「サフィーナの戦場」

 長く重く深い、泥濘でいねいのように身と心にまとわりつく微睡まどろみの中を延々と漂った末に、サフィーナは、城門のように重いまぶたをこじ開けることができていた。

 目を開けると、知らない色の天井が視界に入った。


「ここ……は……?」


 頭が重い。かなりの時間を眠っていたような気がするが、眠気の塊のようなものが脳にこびりついて離れず、初めて葡萄酒ワインを飲んだ時の二日酔いを思い出した。

 気持ちを奮い立たせ、起き上がる。体にかけられている布団を払いのけるだけでも気力を費やした。


 窓のない部屋だった。天井そのものが薄暗く発光して、ランプの代わりとなっている。寝かされている寝台とベッドは、そこそこいいホテルで使われていると思われるものだ。かけられていた布団も軽くて厚い。家具は恐ろしく少なく、寝台の他には小さなテーブルと二脚の椅子、それだけだ。


 あとは、出入口となっている、小さな窓つきの扉が一枚。これがこの無愛想な部屋の全てだった。


 髪の間に指を潜らせるようにして、片手で頭を抱える。水が欲しい、と思う。喉がカラカラだった。

 自分の名前くらいしか思い出せず一桁の計算も怪しかった思考が鈍く、しかし確実に動き出す。自分がこんな所で寝かされている経緯いきさつが思い出せてくる。


 確か自分は、下水道に巣くっているという魔物が子供達を自分の巣に連れ去っているという事件を聞きつけ、その真偽を確かめに快傑令嬢サフィネルとなって潜入し、そこで――。


「私は襲われて……そう、なにかで撃たれたような気がして……そのまま……」


 自分が着ているものが紫陽花あじさい色のドレスであり、テーブルの上に青いメガネが置かれていることが全てを物語っていた。認識阻害そがいの魔法で素顔を隠してくれる道具が外されているということは、素顔を見られているということだ。事件そのものが、自分を誘い込むための罠だったのだろう。


 両方の手首に違和感がある。右手首にめた、快傑令嬢の道具アイテムを異空間に収める『黒い腕輪』、左手首に装着した、驚異的な力を付与してくれる『銀の腕輪』のそれぞれに、上から不気味な闇の色をした細い鎖が巻き付けられている。


 それがなにであるかを直感して、サフィーナは黒い腕輪から道具を取り出そうと念じた。が、どの道具も出てこない。


「外し方がわからないから、魔法封じの封印をほどこしたのね……よくやってくれるわ……」


 サフィーナは大きく息を吐いて、ようやく完全に理解した。ここは牢獄ろうごくというわけだ。

 どうやら自分の扱いはそれほど悪くないようだ。ここに自分を閉じ込めた人物は、女性に対する扱いをいくらか心得ているらしい――取りあえず、今のところは。


 シャッ、となにかが擦る音が響いた。サフィーナが目を向けると、扉ののぞき窓が開いていた。

 扉越しに立つものと目があった。窓が小さいので顔の全部も見えなかったが、メガネをかけている女性の顔のようにサフィーナには思えた。知っている顔ではない。


 ふぅぅ、と少し長い吐息を肺の奥から漏らし、サフィーナはへその奥に力を溜めてから、いった。


「おはようございます。すみませんが、喉がとても渇いておりますの。水をコップ一杯いただけませんか? ああ、できるなら白湯で。人肌くらいの温度であればありがたいのですが?」


 窓の向こうの目は少しだけ目を細くした。とがめるような目つきだった。


「こんな快適な部屋にお招きくださってありがとうございます。まだ名乗っておりませんでしたよね」


 サフィーナは寝台から下りた。片足を引いて頭を下げ、わずかに震える手でスカートの裾をつまみ、白鳥が翼を広げるようにして紫陽花色の花を咲かせた。


「お初にお目にかかりますわ。わたくし、エヴァンス・ヴィン・ゴーダム公爵が一子、サフィーナ・ヴィン・ゴーダムと申します」

「……自ら正体を明かされるというのですか?」


 サフィーナはその女性の声音、反応に安心した。いくらか常識がある相手だと思えた。


「私を捕らえるために結構な罠を仕掛けていただいていたようで。こんなことができる方は限られていますわ。私の素顔を知った以上、身元を突き止めるのはそんな難しいことではない。私は結構有名人ですから――違いますか?」


 状況を楽しむようなサフィーナの声に、扉の向こうの目の表情が変わる。口元は複雑な笑いのそれに変わっていることは想像にかたくなかった。


「……私は、国王ヴィザード一世陛下にお仕えするコルネリアと申します」

「あら、素直に教えてくださるのですね」


 やはりか、とサフィーナは、容疑者の最有力候補の予想が的中したことに内心で感嘆した。こんな罠を張り、こんな場所に自分を閉じ込め、魔法封じの鎖を用意できる者など限られている。


只今ただいま、国王陛下をお連れしますから。黙っていても同じでしょう」

「話が早くて助かりますわ。こんな形で陛下に謁見えっけんできるなんて本当に名誉なことです」

「…………しばらくお待ちください」


 またもシャッという音が響いて窓が閉まる。カーテシーの姿勢を保っていたサフィーナはふう、と全ての緊張を解くと、寝台に座り込んだ。


 国王ヴィザード一世の顔は遠目から幾度いくども見たことがある。園遊会で大多数のうちの一人ではあるが謁見も果たし、ありきたりの挨拶ではあるが言葉も交わした――向こうが自分の顔を覚えているというのは期待薄だったが。


「対決……というわけね……」


 こんな場を設定しているということは、これから尋問じんもんがあるのだろう。なにを問われるのかもサフィーナには想像がついている。二人いる快傑令嬢の片割れを捕らえて尋ねることがあるとすれば、もう片方の快傑令嬢の正体、快傑令嬢リロットの正体についてであることは容易に想像がついた。


しゃべるわけにはいかないじゃない……」


 たとえ死ぬことになっても口を割るものか、とサフィーナは決意した。


「……いままで、リルルには本当によくしてもらったもの。私にできる恩返しみたいなものだわ。私がいつまでもニコルにつきまとっても、リルルは私のことを嫌わなかった。お邪魔虫でしかない私を大事な友達と思ってくれて、快傑令嬢の相棒にまでしてくれた……」


 騎士見習いとしてゴーダム領を訪れたニコルを一目見た時、サフィーナは一瞬で恋に落ちた。自分の運命が少年の形になって訪れたと本気で信じた。その瞬間からサフィーナの恋は始まっていた。

 だから、ニコルの心に確かな想い人がいると知った時、サフィーナはその相手を心から憎んだ。


 だが、ニコルがその少女を真摯しんしに愛していることを知ると、邪魔をしようなどという気持ちには到底なれなかった。王都に帰るためにゴーダム領を離れるニコルに、自分を忘れさせないためのささやかな呪いをかけることが精一杯だった。


 ニコルが領地を去った晩、一夜を泣いて明かすことになると強がったが、実際は七日七夜なのかななや以上を泣いて過ごした。王都に着いたニコルが速達で寄越してくれた一通目の手紙を受け取るまで、本当に涙が止まらなかった。


 見慣れた丁寧ていねいな字でつづられた真摯しんしな文面を読んだ瞬間、サフィーナは自分の背に翼が生えて足が浮き上がったと本気で思った。それくらい嬉しかったのだ。「またお目にかかりたい」という文面が儀礼的なものだとわかっていても、サフィーナはその日を夢見て過ごした。


 数ヶ月経って、父が王都に移らなければならなくなった時、サフィーナは一も二もなく同行を決断した。ニコルが住む王都で暮らせる、その事実だけで体重の全部がなくなるくらいに身も心も軽くなった。少し足で跳ねるだけで飛んでいけそうな気がしたくらいだ。


 同時に、実物のリルルと会うであろうことが怖かった。ニコルが顔も教えてくれなかった少女が実際にどんな人物であるか、想像すればするだけ不安と恐れが増した。顔を合わせたらどんな言葉をかければいいのかわからなかった。


 いまだにニコルに未練を持っている自分の存在を知ったら、どんな顔をするのだろうか。きっと嫌うに違いない。自分がその立場に立ってみたら想像がつく。自分なら、平手打ちビンタの二、三発でも食らわせて追い払おうとするだろう。


 それでも、会ってみたいという興味がそれを乗り越えた。勇気を振り絞って、その年に成人になった貴族の子弟が一同に集う園遊会の席で、ありったけの勇気を振り絞って挨拶あいさつをした。


 現実に会ってみたリルルは、天使だった。

 完全なハッタリで「元婚約者」とか名乗ってみた時は腰を抜かしていたようだったが、言葉を交わしてみて、こんな少女からニコルを奪えるわけがないと確信した。


 そんな少女が、実はもう一つの顔を持っていた――夜の王都を飛び回って悪を討つ、正義の美少女剣士・快傑令嬢リロットだというのだ!


 噂で聞いて憧れていた、架空の物語の主人公のような存在。その正体が彼女で、それを自ら進んで明かしてくれた時、サフィーナはこの少女にも恋をした。自分が男なら、無理にでも掻き抱いてその純潔を奪ってしまいたいと思えるほどの熱烈な想いに胸を焦がされた。


 それでもすごいことなのに、挙げ句の果てには自分を快傑令嬢の相棒、快傑令嬢サフィネルとして認めてくれるなんて!


「――楽しいことしかなかった。たった数ヶ月だけど、本当に楽しい数ヶ月だった。田舎で退屈な公爵令嬢としてただ歳を取っていくだけと思っていた私に、リルルとニコルは喜びをたくさんくれたもの。もう、幸せで幸せで、頭がおかしくなりそうなくらいに幸せだった……」


 毎日つける日記は嬉しさに満ちていた。まるで冒険の物語をつづっているかのようだった。一日の記録として書いていることが、本当に現実のことかと思えるくらいにそれは不思議に満ちていて、変化に富んで、全てがきらめいていた。一ページ一頁が輝いていた。


「あの日記、お母様が見つけてくれるわね。読んだらさぞびっくりされるでしょう。本当のことなのかと目を丸くされるに違いないわ……でもお母様、全部現実のことなのよ。私は世界一素敵な男の子に恋をして、世界一素敵な女の子の友達になって、世界一素敵なエルフのメイドさんたちに囲まれたの。悔いなんてありっこない。これからどんな仕打ちを受けたって、たとえ陵辱の限りを尽くされたって、十分お釣りが出るくらいなのよ。――だから、私はなにも怖くない。なにがあったって、笑って死ぬわ。私は本当に幸せだったのよ……」


 きゅう、と心がしぼむような痛み、不安が胸の内で冷える感触をサフィーナは飲み込んだ。胃の中でそんなものは消化してしまい、なかったことにする。


「リルル、ニコル、フィル……クィルにスィル。私は戦うわ。あなたたちに失望されないよう、立派に戦って見せる。私はゴーダムの一人娘だもの。名誉とあなたたちの友情に懸けて、戦い抜いて見せる。……だから、私のことを忘れないでね。おかしな公爵令嬢もいたものだと覚えていて……」


 扉の向こうにこつ、こつ、こつと響く足音が近づいてくる。サフィーナはわずかに浮かんだ涙を手で払い、テーブルの席に着いた。

 そこが自分の戦場だった。

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