「選択肢は、みっつ」

「リルル……あのね、あのね、あのね…………」


 もう半分泣きべそ顔になっているエルカリナが、指先をもじもじとさせながら二階テラスのリルルを見上げていた。顔が見えているリルルが反応を示そうとしないのに、涙の色が濃くなる。


「しつこく来ちゃってごめんね。構わないでっていわれたの、忘れたわけじゃないのよ。ただ、謝りたくて来たの」

「…………」


 リルルは、動かない。動かないまま、小さな頬杖を突いて下を見下ろしていた。


「わたし……リルルにいわれたこと考えて、反省したの。すごくすごく考えて、すごくすごく反省したの。ホントよ? ……わたしが間違ってました。ごめんなさい、リルル」


 ぱたん、と音がするかのような角度でエルカリナが腰を曲げ、頭を下げた。背中から腰までを覆う金色の髪が首の間から流れる。


「わたし、人と触れ合ったこと、ほとんどないの。昔はあったかも知れないけど、もうずっとずっと大昔のことで忘れてるのかも。だから、人の気持ちがよくわかんない。……でも、わからないままじゃダメなのよね……」

「…………」

「わたし、友達が欲しいの」


 伏せがちになっていたリルルの目が、開いた。


「友達が欲しかったの。前から。今だって欲しいの。ずっとひとりで、夢を見るだけだったから」


 その語り口は、寂しい歌を歌うようだった。


「わたしが知っている人はもう大勢いるけれど、わたしを知っている人は、本当に少ないの……。リルルがあのお花畑の部屋に来てくれて、本当に嬉しかった。……本当の一握りの一握り、あの部屋にまで来た人は、何人かいた。でも、言葉を交わせた人はリルル一人か、他に一人か……」


 エルカリナがきゅう、と胸に拳を押しつける。心が締め付けられる感触に耐えられないのか。


「だから、わたしも調子に乗っちゃった……ごめんなさい。本当にごめんなさい」


 エルカリナはリルルの言葉を待った。リルルは、沈黙を続けた。


「……怒ってるよね? ううん、いいの。怒って当然だよね。だからわたし、帰る。でも……機嫌を直してくれたら、嬉しいな。あなたに話さないといけないこと、あるから。じゃあ……」

「――エル」


 きびすを返し、体を丸めて歩き出そうとしたエルカリナに、リルルは声を投げた。


「もう、怒ってないから」


 エルカリナが振り向いた。驚いた顔をしていた。


「もう、怒ってない。だからこちらにいらっしゃい。鍵は開いてるわ。お話ししましょう」


 リルルは小さく微笑んだ。

 エルカリナは、見上げる少女の目元の優しい緩みに目をかれ――。


「――――うん!」


 にぱ、と笑って、フォーチュネット邸の玄関に走って飛び込んだ。安楽椅子の肘掛けに肘を突いたままリルルはわずかな時間を待ち、扉の向こうからぱたぱたと足音が近づくを聞いた。


「リルル!」

「わ」


 安楽椅子にエルカリナが飛び込んでくる。小さな女の子の遠慮のない飛び込みに、大きな曲線カーブを描いた椅子の足が限界まで揺れた。


「リルル、ありがとう! 許してくれるの?」

「……私も悪かったわ。興奮して強くいいすぎたし、あなたをっちゃった。ゴメンね、痛かったでしょ」

「ううん、ううん! いいの、リルルを怒らせたわたしがいけないの! わあああ……よかったぁ……! ありがとう、ありがとうリルル!」

「あ、こら」


 エルカリナがリルルの胸に顔を埋め、ぎゅっと抱きつく。その遠慮のなさにリルルは笑ってしまい、同時に、本当に久しぶりに感じる『他人』のあたたかさに触れて、心が染みた。


「リルル。わたし、あなたが好き。わたしの夢から生まれてくれたあなたが好き。だから、あなたに嫌われたくないの。リルル、わたしの友達になってくれる?」

「なにいってるの。もう、とっくの昔に友達でしょう」


 両手で簡単に抱えてしまえる少女を腕の中に抱いて、リルルは目を閉じる。自分がこの少女の夢が作る世界から生まれてきたということは、自分は今、世界を抱いているのか。

 そんな思いを胸にしながら、リルルはエルカリナの髪の匂いを感じながら、腕に力を込めた。


 母を慕うように抱きついてくるエルカリナからは、懐かしいお日様の気配がした。目を閉じれば、もうそれが存在したことも忘れそうな青空と、降り注ぐ柔らかな陽光が思い出された。


「寂しいのは、悲しいよね……。わかるわ……フィルが私より先に死にたい、ひとりで生き残りたくない、といっていた気持ち、本当によくわかる……」

「リルル、ごめんなさい。あなたにこんな寂しい思いをさせて。わたし、ダメな女神ね」

「――いいのよ、エル」


 リルルは、エルカリナの髪に鼻を埋めた。


「少なくとも今は、寂しくはないわ……。あなたがいてくれるもの……」

「うん…………」


 時が停まったも等しい世界で、少女と女の子は、歳が離れた姉と妹のように抱き合う。

 それぞれの想いが落ち着くまで、鼓動はたくさんの回数を重ねればならなかった。


「――エル、あなた、私に話が、話さなければならないことがあるのよね」

「うん……」

「私の、『これから・・・・』についてでしょう?」

「……うん……」


 エルカリナの頭が動く。リルルは髪に当てた鼻を放した。腕の力を緩め、女の子の体を離す。


「――エル、教えて。私はこれから・・・・、どうなるの?」

「それは…………」


 エルカリナが顔を上げた。目元に陰を差させ、悲しげな顔を見せていた。


「それは、リルルの選択によるわ……」



   ◇   ◇   ◇


 エルカリナはリルルの膝から降り、安楽椅子の傍らに立った。


「――リルルには、みっつの選択肢があるの」

「みっつも?」

「ひとつは、今、この王都の時を止めている束縛を解き、時間を進めること。そうすれば……」

「私は自然に歳を取って、自然に死ぬ……。その前に、この王都には私が寿命を全うできるだけの食べ物があるのかしら?」

「城に、物の腐敗を防ぐ結界が張ってある貯蔵庫があるの。一万人が一年食べて飲めるだけの食料がそこで保存されているの」

「一人で全部食べきるのは難しそうね」


 リルルは笑った。


「死んで天の国に行く……か。一人であと何十年を生きるのは、退屈で死にそう……」

「もうひとつは……ああ、怒らないでね。リルルは絶対に選ばないと思うけれど……わたしが作った特別な世界に、リルルを転生させること」

「あれか……」

「辛すぎることを重ねてきたリルルには、辛かったことを全部忘れて、楽しいことだらけで笑っていて欲しい。でも、リルルはそれを選ばないよね……」

「そうね」


 隠していた自分の悪戯いたずらを白状するような子供の顔になっているエルカリナに、リルルは微笑みかけた。


「仮に、私がその自分だけの小さな世界を作ったとしても……」

「リルルがその世界で死んだら、みんななくなるの」


 エルカリナは、リルルが聞きたいことを正確に捉えて答えた。


「その世界はリルルだけの世界。観測者がいなくなったら、全ては失われるの」

「私がその世界でニコルと結ばれて子供を作っても、私が死んだら全ては夢と消えるのね。

 寂しいものね……全てははかないわ……」


 自分の目の端に涙の粒が生まれたのを、リルルは払った。


「じゃあ、それも意味はないわね……。それに私、辛かったこの記憶を忘れたくないの。辛かったことを忘れてしまうのは、みんなのことを忘れてしまうことだから。大好きなみんなのことを、大事なみんなのことを忘れてしまうくらいなら、私はこの辛さを一生抱えて生きるわ」

「リルル……」

「――私が覚えているから、みんなが心の中で生きているのだから。亡くした人を思って辛いのは、私にとって、その人が大切だった証拠なのよ。わかるでしょう?」

「うん……。わたしも、リルルがいなくなったら悲しい……。このままリルルと一緒に、いつまでもふたりでいたい。でもわたしには、もうすぐ眠りの時が来るの。そうしたら……」

「いつまでも起きているわけにはいかないのは、あなたも同じなのね」


 ふぅぅ、とリルルは細く長い息を吐いた。


「仕方ないことは、仕方ないものね……。寂しいことに耐えることを選んだのだから、私は耐えるわ。後悔はしない……自分で選んだ道だもの。後悔さえしなければ、悲しくはないわ」

「…………」

「いいわ、エル。この世界の時を動かしてちょうだい」


 リルルはいった。毅然きぜんとして、いった。


「私、覚悟は決まっているから。死が私のところに来るまで、私は生きるわ。終わってしまうこの世界ではもう、なにも遺せないしなにも伝えられないけれど、なんにでも終わりはあるもの……その最後の見届け人が偶然私だった、それだけなのよ……だからこれでいいの……」

「リルル……」

「エル、ありがとう。本当なら放っておいてもいい私に構ってくれて。感謝するわ」

「……わたしは、したいからしてるだけ。リルルが好きだから。だからそれにお礼はいらないの。むしろ、わたしからリルルにありがとうなの。リルルといっしょにいられて、楽しかったから。寂しくなかったから」

「私のこと、ずっと覚えておいてね」

「忘れるわけないの……」

「ふふ……」


 安楽椅子の背もたれに体重を預け、軽く体を揺らして、リルルは微笑んだ。微かな涙があった。


「これから大変ね……どうやって暇を潰そうかしら。残っている本の全部を読もうかしら、それとも絵でも小説でも書こうかしら……。遺せないにしても、自分でそれを楽しむことは無意味じゃないのだから……あれ?」


 リルルは、気づいた。かたわらで悲しそうに立ち尽くしているエルカリナの姿に、あることを。


「エル。あなた、選択肢はみっつ・・・、といったわね。私、まだ、ふたつ・・・しか聞いていないわ」

「…………」

「……最後の選択肢は? あるんでしょう? みっつめが」

「最後の選択肢……」


 口元に迷いを見せながら、エルカリナは呟いた。視線が揺らいでいた。


「……わたし、これをいいたくなかったの。いってしまえばきっと、リルルは飛びついてしまうから。でも、それは危険なことなの。よくない方向に転がるしかないというのがわかるから、教えたくなかったの。……でも……」

「でも?」

「……わたし、リルルに隠し事、したくない……リルルは友達だから……わたしが大好きな人だから……」


 エルカリナの目の縁から涙が真珠の大きさになって、金色の粒となってそれが頬を転がった。


「あるの。みっつめ。あるの……」

「それは……」

「それはね…………」


 一度、エルカリナがうつむいた。女の子の中で決断を固める少しの時間を経て、再びその顔が、上げられた。


「――死んだみんなを、生き返らせる世界を創ること……」

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