「父の帰還(その二)」

 ゴーダム公とニコルは、馬上の人となって再会の喜びに心を温めながら夜の王都に入り、市街を北上していく。それに付随ふずいするように馬で付く副官と徒歩のロシュが追い、エメス夫人やサフィーナを乗せた馬車が後から追った。


「ニコル、フォーチュネット邸は確か、この先を西に折れたところだったな」

「父上?」

「私は今から登城しなければならない。夜更けでもいいからまず謁見えっけんしたいというコナス陛下のおおせだ。私としても一刻も早く、陛下の御存念ごぞんねんを知りたいからな」

「父上、僕も王城までお供します」

「お前がお供しなけれけばならないのは私ではない。リルル嬢だ」


 父の微笑みと一緒に向けられた言葉に、ニコルの顔がぽっと赤く染まった。


「出迎えてくれてありがとう、ニコル。だが、私の護衛は他の者でも務まるが、リルル嬢の側にいることは他の者では務まるまい。お前も忙しい身の上なのだろう。それでも必死に時間を作ってリルル嬢の側にいようとしているのだ。ちゃんと眠っているか?」

「それは……」

「王都への帰還、お前との再会を祝するためのうたげは、ちゃんと準備をしてから開きたい。明日か明後日には大々的に行おう。ニコル、その場では私と一杯交わしてもらうぞ」

「お、お酒の方はどうかご勘弁ください」

「いいや勘弁ならん。酔ったお前の顔を楽しみに帰って来たのだからな。一口は飲んでもらう」

「ニコル、私と公からの贈り物だ」


 副官がニコルの隣に馬を寄せ、大きな紙袋を差し出した。


「これは…………」

「お前が手紙に書いていたものだ。ここに帰還する途中の野営、休んでいる途中でい上げた」

「それは、とてもお手間を取らせてしまって申し訳ありません」

「騎士にとって糸と針は友のようなものだ。破損した装備を応急処置するのに欠かせない。私も昔は先輩のつくろい物をたくさんさせられたものだし、現場においても自分でやってしまう」

「公は面倒くさがりですからな」

「なになにしろと命じるのが心に負担なのでな。なんでも自分でやるのが楽でいい。貧乏性だな」

「とても父上らしいです。ありがとうございます。頂戴いたします」

「ニコル。リルル嬢にはよしなに頼む。……無事に、なにごともなく、早く目覚められることを私は心から祈っている。その時お前は、心から笑うことができるのだから……」

「――父上、お気遣いの方、真に……」

「堅苦しい挨拶あいさつはもういい。お前はお前の役割を果たすのだ。――ニコル、我が誉れの息子。私はお前を愛している。私たちはいつでも、ゴーダムのきずなで結ばれている。それを忘れるのではないぞ、いいな――さあ、行くがいい!」


 バン! と父の大きな手がニコルの背中を打った。その遠慮のない力にニコルは一瞬表情を崩し、豪放な笑みを浮かべている父に向けて再び笑い返した。


「――それでは騎士ニコル、ここで失礼いたします! 道中お気をつけて!」

「息子よ、次に顔を合わせる時を楽しみにしているぞ!」


 馬上で敬礼が交わされ、ニコルに笑いかけていたゴーダム公は前をにらむように向くと、馬の歩調をひとつ上げて速度を増した。敬礼を崩さないニコルに副官も敬礼を向け瞬きウインクし、公の後を追う。大通りの道路をやや歩道側に寄ったニコルの側を、追走する馬車が追い抜いた。


「ニコルや! 暗い夜道、気をつけるのですよ! もしも時間に余裕があるのなら我が家に寄りなさい! どんなに遅くなってもいいですから!」


 馬車の窓を開き、心配顔のエメス夫人が泣きそうな顔で必死に手を伸ばそうとしていた。


「お母様、窓から手を出すなんて危ない! おやめください!」

「だって、ニコルの頬に触れたいんですもの!」

「まったく、もう。ニコル、さっきは騒がしくしてごめんなさい……リルルによろしく……!」


 自分は窓から身を乗り出したい衝動を必死に抑える顔を見せて、サフィーナが小さな窓から顔をのぞかせる。その二人の母子の目尻に光っている涙に、ニコルは敬礼をし続けた。


「わかりました。お母様、サフィーナ様、お気をつけてお帰りください」


 大交差点の歩道に馬を停め、ニコルは走り去る馬車の後尾を見送る。その側に、ずっと徒歩で並走してきたロシュが息も乱さずにぴたりと着いた。


「ロシュたち、疲れてないかい? ここからはゆっくり帰ろう」

「ニコルお兄様、このロシュもこちらのロシュも、大丈夫です。疲労度は少ないです」

「そっか。でも暗い夜道だからね。速度を出すと危ないよ」

「安全はこのロシュが確保します。ご安心ください、ニコルお兄様」

「じゃあ、屋敷に帰るか」


 ニコルは先ほど受け取った紙袋をわずかに掲げた。


「早く父上たちを加えないといけないな。ああ、ダメだ。僕がはやってしまっちゃている――」



   ◇   ◇   ◇



 ゴーダム公とその副官に似せたぬいぐるみが、ニコルの手によって棚に据えられた。目尻を下げて微笑んでいるエメス夫人とすまし顔の副官の間で、軍服姿のゴーダム公がほがらかに笑っていね。


「これでよし、と」


 扉が跳ね飛んで居間との仕切りがなくなった寝室に、隣の部屋からの灯りが差している。その光を頼りの薄暗い仕事にニコルはほっと息を吐き、ほのかな光の中で眠っているリルルに微笑みかけた。


「もう、本当に賑やかになってしまったね、この部屋も……。リルルは寂しくなさそうだ。笑っているものね……」


 天使の笑顔で眠り続けるリルルに十数秒間目を落とし――いつまでもそうしていたくなる欲求を断ち切って、隣の居間に移った。


「お疲れ様です、ニコル様」


 こちらはこちらで三百体以上のぬいぐるみたちが無数の棚に座る居間の真ん中で、フィルフィナとロシュがお茶の用意をしていた。まるで大きな闘技場の真ん中、席を埋め尽くす大観衆に囲まれる巨人たちのようにその姿は見えた。


「ああ。今日はちょっと疲れたよ」


 ソファーに腰を沈め、ニコルは熱い茶が入ったカップを両手に包んだ。外の寒さに晒されてかじかんだ指が、カップの熱で生き返るようだった。


「昼間から千客万来せんきゃくばんらいだものね……フィルも大変だろう」

「気が紛れます。お嬢様は……手間がかかりませんから、寝顔を見ているだけのものですし……」

「そっか。それでも休む時はちゃんと休まないといけないよ。気が張ってるから疲れを感じていないだけかも知れないからね」

「はい、ありがとうございます…………」


 きゅるるるる……と、軟らかいものがきしむ、あの・・独特な音が部屋に響いた。

 ニコルが音の発生源に目を向ける。対面に座っているフィルフィナが、真っ赤な顔で恥じらっていた。


「――すごい音だったね、はは」

「は、恥ずかしい……。よくよく考えれば、お昼からなにも口にしていないですね……」

「空腹も忘れてしまうなんてよっぽどだね。ちゃんと食べないと体を壊してしまうよ。じゃあ、僕がお弁当でも買ってくる」

「もう、結構な夜更けですよ?」

「街の真ん中に行けばなにかしら食べれるものを売ってるよ。夜、仕事で遅くなって帰る人のためのお弁当屋なんかいくらでもあるからね」

「ニコルお兄様、そんなことはこのロシュがします。ニコルお兄様はここでお休みに」

「だめだめ。ロシュはどの店が美味しいかなんてわからないだろう。後でゆっくり教えてあげるよ。それに、フローレシアお嬢さんに夜道歩きはさせられないさ。じゃあ、三十分ほど待っててね」


 玄関は鍵を開け閉めするから――そういってニコルは軽い足取りで居間を出ていった。ややあってロシュが小さくいななく声が聞こえる。


可笑おかしいですね……夜道歩きはさせられない、ですか。ニコル様の冗談なんでしょうか」

「ニコルお兄様は優しい方です。私たちのことを本当に気遣ってくれます」

「そうですね……」


 お茶を一口含み、フィルフィナはカップをテーブルに置いた。ややうつむいたフィルフィナの顔、目元の辺りまでにかかっているかげの気配に、ロシュが目敏めざとく気づく。


「フィル、どうしました?」

「なんかこう、もやもやすることがあるのですが、自分でもよくわからないのです」


 よく磨き上げられた木製の天板に顔を映し、フィルフィナは自問するようにいう。


「なにかを忘れているような……忘れていてはならないような大事なこと、しかしそれが欠けていることに気づけない不安……。大事ななにかが足りないはずなのに、それがわからないのです。ロシュ、わかりませんか? とてつもなく大事なことを絶対に忘れているはずなのです」


 ロシュは首を傾げるだけだった。計算では導き出せない問題だった。


「この二、三日、ずっとそんな気分なのです。なんなんでしょう、いったい。お嬢様の目覚め以外は、全て満ち足りているはずなのに……」


 リン、ゴーン……。


 半ば頭を抱えていたフィルフィナが、壁の時計が鳴らした鐘の音に顔を上げた。玄関の呼び鈴と連動している音だった。


「――お客様? こんな時間に?」


 時計の針は午後八時を軽く超えている。訪問としては失礼でしかない時間帯だった。


「なにか緊急の要件なんでしょうか……」


 フィルフィナが首を捻っている間に鐘はもう一度重く鳴る。玄関はニコルが施錠していったはず――訪問してきたのはニコルではあり得ない。そもそも帰って来るには早過ぎる頃合いだ。


「フィル、ロシュが応対します」

「お願いします。しかしロシュ、ここに置かれているぬいぐるみの贈り主以外なら速やかに追い返してください。知人でも常識外れの来訪ですが、これが訪問販売だったりしたら、今のわたしはこの手で八つ裂きにしてしまいそうです」

「わかりました」


 ロシュが居間を出ていき、応対に向かう。その間フィルフィナは解けない難問にずっと取り組んでいた。欠落している認識をなんとか埋めようとするが、当たり前の中の当たり前のはずのそれが、どうしても見つからない――。


 脳を左右に揺らすきっかけで思い出せないかと懸命に首を捻り続けているうちに数分が経過し、フィルフィナはロシュがなかなか戻って来ないことに気づいて顔を上げた。物音は聞こえてこないが、来客となにかもめ事トラブルでもあったのか――。


「フィル」


 そんなことを考えているうちに、ロシュが戻って来た。


「ああ、ロシュ。遅かったですね。しつこい訪問販売業者だったのですか?」


 ロシュは首を横に振った。


「いいえ。応接間にお通しして、お茶を出しておきました」

「お茶を? お客様は、ぬいぐるみの主の誰かですか?」


 ロシュは再び首を横に振った。


「ロシュ。わたしは確かにいったではないですか。このぬいぐるみの贈り主以外は速やかに追い返せと。何事もそつなくこなすあなたらしくもない。あなたも疲れているのですか?」

「でも」

「『でも』も『だって』もありません。お茶は取り上げてすぐに叩き出してしまいなさい。わたしが許します。お茶だって無料ただじゃないのですから」

「しかし」

「ロシュ、いい加減に――」

「来訪者の方は、自分はこのお屋敷の当主だとおっしゃるものですから」


 フィルフィナの動きが止まった。

 息が止まり、その目が丸くなり、瞳は限りなく小さくしぼんだ。


「お部屋に掲げられているお写真と、人相も一致しました。確かにこのお屋敷の当主、ログト・ヴィン・フォーチュネット伯爵であらせられます――今すぐ、叩き出した方がよろしいでしょうか?」

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