリルルの父である、ログト・ヴィン・フォーチュネット伯爵の膝にすがりついた。


「よくぞ、よくぞお帰りに!! この二週間と少し、フィルは、フィルは旦那様のお帰りを一日千秋いちじつせんしゅうの想いで待ちびておりました! 今日お帰りにならなければ明日、明後日にはきっとご無事な姿を見せてくださるに違いない! ああ、一日も早く、一刻も早くお帰りになってくださらないかと北の空を眺めながら、このフィルがどれだけ悲嘆に暮れていたか! 涙に濡れていたか旦那様はおわかりですか!! あまりにたくさんの涙を流したために、フィルの目は真っ赤に腫れ上がっているのですよ!!」


 フィルフィナはログトの膝に押し当てた顔を離し、きっと上を向いてログトの顔を見上げた。アメジスト色の瞳の周りが薄い血の色に染まり、滝のような涙をもの凄い勢いで汲み出していた。


「フィ、フィル」

「それがこんな今頃になって帰って来られて! 眠りにおちいられたお嬢様のお世話をしながらお屋敷を守り! 心細さに耐えに耐えたわたしの苦労など少しもわかっておられない! 旦那様、フィルは、フィルは旦那様を心からお恨み申し上げます!!」

「すまん、すまんかった。許してくれ、フィル。私にも事情があったのだ。前国王の王都への避難を無視してフォーチュネット領に残り、生き返った直後に王都に走り出したはいいものの、途中で王都から引き上げてくる我が領民と出くわし、放置もできず戻ることになってしまった」


 わあわあと号泣するフィルフィナの肩に手を置き、必死になだめるログトの弁明が始まった。


「せめて手紙のひとつで状況を知らせようとしたのだが、混乱の中ではまだ郵便機能が回復しきっていないのだ。すまんな、今まで連絡ひとつできず、こんな帰宅になってしまった。フィル、私を許してくれ。頼む、お願いだ」

「うううう、うううう、ううううう!!」

「私が悪かった。全て私の責任だ。私は自分の罪もなにもかも反省してここに帰ってきた。お前に罵られるのも覚悟の上だ。つぐないはきっちりとさせてもらう。だから、泣き止んでくれ」

「――旦那様!」


 泣き崩れたまま立ち上がれない――ふりを装っているフィルフィナの背後で、少年の声が響く。


「やはり旦那様! お帰りなさいませ! よくぞご無事でお帰りを!」

「おお、ニコル、いや、ニコル陛下!」


 フィルフィナの体を一瞬抱えて退けたログトが、裏返った声を上げて背を跳ねるように伸ばした。その勢いのまま、開け放たれている扉の側で驚いているニコルの側に駆け寄って膝を折った。


貴方あなた様のお噂はうかがっております! 陛下、ご尊顔そんがんを拝したてまつり――」

「おやめください、旦那様!!」


 ログトの膝が床に着く直前、ニコルの手がログトの方を支えた。


「旦那様には、旦那様だけにはその呼び方はご勘弁願いたく!! 自分は旦那様に命を救っていただいた者です! 早くに夫を亡くし、乳飲み子の自分を抱えて困窮こんきゅうしていた母を、旦那様がお嬢様の乳母にしていただくことで生き長らえました! その後もゴーダム騎士団への騎士見習い入りにお骨折りをしていただいたり、旦那様なくして今の自分はあり得ません!!」


 どちらの立場が上かわからない必死の懇願こんがんをしているニコル、そのニコルの前でなんとか平伏しようとしているログト、二人の力の均衡きんこうを後ろに感じながら、フィルフィナは中和剤としての目薬をさりげなく差した。


「自分はただの小倅こせがれに過ぎません! 後生ですから、昔のようにニコルとお呼びください!」

「そ、それでは、ニコル――」


 立ち上がり、咳払いを五回繰り返して、冷静な表情に顔を戻したログトが少年に相対した。


「よ……よく、我が家にいてくれた。お前も立場上、色々と大変だろうに……」

「僕の苦労など、フォーチュネット領からここまで来られた旦那様にはくらぶべくもありません。道中はさぞ御難儀ごなんぎをされたことでしょう」

「ああ、王都から地方に戻る人の流れで街道はごった返して、それに逆らい王都に進む私なんかは押し返されそうになった。ようやく人の流れも落ち着いて、この数日はどうにかだったが……そ、それで、リルルは、リルルの様子はどうなのだ」

「お嬢様はとても安静にしておられます、旦那様」

「ニコル、もう私の前でも、リルルをそんな風に呼ばんでいいぞ」


 ログトは小さく笑った。


「いつもの通り、私の前であってもリルルと呼んでいい。いや、リルルと呼んでやってくれ。お嬢様、などと他人行儀な呼び方をせずともいい。お前には、十二分にその資格がある……」

「……旦那様」

「ニコル、フィル。私はお前たちに大事な話がある。が、まずはリルルの顔を確認させてくれんか。ここに来るまでの長い道のり、それが第一の心配事だったのだ。頼む……」


 後頭部が見えるくらいに力なくうな垂れたように頭を下げるログトの姿に、ニコルとフィルフィナは一瞬、顔を見合わせてしまった。


「い、今、お部屋を軽く片付けます。二分経ったらおいでになってください」

「わかった」

「フィル、僕も手伝うよ」


 早足で応接間を出たフィルフィナにニコルが歩調を合わせる。


「…………完全に忘れていました、旦那様の存在を……」

「そんなことだろうと思ってたよ。フィルの口から旦那様のことがひとつも出ないんだもの」

「ニ、ニコル様はどうなのです? ニコル様も同罪でいらっしゃるのでしょう?」

「僕は旦那様がいつお帰りになってもいいように、ちゃんと用意をしておいたよ」

「…………」


 ニコルの笑みに、フィルフィナは合わせるように笑った。完全に苦笑いだった。

 二人でリルルの居間に入った。二分待って欲しいというのはニコルと密談をするための口実で、特になにかを片付けるわけでもなかったが。


「フィルは日頃から旦那様を軽んじてるからこうなるんだね」

「そ、そそそ、それは認識違いというものですよ!? 私は、旦那様はお嬢様の大事なお父上と思っています! 本当です! エルフは嘘吐きません!」

「フィルが嘘を吐く時、決まって耳がぴくぴく動くんだ」


 膨らんだ髪型の中からわずかに顔を見せている両耳の先を、フィルフィナは反射的に押さえた。


「あと、右の目と右唇の右端もぴくぴくする」

「隠すのに手が足りません!」

「なにを騒いでいるんだ?」


 反射的に気をつけの姿勢になったフィルフィナが、そのままの格好で拳ひとつ分、宙に跳ねた。


「そろそろ、いいだろうか?」

「ああ、旦那様、どうぞ! 散らかっておりますが!」

「……これは、すごい数のぬいぐるみだな」


 リルルの居間の空間という空間を満たしているぬいぐるみの大軍勢を眺めて、ログトが感嘆のため息を漏らした。


「これは全て手作りか」

「お嬢様を気遣いお見舞いに来てくださった方々にお願いし、作っていただきました。眠り続けるお嬢様が寂しくないように、と」

「旦那様、これを」


 ロシュが持ってきた手提げひも付きの大きな紙袋を、ニコルはログトに差し出した。


「これは……」

「旦那様がお帰りになった時にお渡ししようと、準備してました。ぬいぐるみの材料です――旦那様、旦那様似のぬいぐるみを作って、リルルの元に置いてやってください。リルルも喜びます」

「散々リルルの意を無視し無理な婚約話を持ってきて、お前との仲を結ばせまいとした私だ……」


 ニコルが示すその紙袋を前にして、ログトは逡巡しゅんじゅんしていた。


「お前とリルルが恋し愛し合っているのを知っていて、いや、知っていたからそれを妨害ぼうがいしようとした……。誠実なお前のことだ、婚約話さえ形になってしまえば、お前がリルルに手を出すようなことは絶対にあるまいと。……私はなんという愚かな人間だ……」


 後ろから口パクだけで『そうだそうだ今頃わかったのか』とログトに言葉を浴びせているフィルフィナを、ニコルは横目でしかった。


「こんなことになるのなら、最初からお前とリルルを結婚させておけばよかった……。それならば、なんの問題もなかったのだ……。私があのフォーチュネットの大地に執着したばかりに、妄執もうしゅうを抱いたばかりにこんなことになってしまった……全ては私が悪いのだ……」

「旦那様。旦那様はそう思われていても、リルルは旦那様の行いについて苦いことをいうことはあっても、旦那様自身のことをお悪くいうことはありませんでした」


 ニコルが微笑みかける。


「リルルは、お父上である旦那様を愛していました。旦那様を恨むなどということはつゆほどもなかったでしょう。旦那様ならば、リルルの心はおわかりのはずです」

「そうか……それならば、本当に嬉しいのだが……」

「さあ、リルルの顔をご覧になってください。とても、穏やかで幸せそうな顔で眠っています」

「ああ……そうさせてもらう……」


 ログトはニコルの手から紙袋を受け取った。


「――それで、リルルの寝室の扉が壊れているのは、あれはなんなのだ?」

「それについては色々ありまして」


 説明するのが面倒だという色を表情の奥に隠して、フィルフィナがいった。


「明日にでも修理いたします。取り敢えず、寝室に」

「ああ……お前たちが落ち着いているから怖くはないのだろうが……緊張するな……」


 ログトはぬいぐるみたちの列がその空間を空けて道にしてくれている床を渡り、リルルの寝室に足を運んだ。


「――リルル、私だ。入るぞ。待たせたな、やっと今帰って来たぞ……」


 居間の壁に掛けられていたランプのひとつを外し、暗がりになっていた寝室にフィルフィナが光を投げかける。衝立の裏に回ったログトはその光に支えられるように、一人娘と久しぶりの再会を果たした。

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