「お寝坊のリルル」

 細く長く、薄暗い通路を延々えんえんと歩むような夢を見ていたような気がする。


「――ぅ、ぁ――」


 リルルは、暗い寝室で目覚めた。

 なんの刺激によるものでもなく、寝るに寝飽きたからといった目覚めの感触だった。

 眠りすぎて頭が働かず、自分が目覚めたという感触もすぐにはなかった。


 眠りの途中で目だけが開いてしまったような感覚が、ずいぶんと長い間続いた。


「今……何時……」


 壁の時計を見ようとしたが暗くて見えず、リルルは億劫おっくうさを抱えながら寝台から降りる。のろのろとカーテンを開けると、相変わらず強い月光のような白い光――太陽の光が室内に差し込んだ。


「あれ…………」


 時計の盤面ばんめんを見て、リルルは思わずまゆをひそめた。秒針が動いていなかったのだ。


「そういえば、寝る前から止まっていたかも知れないわ……。しばらく撥条ゼンマイを全然巻いてなかったから……」


 はあ、と息をいてリルルは肩を落とした。ほんの少し仮眠するつもりだったのに、激闘が体に響いていたのか、心も体も相当の休息を必要としていたようだった。


「なんてお馬鹿なのかしら、私は……。ニコルとフィルの亡骸なきがらをほっぽり出して熟睡じゅくすいするなんて……。二人の体がいたんだらどうするのよ……早く埋葬まいそうしてあげないと……」


 回転のにぶい意識を抱えつつ、リルルは寝室を出、居間からも出た。自分がどれだけの時間を眠ってしまったかはどのみち、眠る前に設定しておいたログトの時計でしか証明できなかった。


「寒くもないし暑くもないけれど、三日間は安置できないでしょうね……せめてめるだけでも早くしないと……お墓を作るのはその後でもいいから……」


 しなければならないことを自分にいい聞かせながら、リルルは覚束おぼつかない足取りで廊下ろうかを歩いた。父の執務室しつむしつに入り、机の上に置いた大きな機関からくり時計をのぞき込んだ。


 時計の秒針は動いていた――五百四十四年、十二月三十一日、二十三時五十九分。


「――えっと……確か、私、これが二月の一日に切り替わるのを確認したのよね……」


 記録を取っておけばよかった、と思いながらリルルは頭を押さえて思い出す。


「ああ……丸一日を寝てしまったんだわ……。半日でも長いくらいだっていうのに、私ったらなんてお寝坊ねぼうさんなの……。でも、まだ一日しかっていないんだわ。庭のどこに二人をめてあげるか考えないと――あれ?」


 頭をかすめた嫌な予感にリルルは、思考を止めた

 。一分間の空白が意識に空いて、ぞくりとする嫌な・・予感に、背骨を百足むかでうような幻覚を覚えた。

 冷やあせがこめかみににじむ。それがほおを伝って落ちるまでの数秒間、リルルは検算けんざんした。


 何度も何度も、何度も検算したが、結果は同じだった。


「――――ちがうううううううううううううう!!」


 悲鳴が出た。出るしかなかった。


「じゅ、じゅ、十一ヶ月も眠っていたっていうわけええええ!? う、ううう、うそでしょ!? こわれてるわ! 絶対この時計は壊れてる!! 壊れてるに決まっているわ!!」


 その混乱したリルルに、冷徹れいてつなトドメが刺された。

 秒針が真上に戻り、年月日の表示が回る――数字の列が、五百四十五年一月一日に変わった。


「壊れてないいいいいいいいいいいいい!!」


 リルルの声が引きつった。ついでに心臓も少し引きつった。


「違う! 違う違う違う!! わ、わわわ、私が眠っていたのは一年間じゃないわ!! ひゃ……ひゃ、ひゃ、ひゃくっ、けほっ、こほっ、こほっ……ひゃ……百年間よオオオオオオ!!」



   ◇   ◇   ◇



 リルルは走った。弾かれるような速度で走った。

 ほとんど引きちぎるような勢いで執務室の扉を開け、体を旋回せんかいさせてとなりにある父の寝室、ニコルの遺体を安置あんちしているとびらのノブを握り――とてつもなく重い躊躇ちゅうちょおそわれた。


 百年間を放置した遺体がどうなっているのか、という予想が頭にぎった瞬間、握っているノブが回らなく――いや、回せなくなっていた。

 ノブがひしゃげるのではないかという力をかけて握っているのに、それを一度の角度にもひねることができない。


「ニ――ニ、ニ、ニコル――!!」


 素手すで重装甲じゅうそうこうの巨人に打ちかかるような覚悟を決めて、リルルはノブを捻り扉をった。蝶番ちょうつがいこわれなかったのが不思議なくらいの荒々あらあらしさで、扉が内側に開いた。

 稲妻いなずまの速度で部屋に踏み込み、片手で目隠しの衝立ついたてを吹き飛ぶほどに払って、寝台しんだいを見た。


「ニ――――――――…………コ……ル……?」


 まばたきを忘れ、見開かれた目でその姿をありありと確認したリルルが――洗面台に張った水が流されていくかのようにその興奮をしぼませていった。

 ニコルが、眠っていた。

 ――リルルがこの寝台に寝かせたのと、なんら変わらない姿で。


「え……あ、え、ええ…………?」


 どく、どく、どくと弾んでね回る心臓を上から押さえ、リルルはしのび足で近寄った。

 死人の色をしていたが、ニコルは少年らしい凜々りりしさと少女めいた愛らしさを同居どうきょさせた、いつもの顔で眠っていた。


 恐る恐る顔を近づけてみたが、腐敗臭ふはいしゅうなどはしない。本当に、綺麗きれいなニコルの顔のままだった。


「ど……ど、どうなってるの?」


 とって返すようにして、物置同然のメイド部屋にリルルは急ぎ、その戸を開けて中に入る。ランプをけるのももどかしく、右手首の黒い腕輪から蛍光石けいこうせきぼうを取り出し、弱い光で寝台の上――横たわっているフィルフィナの顔を薄暗く照らした。


「あ――――――――」


 フィルフィナも同様だった。

 リルルが横たえた時と少しも変わらない顔をして、頭の下にいたまくらから少しも頭を動かさず、エルフのメイドは安らかな死に顔をとどめていた。



   ◇   ◇   ◇



 洗面台の鏡の前に立って、リルルは自分と対峙たいじした。


「いったい……これは……」


 どう見ても十七歳以上には見えない少女のリルルの顔が、冷たい鏡の面にうつっていた。



   ◇   ◇   ◇



 その後に行った『実験』でリルルは、次のことを知った。


 ひとつ、時計はこわれてはいないこと。


 これは眠らずに時計の前に三日間陣取じんどり、時計の表示が正確にきざみを打つことをじっとにらむことで確認した。

 時計の分針も時針もちゃんと時計回りの方向に動いたし、月日の表示板もゆがみなく動いた。


 ふたつ、ニコルとフィルフィナの遺体いたいの様子が変化しないこと。


 三日間を放置してみて、二人の遺体にいたみ出す様子がまるで見られないことを観察かんさつし、腐敗ふはい兆候ちょうこうすらないことを確かめた。

 まるで二人は息と心臓を含めた全ての動きを止めた状態で、生きているようだった。


 みっつ、自分が空腹はおろか、のどかわきすら感じないこと。


 眠りの間に百年間が経過していれば、とっくの昔に自分自身がえて死んでいるはずだ――が、そうはなっていない上、三日間を飲まず食わずでいた自分に、なにかを食べたり飲んだりしたいという欲求がまるでいて来ないことで確かめた。


 三日間の断食だんじきに少しの苦もなく耐えられるのなら、百年を眠り続けるのも可能という理屈か。


 飲まず食わずで通せるのだから、排泄はいせつの欲求も当然、ない。いや、体の代謝たいしゃがそもそも停止しているようにも思えた。この血はどういう栄養を運んでめぐり、この心臓はどういう力によって動いているのか。体温を支えている力はなんなのか、まるでわからない。


 体がよごれた様子もない。じっとしているだけであかは浮き出て体臭を放つものだが、いくら自分の肌をいでも異臭はしなかった。


 呼吸だけは繰り返されていて、そのための酸素は必要なように思えたが、それを止めて実態を確かめる気分にはなれなかった。息をせずに生きていられるという状態がまるで、死にながら生きているようだと思えたからだ。


「……まるで、かすみを食べることで生きられているようだわ……」


 時の経過によっても自分がいもせず、飢餓きがで死ぬ兆候がないことに、リルルは『不老不死ふろうふし』という概念がいねんを思い浮かべた。あとはやまいか事故で死ぬ可能性くらいしか残っていないが、そのふたつを確かめる気力もない。


「……と、いうことは……つまり……」


 七十二時間以上を連続で起きているのに、眠気が来ない。百年も眠っていたからそれも当然かも知れない。生理的な感覚が狂いにくるう中、みょうえた頭でリルルは考え、その結論にいたった。


「……私は、この世界に、たったひとりで、永遠に生き続けるということ…………?」


 自室の寝台にへたり込み、冷たく明るい太陽の光に全身をさらされながら、リルルはつぶやいた。

 絶望的な認識だった。


「……嘘でしょう?」



   ◇   ◇   ◇



 リルルは屋敷を出、ひとり、王都を彷徨さまよった。

 百年が経過しているはずの王都は、王城と屋敷を何度か往復した時と、まるでなにも変わっていなかった。


 その体とたましいを強制的に女神の元にささげられた人々が残した衣服が、まるで死体のように街のあちこちに転がり続けていた・・・・・・・・。百年の時を重ねても、微動だにした気配がなかった。


 風のひとつもそよがないこの世界では、風化というものがありえないのか、時計は進むというのに、時間は停止まっているかのようだ。


 時をふくめた全てのものが死に絶えた街を、リルルは重い気持ちを抱えながら歩いた。足を運んだことのあるなつかしい場所、行こうとすら思ったことのない場所、全てに足跡あしあとを残した。


 それでなにかが動き出す、わずかな期待を込めて歩いた。数日、数十日、数百日をついやして。


 結果は、無駄だった。

 なにかが起きたり、始まったり、終わることはなかった。

 ただ、停止が続くだけだった。リルルの心がけずれていくだけだった。


 やがてリルルは、外を歩くことをやめた。屋敷に戻って自分の寝室にこもり、寝台の上でひざかかえ続けた。


 ニコルとフィルフィナをめることはなかった。どれだけ時間が経過しても二人の様子が変わらないのであれば、それはもう埋葬まいそうしたも同じではないか――そんな、理屈がつながっているのかいないのかわからない思いをいだいて、そのままにした。やがて、様子を確かめることも忘れた。


 あの一度の眠り以来、眠気は訪れなかった。

 窓から差し込む光の角度が変わるだけの部屋の中でリルルは膝を抱え続け、仮面のような無表情に顔を固めて、まばたきすらなくした。息をし、脈を動かすだけの人形となった。


 寝室から、いや、寝台からすら一歩も離れず、一切の摩擦まさつもなく心を空回りさせたまま、リルルはひざを抱え続ける。


 そんな時間が、いったいどれだけ流れたのか。

 全ての感覚が遠退とおのき、自分が生きている意識すら忘却ぼうきゃく彼方かなたに去ろうとしていた――いや、去ってしまっていた、リルルの元に。


 時の動きを告げる音が、鳴り響いた。


 リン、ゴーン…………。


「――――――――えっ?」


 長い長い間、一言の音すら鳴らすことのなかったリルルの喉が空気を震わせ、ほとんど悠久ゆうきゅうの時を超えたかのようなひさしぶりさで、その目に瞬きが打たれた。


 リン、ゴーン…………。


 するどくも重く響く音が、再び鳴る。


「え、え、え、え……ええっ?」


 リルルの心が戸惑とまどった。戸惑うしかなかった。

 当然だろう。

 その呼びがねの音は、玄関げんかん来客・・げる音だったからだ。

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