「おやすみ、みんな。さよなら、リロット」

 階段下の暗くせまいメイド部屋の寝台しんだいに、リルルは物言わぬフィルフィナの体を横たえた。

 かすかに笑みを口元に残して消さない彼女の首元までに、布団ふとんを掛ける。


「お帰り、フィル……。どこに安置あんちしようか考えたけれど、やっぱりフィルはここがいいよね。この部屋が大好きだったものね……」


 メイドの中でも新入りの新入りにあてがわれる、窓もない部屋だ。寝台と物書きづくえと小さな箪笥タンスが入るだけで部屋はもう狭苦しく、陸なのに軍艦ぐんかんの士官室を思わせるほどだ。

 だが、フィルフィナはこの部屋が好きだった。愛してさえもいた。


 この屋敷に最初に訪れた時、ただ手近だからと割り当てられた部屋を偏愛へんあいし、一生この部屋で寝起きし、この部屋で死にたいとまでいっていた――エルフの王女でもある彼女が。


「この部屋で眠っているフィルを見るの、もう、十何年ぶり……」


 リルルはひざき、ランプのあかりに浮かび上がるフィルの白い顔をのぞき込んだ。目をぴったりと閉じ、無言で彼女は眠り続ける。


「いつも私がお寝坊だったものね。毎朝毎朝フィルに起こされて、私が布団にもぐり込んで、怒られて。でももう、そんなこともないのね……」


 フィルフィナの髪をひとつでて、リルルは立ち上がった。


「一日か二日、ここでゆっくり寝てね。――おやすみなさい、フィル」


 リルルは魔鉱石まこうせきのランプにふたをし、開け放していた扉を閉めた。

 わずか数分で燃やすべき酸素を失った魔鉱石は青白い輝きを失い、部屋は真のやみに閉ざされた。



   ◇   ◇   ◇



 ニコルの遺体の安置場所を彼の実家にしようかとリルルは一度は迷ったが、結局はフォーチュネットの屋敷に定めることにした。ニコルの実家は往復で一時間は歩かねばならなかったし、最後にニコルをフォーチュネット当主の寝室で寝かせたくなったからだ。


 伯爵位の身分であるにも関わらず、寝台と布団は快適に眠れて疲れが取れればいい、と割り切っていたログトの意向で、寝室は割合に質素だった。ただ、疲労ひろうを取るための投資はおこたらなかったのは、布団の上質さに現れていた。


 体が適度に沈み込む絶妙なかたさの敷布団と、綿のように柔らかいが体を確かに固定するだけの重さは確保されている掛布団にはさまれて、ニコルが眠っていた。


「――ニコル、あなたがこのフォーチュネットのご当主様よ。一晩か、二晩だけだけど……」


 仕事に忙殺ぼうさつされて滅多めったに帰ってこなかったログトが、滅多に寝なかった寝室。リルルもこの寝室にほとんど足を踏み入れなかったし、誰かがこの寝台で寝ているのを見るのは初めてだった。


「あなたが目指していたのは、フォーチュネット伯爵になることだったものね。でも、地位や権力や財産が欲しかったわけじゃない……私と結婚した結果でしかなかったもの、それは……」


 フィルフィナと同じく、汚れた衣服を着替えさせられ、その体を丁寧ていねいぬぐわれて綺麗きれいになったニコルが、今は永遠の安息の中に身を置いている。

 愛する者を守り抜いたほこりに少年もまた、微笑んでいるように見えた。


「ニコル、お疲れ様。あなたは本当によく戦った……。読んでくれる人がいるなら、私があなたの戦いをつづってのこしたいくらい。でも、もうこの世界には私ひとりだけなのよね……」


 世界は終わる。リルルが息を引き取れば、この世界の観測者かんそくしゃは誰もいなくなる。

 たとえ、燃える地上の上空を王都が永遠にめぐり続けるとしても、それは廃墟はいきょに過ぎない。


「ずっとあなたの……あなたたちの元に寄り添っていてあげたいけれど、私も疲れた……ものすごく疲れたわ……。少し、寝たいの。ニコル、許してね」


 少年の冷たい手をぎゅっと握り、見た目の細さとは意外な硬さをてのひらに残す。


「……あとで、起こしに来るから。ゆっくりおやすみなさい、ニコル……」


 カーテンで閉ざされていない窓からは、太陽の白い光が真夜中の月光のように差し込んでくる。その光に顔を照らされるニコルのほおに手を当て、リルルは身を起こした。



   ◇   ◇   ◇



 熱い風呂に入って髪まで身を清めたリルルは、着慣きなれた青いワンピースドレスに身を包み、ようやく快傑令嬢リロットの姿から自分をいた。


 脱いだリロットの衣装いしょうをマネキン人形に着せる。薄桃色のドレスは血とあせよごれに汚れていたが、この服からニコルとフィルフィナの血を洗って落としてしまうことは、はばかられた。


「――もう、これに、そでを通すこともないんだわ」


 細長い物置部屋でリルルは、顔のない快傑令嬢リロットと対峙たいじしていた。

 たましいが失われた、過去の自分との対峙だった。


「リロット。あなたの姿になって最初に戦ったのは、たったひとりの男の子と、そのお姉さんを助けるためだった。それが、あれよあれよといつの間にか王都の平和を守る使者、なんていう風になっちゃって……。私がお調子者だから、そんなことになったんだわ……」


 赤いメガネをかけても表情のないリロットが、薔薇バラ一輪いちりんの形の帽子ぼうし目深まぶかにし、無言をつらぬいている。

 そんな、かつての自分の姿にリルルは語りかけ続けた。


「今まで、あなたに何度も助けられた。こんな私をあなたが守ってくれた。――あなたは、もう一人の私。私は、もうひとりのあなたよ。あなたには本当に感謝しているわ……。もう、あなたになることはないだろうけれど、ホッとしているのかがっかりなのか、複雑な気分ね……」


 リルルは暗い部屋の中で数歩を進み、物言わぬ分身の、薄く浮かび上がったくちびるに口づけした。


「ありがとう、リロット。そしてさようなら、快傑令嬢リロット。じゃあね……」


 物置部屋を出、リルルはゆっくりと扉を閉めた。

 その扉が閉まりきる瞬間までリルルは、戦いを終えた自分から目を離さなかった。



   ◇   ◇   ◇



 寝台に入る前にもうひとつ、やらなければならないことがあった。問題がひとつあったのだ。


 ニコルとフィルフィナ、ふたりの亡骸なきがらをひとりずつ抱いて屋敷に運び込む、それだけの作業に結構な時間をついやした。片道八カロメルトを二往復、合計三十二カロメルトを歩いた――労力としてはそれほどのものではなかったが、実に八時間はかけたはずだ。


 こまったのは、その八時間――いや、王都が宇宙に上がってからはさらにばいする時間はっていただろうに、空の暗さが全く変わらないので、時間の経過が感覚でわからないことだった。

 時計の針を見ても、昼と夜の区別がないので午前と午後かがわからない。


 これでは眠りに入ることで意識が時間の連続性をなくしてしまえば、時計の短針が四時間進んでいたとしても、もしかしたら一周回りきった後に四時間進んだものなのか、判別がつかない。いったい今は何月の何日なのか、確かめようにも、聞くべき他人・・はいなかった。


 解決方法はあった。それはログトの執務室しつむしつに置かれていた。


「この時計が役に立つ時が来るなんてね」


 フィルフィナに『踏み台にちょうどいいですね』といわしめた、一抱えはある小箱ほどの大きさをした時計だった。短針が十二時間ではなく二十四時間表示で、しかも内部の複雑に複雑を重ねた機構により、回転する数字盤で現在の年月日までも表示するという特殊な時計だった。


『エルカリナ王国の建国四百年を記念して作られたものだ。借金のカタとして私の所に来た』


 ログトは面白くなさそうな口調でリルルにそういった。さほどの価値を見ていなかったのか。


『エルカリナれきの年を四けたで表示できるようになっている。最大九九九九年まできざめるというわけだな。一万年続いた国なんて私は知らんが、まあ、縁起担えんぎかつぎだろう。しかしそのためにこんな馬鹿でかい時計になってしまった。置物としてはまあまあ見栄みばえがするから、置いておくが』


 稼働かどう魔鉱石まこうせきを入れなければならない時計なんて見たことがない、とボヤいていたログトは、結局魔鉱石を入れることはなかった。いそがしさの中で存在を忘れてしまったのか、時計はちょうどいい高さをかせぐための物置台としてもれていた。


 箱の側面に無数のネジがいているのが特に目を引いた。いじろうとしたリルルが一瞬、手を引っ込める複雑さだ。長針と短針以外にも相当回すものがあるようだった。


 父の机に置いた時計に雑巾ぞうきんをかけ、ホコリを丹念たんねんぬぐい、大きなふたを開けて魔鉱石のかたまりをいくつか落とし込む。裏面の説明表示を読みながら、リルルは歯車に連動したネジを回した。


「今年は……四五四年。日時は……あれ?」


 今が何月何日の、何時何分か――それを設定しようとして、リルルは迷った。しばらく暦表カレンダーを見ていなかったことに気が付いて、しばらく考え込んだ。


「……まあ、今が何月の何日でもいいのよ。人間ひとりだけなら、本当は暦表も時計も要らないもの。ただ、時間がどれだけ進んでいるかを確かめたいだけ……」


 思ったよりも重いネジを回し、箱の内部で歯車と円盤えんばんが動く手応てごたえを感じながらリルルは年月日を設定していく。かき氷き器で大きな氷の塊をひとつ掻ききるくらいの労力が必要だった。


「一月三十一日、二十三時五十九分――と」


 設定を終え、主機と駆動部との回路が繋がる切り替え器スイッチを入れる。かち、かち、かちと秒針が動き出す。その確かな刻みにリルルはふう、と息をいた。

 秒針が頂点に差し掛かり、月日を表示する盤面が回転した。二月一日に切り替わる――正常だ。


「これで、よし、と」


 結構な力仕事になってしまったことにリルルはハンカチで汗をぬぐい、時計を机の上に置いたまま父の執務室を出た。

 自室に戻り、寝室に入って寝間着ねまきに着替える。

 窓からは低く光が差し込んできていたが、厚手あつでのカーテンを閉めるとそれは遮断しゃだんできた。


「起きたら、ニコルとフィルの埋葬まいそうを考えて……しなくちゃ……みんなのお葬式そうしきも、しなくちゃならないのね……」


 布団に入った途端に体から全ての緊張きんちょうが抜けて、代わりに一段と重い疲れが押し寄せる。それにあらがえずにリルルはまぶたを閉じ、一分後には寝息を立て始めた。

 ――次の目覚めの時、とんでもないことになることなどは、知るよしもなく。

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