「女神・リルルの願い」

 ただ静かに、穏やかに、微笑みを浮かべてリルルは眠っていた。

 布団に半分隠れたぬいぐるみの首が、少女の首元の高さに並んでいる。金色の髪の男の子はニコル、緑色の髪の女の子はフィルフィナ、栗色の髪の女の子はロシュ、そして――。


「この、金色の髪、金色の瞳の女の子が……」

「やはり、女神エルカリナらしいです」


 宝石の花畑の神殿で眠っていたリルルが抱いて放さず、この寝室においても片時でさえ腕から離そうとしない、金色の女の子のぬいぐるみ――。


「ウィルウィナ様がおっしゃっておられました。五百年前、あの神殿で金色の髪の女の子が眠っているのを見たと。瞳の色は確認できなかったらしいですが……髪型も全く同じだと……」

「ではリルルちゃんは、女神エルカリナを抱いて眠り続けているわけか……」


 眠るリルルを十数える間、コナスはじっと見つめた。乱れのない呼吸がすぅぅ、すぅぅと少し長い刻みを打つように繰り返されている。それを確認し、コナスはその太い体をひるがえした。


「フィルフィナ君、リルルちゃんはやっぱり、あれから……」

「はい、コナス様……」


 コナスの言葉を受けたフィルフィナの瞳に、濃い影が差していた。


「お嬢様は本当に、一度として目を覚まされておりません……」


 リルルから視線を外したコナスも、少し離れたところからリルルを見つめるニコルとロシュも、フィルフィナの口から零れたその力のない言葉に、沈鬱ちんうつな表情を示した。


「ここに運び込まれてから二週間あまり。目覚めることもなく、こうやって眠り続け……」

「その間、一度として食事もしていないのだろう。水分は?」

「欲しがることはありません。吸い飲みを口に寄せると、反射的に飲まれるようですが……」

「リルルお姉様の健康状態は、良好です」


 隅に控えるように立つロシュが断言した。


「体温、呼吸、脈拍、血圧――その他、生命維持に必要な器官は全て正常に動いています。ただ脳波の一部分がごくごく微弱になっているの除けば、健康体そのものです」

「栄養を摂っていないのに、かい?」

「断言はできませんが、呼吸により大気からなにかしらの栄養を補充しているのだと思われます」

「じゃああれか。リルルちゃんはかすみを食べて生きているのか。まいったね、こりゃ」


 コナスは頭をボリボリといた。


「リルルちゃんは女神になってしまったのか……。それで、僕たちが生きているこの世界は……」

「はい」


 ニコルは窓の外に目をやった。冬の冴えた空気を感じさせる視程の遠い晴れた空と、間もなく夕刻を迎えるであろう低く下がった太陽の気配を感じる。そのはかなげにも見える空の青さに目を細め、ニコルはリルルの寝顔に視線を戻した。


 リルルが、楽しげな夢を見ているような笑顔で、眠り続けていた。


「僕たちは、リルルが見る夢の中で生きているのです」


 淡々と呟くニコルに、笑顔はなかった。ただ、リルルを見つめる目に、愛惜あいせきだけがあった。


「夢……この世界は、リルルちゃんが創り直した夢……そうでなければ、死んだ者が生き返りなんてしない、か……」

ウィルウィナは、夢で見たそうです。お嬢様が女神エルカリナに三つの道を示されたことを」


 フィルフィナはリルルが横たわる寝台のシーツ、その端を直しながらいった。


「ひとつは、なにもせずに老衰ろうすいで死んで天の国に至る道。もうひとつは、自分だけの狭い世界を作ってそこでよろこびとたのしみにふける道。最後は、失敗して無限の無の世界に墜ちる危険を冒しても、夢の力で元の世界を再生すること……」


 アメジスト色の瞳が涙にうるんで、熱くにじむ。


「成功しても、この世界を支え続けるために、永遠に眠ることを承知でありながら……。なんて……なんて馬鹿なことをするのでしょう。そんなことをしなくてもよかったのに。自分の幸せを求めればよかったのに……本当……本当に馬鹿なお嬢様……」

「フィル」

「う……うう……」


 ニコルが差し出したハンカチを目に当て、フィルフィナはれる嗚咽おえつを噛み殺した。


「――フィルフィナ君。君も、ニコル君と同じくらいにリルルちゃんを側で愛していた人だ。いちばん苦しいのは君たちだろう。でも、リルルちゃんは君たちを嘆かせるためにその身を犠牲にしたんじゃない」


 その顔から笑みを消し、目をつぶってコナスは額を天井に向けるように、あごを上げた。


「リルルちゃんは、みんなのために、この世界を創り直せる可能性に賭けたんだ」

「――――」


 フィルフィナが喉から零れる声を止め、鉛のように重い感情を抱えるニコルがハンカチを戻す。


「ニコル君、フィルフィナ君。幸せになる道を探りたまえ。人は昨日よりも、少しだけでも幸せになるために生きている。たとえ今日不幸の谷に墜ちても、また明日は這い上がれるように」

「……はい」

「僕にその道を照らしてあげることはできない。これは君たちの問題だからね。リルルちゃんも、君たちに幸せになってほしいと、心から願っているはずだよ」

「僕も生き返る間際に、リルルの声を聞きました。リルルは僕に、僕たちに告げました」


 コナスが移した視線を受け、リルルの広がった髪にほんの指先だけを触れて、ニコルはいった。


「――みんな、幸せになってほしい、と……」


 フィルフィナがうなずく。ロシュがうつむき、コナスが再び目を閉じた。

 無言の時間が流れる中、リルルの寝息はどこまでも繰り返される。

 百五十体のぬいぐるみたちが、迷子のような四人を見守っていた。



   ◇   ◇   ◇



 フィルフィナとロシュが一礼する中、コナスは見送りのニコルを伴って寝室から居間を抜け、廊下に出た。


「そういえばニコル君、その腰のレイピアは」

「これですか。お察しの通り、これはウィルウィナ様からいただいたものですが……」


 ニコルは、剣が納められていないさやに目を向けた。


「様々なものが元通りになりましたが、これは戻って来ませんでした。……何故だかはわかりませんが、この鞘にあった剣が今、どうしているのかはわかります」

「――前国王、ヴィザード一世陛下の胸に刺さったまま、宇宙を飛んでいる……」


 コナスの口から漏れたその言葉には、たまらない哀惜あいせきの響きがあった。


「それが彼が受け入れた結末というわけか……。ニコル君。彼は、僕に取って従兄弟いとこなんだよ」

「はい」

「彼とは割と会っていた。僕の方が年長だから幼少期は弟みたいな存在だった。最後に会ったのはもう数年前だが、昔から優秀な男だった。彼が王位に就いた時は、これでこの国も安泰だと思ったね。……彼の私室、今は僕の私室なわけだが、彼が書き残したものが大量に残っていたよ」


 コナスは廊下の途上で一度、歩みを止めた。だが、その目はまっすぐ先を見ていた。


「我が、ヴェルザラードの霊から女神エルカリナの復活が近いことを告げられたこと、その阻止そしのために研究に研究を重ねたこと、しかし、最後にはそれが不可能となったこと……」

「そして……」

「――阻止が不可能と判明した時の絶望、嘆き、悲痛も記されていた。彼の日記は厳重に保存しておくべきだと僕は判断し、城の最も奥深い場所に封印した。が、いずれ時が経てば開陳かいちんし、衆目にさらすべきだと僕は思っている」

「……コナス様、それは……」

「女神エルカリナの存在は、世界を司る女神の機構システムは、知られるべきだ」


 柔和な笑みなどどこかに消し去ってしまったコナス――ニコルは彼の背を見ていても、自分の使命の重さを真正面から受け止めている男の表情を、見て取ることができた。


「ニコル君、君はどう思う」

「――僕も、それがいいと思います…………」

「女神の封印と監視がこの国の存在意義だった。が、それはもう王家だけでやるべきではないね。民を含めた王国全体が……いや、世界全体が考えるべきだ。僕たちはそれをヴィザードひとりに押しつけてしまった……僕が彼の立場だったら、もっと早く狂っていたよ。自殺していたかもね」

「…………」

「彼が行ったことはゆるされないが、僕は彼を赦したい。彼が罪を受け入れているならば」

「そうですね……」

「争いが巻き起こり、悲しみと嘆きの感情が世界を満たす時、女神の夢は悪夢に変わり、それが故に女神は悲鳴を上げて目覚め、夢は破れて世界は滅びる――今は、それがリルルちゃんに替わってしまったわけだ。ヴィザードはそれに対し、争いが起きる原因の『違い』を無くそうとした」


 コナスが再び歩き出し、ニコルもコナスの足跡をたどるようにその後についた。


「だからあんな極端なことになってしまったわけだ。理屈は間違ってはいないが、やり方は間違っていると僕は思う。――時にニコル君、君は相手が殴りかかって来た時、かわすとしたらどう対処するのかい? ああ、反撃はなしで、の場合だ」

「それはまず第一に、相手との距離を離します」

「背中に壁があって、距離が空けられない時は?」

「その時は…………あっ」

「ふふ」


 立ち止まったコナスが振り返った。顔がくにゃりとゆるんで、人を魅了する笑みを作っていた。


「相手にがっしりと抱きついてしまう、そうだよね」

「はい。――コナス様は、全部の人々が、国も民族も種族もなにもかもが、抱き合ってしまう世界を創ろうと……?」

「君は亜人のフィルフィナ君、魔族のダージェ君と硬く手を取り合えた。リルルちゃんも同じか」

「しかし、それは個人間のことです」

「国は、世界は、個人の集まりが作るんだ。君がそういう関係を成し得たということは、国も、世界も成し得るということだ。それはとても容易なことではない。時間はかかる。僕一代では到底成し得ない。五百年の、千年の時を経てもどうか……。でもね、僕はそれが正しいと思うんだ」

「人間と、亜人と、魔族が共に手を取り合い、創る世界……ですか……」

「ニコル君。まずは君の小さな国を理想郷にしてくれたまえ。アーダディス騎士王国は、人間も、亜人も、魔族でさえも同じ国の民にしてしまう。愛し合う心さえあれば、人と人は家族になれる。君がそんな国を創り、君の精神を継いだ人間がそれを引き継ぐ」


 コナスは再び、きびすを返した。歩き出す。


「人を分けへだてなく愛することができる君なら、きっかけになれる。いいね、ニコル君」

「……僕には荷が重いことですが、やってみる価値はあると思います。もう二度と滅亡は繰り返させてはならない……今度、悪夢に悲鳴を上げて目覚めるのは、リルルですから……」

「頼んだよ、ニコル一世陛下」

「その呼び方はおやめください」

「ははは」


 コナスが玄関の前に立つ。ニコルは大きな扉に駆け寄り、取っ手を握って押し開けた。


「おっ」

「あれ」


 すぐ近くにあった人の気配にニコルが目を丸くし、コナスも足を止めた。一瞬固まったニコルに、その気配の主もまた硬直した様子で目を見開いていた。


「なんだ、馬車が来ているから誰か先客がいると思っていたら、あんたか。よう、デブ陛下」


 開いた扉の向こうに、黒い厚手のコートを着たダージェが驚いた顔を見せて立っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る