「帰ろう、僕らの家に」

 数え切れない宝石の輝きにはさまれた細く長い道を歩きに歩いたニコルたちがたどり着き、見たのは、白銀はくぎん寝台しんだいの上でおだやかに眠る、リルルの姿だった。


「――リ……!」


 静かな寝息を立てるリルルの胸には小さなぬいぐるみが抱かれ、掛布団かけぶとんから首だけを出している。

 きれいな金色の長い髪、きれいな金色のひとみ、白いはだに赤いほおをした、幼い女の子がままごと遊びの相手に使うような人形だった。


「リルル!」


 白い絹の布団にくるまれ、ここがまるで自分の部屋であるかのように一切の無警戒の表情で眠るリルルを見つけた瞬間、ニコルが駆け寄ろうとし――それを反射的にフィルフィナが止めていた。


「フィル、放してくれ!」

「ニコル様、いけません。落ち着いて――落ち着いてください」


 われを忘れかけたニコルを必死にとどめているフィルフィナもまた、同じように我を忘れかけている。ニコルが先に取り乱しそうになったので、逆に落ち着けていられるようなものだった。


「眠っているお嬢様を今ここで刺激して、迂闊うかつに起こすようなことをしてはいけません。いったいどのようなことになるか……わたしの予想の中の、最悪の想定では……」

「最悪の、想定……?」


 声の大きさを落とし、ささやくように告げるフィルフィナの言葉にニコルはあせりの調子をわずかに沈めた。心臓が動き息をして生きているとはわかっていても、こんな場所で昏々こんこんと眠り続けるリルルを起こし、その無事を確かめたかった。


「はい。ここは、女神エルカリナの神殿なのでしょう。女神の姿が見えないのは何故かはまだわかりませんが、お嬢様は、おそらく、多分、きっと――」

「リルル!」


 ニコルとフィルフィナは、ふたりで聞いたその叫びに目をいた。自分たちの後ろをついて歩いていたサフィーナが甲高かんだかい声でさけんだかと思うと、いつの間にかずかずかと寝台のかたわらに立ち、開いた手を小さく振り上げたのだ。


「なにをのんきな顔で寝ているの!! ニコルやフィルも来たのよ! 起きなさい!!」


 べちべちべち! と音が連続してねるような平手打ちがリルルの頬を小気味こきみよく鳴らした。


「やめなさい!!」

「ぐふぅっ!」


 神速の踏み込み、そして完璧な所作しょさり出されたフィルフィナの下段突きがサフィーナの腹に突き刺さる。令嬢に相応ふさわしくない声を上げてサフィーナが体を折り曲げ、一瞬浮き上がってその体は少しの距離を跳んだ。


「フィ、フィル……な、なんて素敵すてきな一撃を見舞みまってくれるの……あなた、正気なの……?」

「それはこちらの台詞セリフですっ!!」


 お腹に手を当てて倒れ、わなわなと震えて立ち上がれないサフィーナに対し、口から炎をき目から電光を発しかねない形相ぎょうそうのフィルフィナが叫んだ。


「あなたは今、自分がなにをしようとしたのかわかっているのですか!! ここは、眠りの中で見る夢で世界を支えている女神エルカリナの神殿! そこでお嬢様が眠っているということは、この世界はお嬢様が夢で支えている、この世界がお嬢様の夢であるかも知れないということなのですよ!!」

「――フィル」

「お嬢様が目覚めてしまえば夢から覚め、覚めてしまった夢は散ってしまう、つまりこの世界がそこで終わってしまう可能性が極めて高いということなのです!! あなたはせっかくみんなが生き返ったこの世界を、ご破算はさんにしようとしたのですよ!!」

「――フィル、それくらいで、やめておいて差し上げて」

「はぁ、はぁ、はぁ…………」


 威嚇いかくする犬のような顔で、まだ吐き出し足りない自分の怒気を必死に治めようとしているフィルフィナの肩を、ニコルは後ろからそっと抱いた。


「――リルルお嬢様の体調は、良好です」


 最後に歩いてきたロシュの冷静な声に、その場の全員が視線を向けた。


「呼吸、血圧、脈拍、体温、代謝……全てが睡眠時の正常値に収まっています。ただ……」

「た……ただ、なに」

「脳と意識が完全に分離されています。……いいえ、正確には、脳の中に意識が存在せず、それでいてつながりはたもっている。生命維持せいめいいじに必要な最低限の機能だけは残し、その他の脳の機能は休眠しているのです。……いくら刺激しげきを与えても、覚醒かくせいさせるのは不可能です」

「ロシュ、よくわからない。もう少し、わかりやすく」

「……わたしは、わかったような気がします」


 ニコルが、自分が肩をつかんでいるフィルフィナを背後から表情をのぞき込むようにする。お腹をまだ押さえながらも、サフィーナが立ち上がってきた。


「――やはり、この世界は……」

「え……?」

「そうなのです。……やはり、そうとしか考えられないのです……」

「フィル、なにがそうなのか……」

「わたしは、わたしたちはやはり、お嬢様のたましいの、意識の中にいるのです……」


 うつむいたフィルフィナがしぼり出すようにつぶやいた言葉に、ニコルが、サフィーナが、反射的に自分の周囲を見渡した。

 星々が散りばめられた空、まばゆく輝く宝石の大地。

 世界はここにかぎられたものではない。この外もまた、世界――。


「この世界そのものがお嬢様の夢であり、魂であり、意識なのです……」

「そんなことがあるの……あり得るのかしら……?」

「サフィーナ。今までわたしたちは、女神エルカリナの夢の中で生きてきたのです。それが、お嬢様の夢に替わっただけです。全ては同じことなのですよ…………」


 そこまで語り終えたフィルフィナが、う、う、うと声をらし、ひとみにじませ、熱い涙をこぼし始めた。


「わ……わたしは、わたしは、やはり……いつでも役立たずです……。こんな、こんな肝心かんじんな時に、お嬢様の側にいてあげられず……お嬢様に、リルルにこんなことをさせてしまって……。リルル……ごめんね……ごめんね……。こんな時にこそ、わたしが代わりにならないといけないのに……リルル……」


 よろけるように、フィルフィナが寝台に近づく。眠り続けるリルルの側に寄り、布団にもたれかかり、涙をたたえてかかえきれないそのアメジスト色の瞳で。愛する少女の顔をのぞき込んだ。


「嫌よ……嫌よ、リルル……。あ、あなたが、このまま永遠に眠り続けるなんて……! リルル、お願い……起きて……目を覚まして……! いつもみたいに、フィルって呼んで……! そうでないと、わたしの生きてる甲斐かいがないじゃない……! お願いよ、リルル……!」

「フィ……フィル……」


 フィルフィナが流す涙にさそわれたように、ニコルもサフィーナも涙腺をかれたように刺激され、その感情の涙をみ出し始めた。


「リ……リルル……。生きていてくれて……。でも、もう君の声が聞けないのか……。せっかくここまで来て、ここまで来て、ようやく全てが終わって、君と一緒になれると思ったのに……これじゃあ、君は死んだようなものじゃないか……僕も、僕も役立たずだ……」


 少年の白い肌を涙が洗っていく。心の震えに熱された涙はどれだけたくさん流れても、少年の魂の戦慄わななきをしずめてはくれない。むしろ、涙が涙を呼んで、ニコルの全てを震わせた。


「僕に力があれば、君を最後まで守り通せたのに、僕は……僕は……なんて無力なんだ……!」

「ニコル、あなたはあなたの限りに力いっぱい戦って、がんばったのよ……自分を責めないで」

「ニコルお兄様、お願いです、泣かないでください……ロシュも泣きたくなってしまいます……」

「う、くく、う…………!」


 リルルの横にひざまづいたニコルの背中にサフィーナが周り、少年の肩を小さく抱く。そんな四人を見守るロシュもまた正視に耐えないというように、その目をせていた。

 すすり泣きの音が響く中、リルルは眠り続ける――どこか、満足げな微笑ほほえみを口元に乗せて。


 少年と少女たちの悔恨かいこんの時間が、どれほど過ぎただろうか。


「――――」


 流すことのできる涙を流しくして、ニコルは最後の涙の粒を払った。

 服のそでで目とほおみがくようにこすり、沈鬱ちんうつの中にも冷静さが見える表情で、顔を上げた。

 リルルの体をおおっていた布団をぎ、横たわっていた少女の体を両腕で抱きかかえる。


「ニコル様!?」

「ニコル、あなたはなにを……」

「リルルを、連れて帰るんだ」


 敢然かんぜん、という言葉を思い起こさせる眼差まなざしを見せて、ニコルはいった。

 そんな少年の腕に支えられ、金色の女の子のぬいぐるみを両手で放さないリルルが、体重の全てを少年にゆだねていた。


「フォーチュネットのお屋敷に連れて帰る。そこが、リルルの、僕たちが帰るべき場所のはずだ」

「……ニコル様……」

「リルルは眠っている。眠り続けていることで夢を見、その夢で世界を支えている。……起きないのだったら、眠るのはどこでもいい理屈だ。そうだろう?」

「ですが、この場所でなければ、不都合が起こる可能性が……」

「大丈夫だと思うよ。……なんの根拠こんきょもない、ただのかんだけどね……」


 うれしそうな――幸せな夢を見ているのか、その頬に、口元に笑みを絶やさない寝顔のリルルをのぞき込んで、ニコルはようやく微笑むことができていた。


「リルルも嫌がっていないよ。きっと、僕たちが連れて帰ることを待っていたんだ。……お屋敷に移すことぐらいで世界が弾けて終わってしまうなら、それはそれまでだよ……。僕は、リルルには自分の部屋の、あの部屋の寝台で眠って欲しいんだ。フィルだって、そうだろう?」

「それは……」

「リルル、一緒に帰ろう。いつもの暮らしに戻ろう」


 サフィーナも、ロシュも、決意を秘めた少年の瞳の輝きに、反論も異論も起こせなかった。もしかして万が一の事態が起き、どのような結果になったとしても、それはあまんじて受け入れられる――そんな、理屈を超えた覚悟を持つことができた。


「君がよみがえらせた王都に、世界に帰ろう。そして、なにもかもを、新しくやり直すんだ。君がつくってくれたこの好機チャンスを無駄にしないために。


 ――リルル、僕の尊敬するリルル。僕の大好きなリルル。


 僕は心から君を、言葉に言葉を重ねても、とても尽くしきれないくらいに……本当に愛しているよ……」


 リルルを抱いたニコルが、きびすを返す。その目をまっすぐ水平に、遠くに向けた。

 そのわずかに濃い水色の瞳には、明日を見つめる勇気の輝きが宿っていた。

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