「第二の変身」

 腕を後ろ手に拘束しているはずの、ただの主婦のはずの女・・・・・・・・・・に凄まじい力で突き飛ばされたコルネリアが、舞台の真ん中までの長い距離を車輪のような勢いで転がった。


「くぅぅ、ううう!?」


 回転の中でコルネリアが舞台を叩いて制動をかけ、飛び起きるようにして身を起こす。それでも突き飛ばされた力は殺しきれず、靴の裏が舞台を激しく磨いてきしみを上げた。


 自分がされたことを半分理解していないコルネリアに目を向け、ソフィアが自分の腕にまった金属の手枷を引きちぎった。ひしゃげた手枷とちぎれた鎖が舞台の上に放り投げられ、鉛の密度を感じさせる金属音を立てる。ゴドッ、という重い音に近くで座っていた市民たちが思わず腰を浮かせた。


「お前は……お前は、ただの女ではないな!?」

「だから、ちゃんといったじゃないですか」


 舞台裏の階段を下りてきたフィルフィナが、驚きの中で立ち上がれなくなっているコルネリアの後ろを取る。引きつった顔を向けたコルネリアに、フィルフィナはニヤリと笑いかけた。


「場所には小細工は仕掛けなかった、と。ですから、小細工は別のものに仕掛けさせていただきました。あなたたちが切り札にしようとしたもの――いや、人に、ですね」

「人……!?」


 反射的にコルネリアが目を向ける――自分がさらわせたソフィアに。

 直立したソフィアが、表情を隠すようにして腕を顔の前に組む。次に腕を旋回させて顔を現した時、そこには、頭部がすげ替えられたような全く別人の少女・・が立っていた。


「な――な、なぁっ!?」


 驚いているコルネリアの視界の中で、着ている衣服を少女が一息でぎ取る。ゆったりとした上着とスカートが視界を覆うように広がって床に落ちた時、そこにいたのはもはや主婦としての印象など欠片かけらも残っていない、軽装の革鎧に身を包んだ少女――ロシュの姿があった。



   ◇   ◇   ◇



 薄く雲が浮かぶ明るい青い空の下、その色を写して同じく透き通るような青に光る海面を、三本マストの中型船が真っ白に艶やかな船体を輝かせて滑るようにして走っていた。

 小さくない波が船の正面から無限に叩く。だが、その船はまるで波風を無視して揺れもしない。


 全く平らではあり得ない海面を、全くの平らのように、その船は斬り裂いてまっすぐ帆走していた。


「――すごいもんだねぇ」

「なんですか、お義母さん?」


 船首が向けられている先は、陸の欠片かけらすら見えないない大海原だ。マストに張られた真っ白い帆がそれぞれに薄い白の輝きをまとい、光の粒子を流すようにして自ら・・風を起こし推進する。

 その甲板の上で固定されたテーブルの上にお茶のカップを載せて、二人の主婦が向かい合っていた。


「あたしゃ船なんてほとんど乗ったことないんだけど、船ってのはもうちょっと揺れるもんだと聞かされていたけれどねぇ」

「いえ、実際はもの凄く揺れるものですよ。あたしも一度だけ外国に行った時に乗りましたけど、もう耐えきれなくて、ひどいことになりましたもの」

「息子と新婚旅行に行った時かい」

「ええ……もう、十八年も昔のことですが」

「帰ってきてから一年も経たずに死んじまうなんて、運のない息子さね」


 ニコルの母のソフィア、祖母のローレルは同じ人物を想いながら、しばしの間口を閉じた。

 テーブルの上に置かれたカップの中のお茶は、その水面を全く動かさない。家でお茶を飲んでいるのと変わらぬ時間だった。


「それにしても昨日のは、びっくりしましたね」

「フィルとロシュが黒ずくめの格好で飛び込んできた、あれかい」


 真っ昼間から玄関の扉をノックもせず、蹴破る勢いで乱暴に訪問してきた二人の異様さを思い出す。


「まったくびっくりさせるもんだよ。あたしゃ包丁を投げつけそうになった」

「あたしたちをさらいに来る奴らが来るから早く逃げろって。その後本当に来ましたね、三人組が」

「あたしそっくりに変わったロシュが連れていかれましたけど、大丈夫なんでしょうか?」

「知らないよ。もうあたしにもなにがなんだかわかんないさ。フィルが大丈夫っていってるから、大丈夫じゃないのかい」

「……ともあれ、これであたしたちも王都に住めなくなりましたね……」

「まったく、あたしゃ本当は逃げたくなんかないんだよ。あたしたちがどんな悪いことをしたっていうんだか。本当に腹が立つもんだ」

「まあ、いいじゃないですか。島でニコルと一緒に暮らせるのは間違いないんですし」

「こんななりで貴族のお祖母様かい。冗談じゃないよ、毎日三百六十五日仮装パーティーでもやれっていうのかい。本当に恥っさらしなもんだよ」

「そうはいいつつ、お義母さんだって本当はそんな悪い気分じゃないんでしょう?」

「うるさいよ。いちいち本当のことをいい当てる嫁は嫌われるんだよ。覚えときな」

「はいはい」


 いいたいことをいい、いいたいことを聞いた二人は同時にそれぞれのカップに手を伸ばした。


「じゃあ、あたしはこれを片付けてきますよ。お義母さんはどうするんです?」

「あたしゃここで風に吹かれてるよ。気持ちいいからね」

「体、冷やさないようにしてくださいね。もう歳なんですから」

「うるさいよ」


 ソフィアは微笑み、テーブルの上のカップを手に取って後部の船室に消えて行った。


「あれ? ローレルひとり?」


 船倉に続く階段を塞ぐ扉が開き、下からひょっこりとクィルクィナが顔を出したのは、そんな時だ。


「ローレルさ、もう歳なんだから、体冷やすのはよくないよ」

「うるさいよ。ソフィアと同じこというんだね、あんたも。子供は黙ってな」

「あたしとローレルって同い年でしょ? 子供扱いしないでほしいなー」

「まあいいよ、そんなこと。それよりクィル、フィルのお母さんの具合はどうなんだい?」

「胸の傷が塞がっていないのに無理して動いたりするから、治る暇がないんだよー」


 目の下に大きなクマを作ったクィルクィナがげんなりとした顔を見せていう。


「命の危険はないだろうけど、じっくり治してくれないと心配だよ。看病するのも大変なんだからぁ」


 昨日の夕方からの出港以来、王都エルカリナから少し離れた沖を『森妖精の王女号』は回遊していた。万一国王からの追っ手が存在したとしても、海上では手出しができないだろう。この広大な海が安全地帯ということだ。


「里においておくことはできないのかい? たくさんの家来に守ってもらえるんだろ」

「里だって今は安全じゃないから。かえって島の方が安心かなと思うんだ。それにあたしたち、サフィーナ様のメイドだしね」


 クィルクィナははあ、と大きな息を吐いて椅子に座り、そのままぱたりと体を倒してあごをテーブルの上に乗せた。


「あんたたち、王女様なのによくやるね。結構真面目に下働きやってるんだろ」

「サフィーナ様のこと、好きだからねー」

「変なエルフの王族のみなさんだ。世の中不思議なもんだよ。あんたら本当は人間嫌いってことになってるのに」

「あたしたちは結構外のこと見てるから。あたしたちの家族の中でいちばん人間嫌いだったの、フィルお姉ちゃんだったんだよ。信じられる?」

「信じられないね」

「リルルお嬢様と出会った途端、人間の街に住み着いても平気なようになっちゃって。それもメイドなんかしてるって聞いた時は、お姉ちゃんは頭がおかしくなったのかと思っちゃった」

「あの脳天気な娘にかかれば人間も、違うか、エルフも変わるもんかも知れないね。――そのリルルたちこそ大丈夫なのかね。今、あの娘たちがいちばん危ないんじゃないのかね」

「そのためにあのロシュがソフィアの身代わりとして捕まってみせたんでしょ? あたしももう疲れた。心配すること山積みだし、それも一向に減らないし。ああ、もう、ゆっくり休みたい」

「しっかりしなよ。甘い紅茶でも飲むんだね。今、淹れてきてやるからさ」

「いいよ、それくらい自分でやるよ? ローレルは座っていてよ。もう歳なんだから」

「あたしをあんまり年寄り扱いしないでほしいもんだね」

「あはは」


 ローレルが立ち上がり、お茶の用意をするために後部の船室へ歩いて行く。テーブルに突っ伏させた顔でその姿を見送りながら、クィルクィナは短くため息を吐いた。

 まるでそれを合図にしたかのように。船が回頭を始めたのはその時だった。


「あれ? あれあれあれ?」


 後部甲板に設置された舵輪だりんが無人で回転している。右に向かって船が急角度で反転を開始し、さすがにそれは船の全体に大きな遠心力をもたらした。


「船が……戻ろうとしている……?」


 船倉の奥、薄暗く輝くランプの下にしつらえられた簡易寝台で眠る母のウィルウィナを押さえつけながらスィルスィナが唸る。


「……そろそろフィル姉様たちが脱出をする頃? 私たちも用意しなければ……」


 船倉に積み込み、縄で固定している荷物が遠心力に負けてズレる。ウィルウィナごと動きそうな寝台をなんとか押しとどめ、スィルスィナは体の平衡バランスが崩れる数十秒間の不快感に耐えた。


「……フィルちゃん……みんな……死なないで……」


 ウィルウィナのか細い呟きが唇の端から漏れる。だが、それは人並み外れた聴力を持つスィルスィナの鼓膜も震わせないほどの、本当に弱々しい声だった。

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