「口づけは血の味が滲んで、熱い」

 片腕でニコルの体を抱き、片手で白い魔法の傘を開いて空を飛んだリルルは、二本の川を越え、森に頭を飾られた小高い丘を見つけて、周囲に人気が少しもないのを確かめて一気に降下した。


「ニコルを休ませるには……この辺でいいかな……」


 空からその気配は見えなかったが、万が一にも魔族の逆襲は受けたくはなかった。場所は厳重に選ぶ必要があった。


 ゆるやかな風が木々の葉を静かに揺らしている。その風の一部のように、リルルはゆっくり、ゆっくりと下りて行く。足の裏に衝撃を感じることもない緩やかさでやわらかい土の上に降り立ち、張った根が隆起していない平坦な場所を見つけ、気を失っていする少年の体を横たえた。


 細い脈と呼吸ではあるが、ニコルの心臓も肺も動いていた。体力と気力を使い果たしたのか、その意識が回復するのは遠そうだ。だが、少年の芯に内包されている力は、確実に少年の命を繋いでいた。


「……み……」

「え?」


 ニコルの乾ききった唇が震える。ほとんど声になっていない音が、いっぱいに耳を寄せたリルルの鼓膜をほんのわずかに震わせた。


「み……ず…………」

「みず……水ね! すぐに!」


 リルルは黒い腕輪から水筒を取り出した。フィルフィナから譲られた頑丈な軍用の水筒だ。細い鎖に繋がれたふた兼用のコップを急いで外し、水筒を逆さにして中身を注ごうとする。

 コップには一滴も落ちては来なかった。


「ちょ、ちょっと待ってて!」


 昨日の野営で全部を飲み尽くしていたことも忘れていたことにリルルは顔を赤くし、小川か泉がないか、周囲の気配を探った。運のいいことに、鼻の先に湿った気配を探り当てられ、少し体を傾けると遠くに水が流れる音が聞こえてきた。


 考えるよりも先に体が動く。百歩も行かないうちに木々の間がわずかに広くなっている空間に出た。湧き水が作る小さな泉が、底が見通せるほどに透明な水をたたえているのがリルルを歓喜させた。


「水!」


 しゃがみ込んだリルルは手袋を外し、両手にそれをすくう。口につけてわずかに吸い込むと、それは舌に甘ささえ感じた。リルル自身かわいていた身と心に、甘露かんろさと冷たさが染みこむ。まさに恵みの水だと信じられた。


 水筒を沈めて満杯にし、スカートを膨らませて引き返す。横たわったまま動いていないニコルの側に膝を折り、コップに水を注いでそれを少年の口につけよう――として、手が止まった。意識がない人間の口に水を注いでも飲んでくれる保証はなく、最悪、喉を詰まらせて窒息することもあり得る。


 リルルは少し考えてから、頬を赤らめた。


「……ん」


 コップの水をほんの少し、舌の先の先に載せるような気持ちで小さく吸う。微かに開いているニコルの唇に唇を合わせ、含んだわずかな水をゆっくりと時間をかけて、水滴を落とすように流した。

 ニコルの喉が大きく動いた。喉の奥に受けた少しの水を、反射的に飲み込んでいるようだった。


 少年の唇がやや大きく開く。欲しい、といっているようにリルルは感じた。


「……ごめんね」


 なにに謝っているのか自分でもわからなくなりながら、顔の全部をドレスと同じ色にしたリルルが二口目を唇の間から注いだ。水の一口分を十回に分けて口移しするたどたどしさで、リルルはニコルにうるおいを与えていく。


 自分がキスをしたいだけだから、その言い訳のためにこんな悠長ゆうちょうなことをやっているのか。そんな罪悪感にえりを引っ張られる居心地の悪さを覚えながら、これもニコルが欲しがっているからなんだから、とおためごかしを唱えながらリルルは、後で思い出すと顔が焼けるような行為を続けた。



   ◇   ◇   ◇



 静かな時間が過ぎていた。

 木々が生い茂らせる枝葉が作る穏やかな木漏れ日を浴びながら、リルルは横たわるニコルの側で膝を抱えていた。


 既に甲冑かっちゅうは脱がせ、血に塗れていた顔はきれいに拭っている。鎧を脱がせると、腕や脚の関節にいくつもの傷を受けていることにリルルはいちいち驚いた。浅い傷のために出血は治まっているが、頬に受けている薄い傷も含め、どれだけの刃の嵐をかいくぐってきたのだろうかと想像させた。


 その傷の全てに軟膏なんこうを擦り込んでいる。フィルフィナがくれたエルフの軟膏は、深い傷でも痕も残さず治してくれるはずだったが――。

 風が流れる音と遠くに聞こえるせせらぎ、小さな鳥の声以外になにも聞こえて来ない。


 丸めた毛布を枕にし、もう一枚の毛布を体にかけられてニコルは昏々こんこんと眠り続ける。

 少年が自然に目覚めるまで、起こさないでおこう――そう決めて少年を側で見守り続けるリルルが曲げた膝を抱えたままうとうととし始めたころ、ニコルの目が、うっすらと開いた。


「――リルル……?」

「あ……ニコル……!」


 飛びつこう、としてリルルははやる気持ちを抑えて自分を押しとどめた。


「ここは……僕は……?」

「あなたが襲われていた所から、少し離れた場所よ。ここなら大丈夫。川も何本か越えているし、少し高い丘の上だし……そもそも追ってこられるような状態じゃなかったと思う。……追ってこられないよう、酷いことをしてしまったわ。骨を砕くほどにムチで打って……治るのに何ヶ月かかるか……」

「……襲われていた?」


 リルルの目が揺れた。ニコルの眼をのぞき込むと、その瞳が微かに拡がっているように見えた。


「僕は……どうして、ここに……。リルル、その君の格好は……」

「……ニコル、大丈夫、あなた、記憶が」

「僕は確か、父上に追いつこうとして、ロシュと馬を走らせていて……」


 自分の体験を他人事のようにぼんやりと呟いていたニコルの瞳が、きゅっと絞られた。


「っ!」


 一瞬で顔を強ばらせ目をいた少年が毛布をはね除けるようにして起き上がった。リルルが目を見張る中、つんのめるようにして走り、二十歩ほど先でほとんど倒れる勢いで膝を着いて屈み込む。


「ニコル!?」

「来ないで!」


 後ろも振り返らずに制止したニコルの意図が、次には、リルルにはわかった。

 次にはニコルが胃と食道、そして喉をいっぱいにきしませて、体内から逆流するものを木の根元に吐き出していた。



   ◇   ◇   ◇



 ニコルの嘔吐おうとは激しかったが、困難はそれほどなかった。胃の中に固形物がほとんど入っていなかったからだ。


「……戦闘があるとわかっている時は、前日から食事はなるべく摂らないように備えろ、というのが父上の教えだった。胃に物が入っているところに深い傷を負うと、死ぬ確率が格段に高くなるからって。だから昨日の夜も最低限に控え、朝もなにも食べてなかった。空腹の方が力が出るし……」


 吐き出す物を吐き出し終え、木を背にして座り込んだニコルはリルルが沸かした白湯を口に含んでいた。顔は青ざめているが、意識ははっきりとしている。記憶の混乱もない。


「……すごい戦いだった。七百騎が静かに森を抜けて、敵が油断しきっている根拠地に雪崩れ込んだんだ。津波が街を押し流しているようだった。父上は、本当に先頭にいた。背中しか見せないくらい、本当に先頭の先頭だ。あんなことができる公爵なんて、父上だけだ。本当にすごい騎士だ……」


 ゆっくり、指折り数えるように、呟くようにニコルはたどたどしく言葉を繋げる。それをリルルは黙って聞いていた。


「僕も続いた。父上に負けないように、立派に戦おうと馬を駆った。……目の前に現れた敵を、槍で刺した。刺しまくった。なんであんなに酷いことができたんだろう。逃げようとした背中にも槍を突き立てた。僕より若い、本当に子供のような顔もあった。そんな子の胸も僕は槍を刺したんだ……」


 仕方がなかった、とは、ニコルは一度としていわなかった。その言葉が自分の罪を積み増すことになるというように、決して口にはしなかった。リルルは泣きたくなる思いをぐっと我慢して、うなずくことで先をうながした。


 次の言葉が出てくるには、数分の時間が必要だった。


「……僕だけ、生き残った……」


 薄々はわかっていたことをはっきりと言葉にされて、リルルはコップを抱える手を震わせた。


「父上も、先輩たちも、みんな……みんな死んだ。ゴーダム騎士団の七百騎が、あの精鋭の素晴らしい騎士団が、たった一回の攻撃で全滅した。生き残ったのは、本当に、本当に僕一人だけだ。誰も逃げなかった。力尽きるまでみんな、立派に、立派に戦ったんだ……」


 リルルは涙を浮かべながらうなずく。それ以外にできることもない。自分が頭の中で描ける想像は、現実に起きたことには遠く及ばないだろう。


「僕は傷ついた父上を連れて脱出しようとしたけど、かなわなかった。父上は僕をかばって傷ついたのに、僕はその父上に助けられて、逃げ出せた。父上がその命で僕を逃がしてくれた……僕だけが逃げた。僕だけが、僕だけが……」

「ニコル!」


 自分を責め始めたその流れを断ち切るように、リルルは声を上げた。


「ニコル、私にだってわかる。みんなあなたを生かしたくて、そうしてくれたのよ。あなたはみんなの願いをかなえたの。あなたに一緒に死んでほしいなんて、誰も思ってなかったのよ。あなたはお父様も、先輩方も裏切らなかった、裏切らなかったのよ!」

「でも、僕は……!」

「あなたの中には、みんなの願いが生きている! みんなの希望が生きている! あなたが死んだら、本当にみんなが死んでしまうことになることくらい、あなたにわからないはずがないでしょう! それに、ニコル!」


 リルルはニコルの体を掻き抱いた。服に染み付いた血と汗の臭いが鼻腔を打つ。それでもその下に、いつもの少年の匂いがあった。リルルが愛してやまない温もりがあった。


「……私が、私があなたに生きていてほしい! あなたのお父上にも、あなたの先輩方にも私は本当に感謝しているわ! 私のニコルを生かしてくれて、この腕の中に帰してくれて! みなさん……みなさん、本当にいい方だったのよね、素晴らしい方たちだったのよね……!」


 少年の首筋に少女が顔を押しつけ、熱く溢れる涙の流れを押しつけた。寂しさに冷たく縮こまっていた少年の心も、少女の震える想いの熱さに温められ、潤い始める。

 冷たい夜が過ぎ、光が満ちていく夜明けを心の中に想い描きながら、ニコルは瞳を震わせた。


 少女が口移しで飲ませてくれた分と同じだけの涙が、悲しみに震える頬に零れ始める。同時に、自分のために道を拓いて命を投げ出してくれた数々の命への感謝に、涙腺の全てがそのせきを切った。溢れ出すものはもう、なにものにも止められなくなっていた。


「ああ……そうだよ……みんな、みんな、立派で、勇気があって、優しくて……! 僕はそんな、立派な人たちばかりの騎士団の一員だった、いや、一員なんだ。僕がいれば、ゴーダム騎士団は続くんだ。僕が、僕が生きてさえいれば……!!」

「ニコル、お帰りなさい、本当にお帰りなさい……!」

「リルル……リルル、リルル、リルル!!」


 どちらがともなく、二人は一瞬だけ、ほんの一瞬だけ視線を交わすと、互いの命を吸い合うように唇を合わせ、むさぼるように互いの感触をまさぐり合った。

 今まで何度か交わしたキスの中で、それは間違いなくいちばん乱暴で、熱い口づけだった。

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