「おかえりなさい、わたし」

 リルルは、その『女神』を目の前にして、立ちくした。呆然ぼうぜんとした。

 女神エルカリナは世界をつかさどる女神。世界の創造そうぞう破壊はかい、再生と滅亡めつぼうを司る女神。


 ――そんな話の、はずだった。


『こ…………こ、この、が…………?』


 どう見ても普通の――年頃としごろでいえば六歳、いいところ七歳の女の子にしか見えなかった。


 背中までびた、細くやわらげな綿毛わたげ。その繊維せんいのような質感の髪の毛が、明るい金の色を放ちながらふわふわとした波を打っている。これも白に近い金色をした子供用のドレスは、幼児のものにしては少し派手な装飾そうしょくだ。

 のぞいている手、きぬ靴下くつしたおおわれている足はぷくっとした、本当に子供らしいものだった。


 その全部を何度も見、確かめて、リルルは開いていた口をようやく動かすことができた。

 世界を創るなどとんでもない――まだおままごとも卒業できないかも知れないような、本当に幼い女の子だ。


「あなたが……女神、エルカリナ様……」

「あー、もう、やめてなの」


 あかほおがぷう、とふくらんだ。怒っているぞ、とその膨らみがいっていた。


「わたし、普通の女の子なの。女神なんてがらじゃないの。ただ、眠っている間に見る夢が世界になって、それが悪夢に変わったら、なにもかも嫌になって目覚めて、その時に世界がこわれるの」


 寝台の端に投げ出した短い脚がぱたぱたぱた、と派手に振られた。


「別に、壊したくて壊してるんじゃないの。みんな、目が覚めたら夢は壊れちゃう。夢って、そんなもの」

「それは…………」

「もうひどい夢だったの。こんなに嫌な思いしたの久しぶりなの。わたしがもうすぐ目覚めるからって、こんな無茶なことして。悪夢を見る時いつも泣くけど、悲鳴を上げて泣きわめいたのは初めてかも知れないの」

「ごめんなさい……」

「別にあなたが謝らなくていいの、リルル」


 にこ、と女神は微笑ほほえんだ。猫の目天気、という言葉をリルルは頭に浮かべた。


「あなたはとても、とても一生懸命いっしょうけんめいにがんばったの。わたし、見ている夢の内容は、自由に見ることができるの。たくさんの視点を持ったりもできるし、どんなところからも見られるの。人がどんどん少なくなっていくから、自然にあなたたち・・を見るようになったの」

たち・・……」


 リルルの胸がきつくうずいた。きない涙が薄くにじんだ。


「ああ、ごめんなさいなの。悲しくなっちゃったの? ごめんね、ごめんね。ほら、泣かない、泣かない」


 あわてて寝台から降りたエルカリナが、大きく腕を上げてリルルの目にハンカチを当てた。


「つらかったの。とてもつらかったの。全部、見ていたの。あなたが心を傷つけられながら、それでもがんばって進んで行くのを。目が覚めてしまってからも見ていたの」


 リルルがしゃくりあげるのが止まったのを確認し、エルカリナは寝台の上にまた腰掛けた。


「わたし、あなたたちを応援していたの。がんばって、がんばって、って。サフィーナ、とても可哀想かわいそうだったの。ロシュ、とても勇敢ゆうかんだったの。フィルフィナは自分の想いにまっすぐで、ニコルは、本当にあなたを愛していたの……もうわたし、本当に感動していたの」

「ええ……ええ……」

「ああ、また泣いちゃった。ごめんね、ごめんね。もうこの話、しない方がいい?」


 また慌てて寝台から降りたエルカリナに涙をかれながら、リルルは首を横に振った。


「あなたをいじめるために呼んだんじゃないの。わたし、他のひととおしゃべりするの、本当に久しぶりなの。前に誰かと話したかどうか、もう忘れちゃったくらいなの。もしかしたら初めてかも知れないの。わたし、もう生まれてから本当に長いから。一億年とか、十億年じゃかないの」

「そんなに……?」

「宇宙が先か、わたしが先か、わからないくらいなの。その宇宙だって、いくつもいくつもあるんだけれど。それこそ星の数くらいに宇宙があるの。知ってた?」


 リルルはまたも首を横に振った。想像が追いつくとは思えない話だった。


「エルカリナ様……」

「あー、様もやめてほしいの。エルちゃんでいいから、エルカちゃん? エルカリちゃん? いや、エルちゃんの響きの方がいいの。ひとに名前を呼ばれるのって。わたし嬉しいの」

「エルちゃん……エル……」

「呼びやすいように呼んでほしいの。名前はあることに意義があるの」


 にこにこ、とエルカリナは笑った。


「ああ、でも、本当に今回はひどかったの。もう世界はめちゃくちゃ。壊れても再生しやすいように色々安全装置を作っていたのに、全部それも2壊れちゃったの。天界も魔界もエルフもそのためにあったのに」


 くつの裏がすべるくらいにみがき上げられていた床が、映像をうつす鏡に変わった。リルルは足元がただれた世界――星になったことにそののどをひく、と鳴らした。


「こんなになっちゃったら、冷めるのにすごく時間がかかりそうなの。しばらくは無理そうなの」

「また……世界を作るのですか……?」

「敬語禁止なの」

「……また、世界を作るの……?」

「うん。わたしはまた眠るの。眠ると夢を見て、世界ができるの。でも、こんな様子じゃ眠ったところで一瞬で悪夢なの。しばらくは起きるの」


 その『しばらく』というのがどれくらいの長さをいうのか、リルルには想像できない。一万年か、百万年か、それとも一億年か。


「眠ったら夢を見、見た夢が世界になるの。なんでこういう仕組みになったのか、わたしが知りたいくらいなの。でも、ひとりはそういう役目が必要だったのかも……。すべてのものには、意味があると思っているの」


 たっ、とエルカリナは寝台から降りた。お昼寝の時間が終わった女の子といった風に。


「リルル、あなたとお話しできて、楽しかったの。わたしはひまつぶしに散歩でもしてくるの。もうここには当分戻らないの。来てくれてありがとう。なにもおみやげを渡せなくて、ごめんなさいなの」

「あっ、あの!」


 背中を見せたエルカリナに、リルルは食い下がった。一縷いちるの、細い望みをいだいて。


「お願い!! あなた、女神と呼ばれるだけの力を持っているんでしょ!? だったら、死んだ人たちを生き返らせることだって!! あなたの力で、死んでしまった人たちをよみがえらせて!! このままじゃみんな可哀想だわ!! お願いよ!!」

「うーん……」


 エルカリナは振り返った。こまっちゃったな、という顔をしていた。


「リルル、ごめんなさい。わたしにはできない仕事なの。わたしにはそこまでの力はないの」

「そんな……どうしても……?」

「わたしには、無理なの。――リルル、あなたの力になんにもなれなくて、本当にごめんなさいなの」


 口元は笑いながら、しかしその目元にさびしさを浮かべて、エルカリナは小首をかしげた。


「じゃあね、リルル」

「待って!!」


 少女の肩をつかもうとしたリルルの手が、むなしく泳いだ。少女の姿が一瞬の残像を置いて消え、そのままなんの気配も見せなくなった。

 あとは豪奢ごうしゃな白銀の寝台と、宝石の薔薇バラ園と、その周囲の宝石の花畑があるだけだった。


「ああ…………」


 その場にひざを着き、リルルは力なくうなれた。無理だろうと思ってはいたが、最後の最後で心にひらめいたわずかな望みも、真夏の氷のようにけてついえた。


「みんな……ごめん、ごめんね……ごめんなさい……。私、本当になんにもできないわ……」


 両肩を冷え切った手が抱いてくるような寒気におそわれ、リルルは震えた。震え上がった。


「私……本当にひとりぼっち……もう、抱きしめてくれる人もいないんだわ……」


 ――心にみんなが住んでいる、とはいっても、この肌の震えを止めてくれる手は、もうない。

 今日の最後の涙をしぼり切るには、相当の時間を必要とした。だがリルルは時間をかけて、き上がり、み出され続ける涙を絞りに絞り、流し続けた。


 悲しみは、涙でしか洗い流せない――そんな言葉を以前に聞いたと思ったが、それが誰がいった言葉であるのか、リルルにはとうとう思い出せなかった。



   ◇   ◇   ◇



 太陽の光が差す夜空という矛盾むじゅんした空間を頭上に仰ぎながら、リルルはひとり、王都を歩いた。

 早くニコルやフィルフィナの遺体いたいを連れて帰ってあげたかったが、帰るべき屋敷がなくなっていれば話にならない。城から屋根が無事なのは確認できたが、全体像を見られたわけではない。だから一度屋敷の様子を見ようと、リルルは死んだ街の中でを進めた。


 熱くはないが、直射してきて拡散ひろがらない太陽の白い光は、街から色をがしてその陰影いんえいを強く際立きわだたせた。

 それがなにを想起そうきさせるか、リルルは人気ひとけが絶えた街をとぼとぼと歩きながら思い当たった――墓場だ。


 王都エルカリナは巨大な墓場だった。

 建ち並ぶ建物の全てが墓標ぼひょうで、人気の一切いっさいはない。光と影でできた墓のれだった。


 それでいて道には、人がいた痕跡こんせきが満ちていた。何万、何十万、何百万という人々が残していった衣服や、武具防具などの装備や持ち物が道にあふれ、それがリルルに否応いやおうなく、この街から人々が去って・・・行ったことを思い起こさせた。


 その中でリルルの心を特に揺さぶったものが、ひとつあった。


「サフィーナ……!」


 紫陽花あじさい色のドレスと青い薔薇バラかたどった帽子ぼうしが、政庁街せいちょうがいはしに落ちていた。快傑令嬢サフィネルの姿が、中の人間だけがなくなった状態で横たわっている――愛用のレイピアまでもが一緒だった。

 サフィーナはここで体を、たましいうばわれたのだ。そう確信してリルルはその場にうずくまった。


「サフィーナ……ここで、私たちを守ろうとがんばってくれたのね……。ありがとう……」


 サフィネルの色のドレスを抱き締め、締め付けられる胸のざわめきにリルルは体のしんから震えて、えた。もう、今日の涙は流しくしていた。


「……よかった。あなたを連れ帰ることができるわ。あなたのお墓も建てなくっちゃならないもの。全くからのお墓は寂しいものね……。ロシュちゃんの左手もめてあげないと……」


 腕の中で、サフィーナの肌の匂いが香った気がした。背中を守り合って戦った相棒の明るい笑顔を思い出し、リルルは体から外れそうになるような心の震動に、体を固くしてじっと耐えた。


   ◇   ◇   ◇



 王城から屋敷まで、八カロメルトの距離。その長さをリルルは三時間をかけてゆっくりと歩いた。途中の大運河にけられた大鉄橋を渡ったが、運河の水はなみなみとたたえられていた。まるで河が切り取られて、両端にふたをされているようだった。


 リルルが歩く王都の中央区域は、ほぼ破壊はかいされていない。侵攻軍が雪崩なだれ込む前に異変いへんは始まったのだ。と、いうことは――。


「あぁ…………」


 サフィーナの遺品いひんを抱きしめたリルルは、ようやくたどり着いた我が家・・・に、熱い息をいた。

 フォーチュネット邸が、リルルの記憶の姿、まったく同じ姿でそこにあってくれた。


「ただいま……」


 もう、涙は流れなかった。代わりに想いが、心が涙のようにこぼれ落ちた。


「ただいま、リルル…………」

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