「女魔王がドレスを払う」

「武器を取れ! さあ!」

「さっさと余に斬りかかればよいものを。潔癖なのだな」


 モーファレットは微笑んだ。敵といえども、身分の高い者に対しては相応の礼儀を取らなければならないという少年の生真面目さが垣間見えて、それがあざけりのない笑いを浮かべさせた。


「ニコル、とかいったな。雑兵ぞうひょうの割りにはなかなか見所がありそうだ」

「僕は雑兵じゃない!」

「それに見目もいい。どうだ、余に飼われる気はないか。今ここで降伏すれば、人間どもを滅ぼした後でもお前を生かしておいてやる」

「…………」


 ニコルの片頬がひくついた。また自分の女顔をいわれるのか、と内心の傷付きをなんとか覆い隠す。


「人間の生は短い。若さもな。だが、短いだけに儚く、その儚さが美しい。余の慰み者になれば、その美しさが保てる限りは可愛がってやろう。どうだ、悪くない話だろう」

「武器を取れ!!」


 抑えきれない怒りが炎を巻いた。


「問答の時間はない! ……丸腰の女性を斬るのは僕の主義に反するが、事情が事情なんだ! 斬らせてもらうぞ!」

「やれやれ、もったいないことだ」


 いくらかの寂しさを漂わせたモーファレットが、マントを脱ぐような鮮やかさでドレスを脱いだ。


「なにをしている!?」


 その行為にニコルが目を見張る。絹に似た白い下着、胸と腰の豊かな肉付きが官能的な雰囲気をこれでもかと発散している姿。それが恥ずかしげもなく堂々とこちらを向いていることにニコルの頬が、血に汚れた下からでも赤くなった。


「これから戦うのだろう、その準備だ」

「だから、なんで服を――!」

「魔界は物資が窮乏きゅうぼうしていてな。こんなドレスでも破いて無駄にしては民にしかられる。心配するな、お前をこの場で取って食おうというのではない――いや、本来の意味で取って食ってしまうかも知れないがな!」


 ザウッ、と音を立ててニコルの体に予感が走った。自分が危険なものに対している、という本能からの訴えが全身の神経を駆け抜けた。

 

「ぃ――――!!」


 それが起こるよりも一瞬だけ早く、ニコルが天幕テントから離れようと肩を翻す。その天幕がニコルの数歩後ろで破裂するように吹き飛び、爆圧に似た衝撃に背中を叩かれニコルは地面に叩きつけられた。


「なんだ!?」

「う――うわぁ――!!」


 槍を振るいながら馬を駆けさせていた騎士たちが、山が地面からり出すようにして立ち上ってきた影を目撃して反射的に馬を停めさせた。中には視界の真正面に現れたそれを見て驚いた馬が前脚を振り上げて急停止し、その勢いで落馬する騎士さえいた。


「く、くぅ――――!!」


 地面から、建物が生えてくる。恐怖が覚えさせた感触はそれだった。自分が感じた脅威を言葉に直すとすると、ニコルにはそんな表現しか思いつかなかった。


「あれは!?」


 ようやくいくらか組織的な抵抗を示してきた魔界の兵士たち、数人をひとりで相手取りそれを蹴散らしていたゴーダム公が、一瞬だけ心の全部を奪われてその光景を――その巨躯きょくに炎をまとってそびえ立つように起き上がる真っ赤な影を目撃していた。


 小城をひとつ丸ごと包み込むほどの炎が噴き上がり、空気が焼けるほどに熱せられ、ここが真冬の屋外であるということをその場の全員が忘れた。

 それほどの時間を置かずその炎は風に払われ、消える。が、炎にまとわれていたものは消えない。


 急な角度であごを上げたニコルが、自分に巨大な影を投げかけてくる巨体を、震える目で見上げ、見つめる。蛇ににらまれたカエル――いや、目の前にいるのは蛇ではない。

 ドラゴンだ!


「ふ、ふふふ、ふふふふ――!!」


 神殿の巨大な屋根を支えるような太い脚がニコルの二十歩先に、地面をめり込ませるようにして踏みしめていた。赤く輝く鉄板のようなうろこが脚の全部を覆い、小さな小屋一軒なら一歩だけで全てを潰せるほどに広い足が鋭い爪を生やしてその先端を光らせている。


 二本の脚の上には、それに見合う巨大な赤い竜の胴体、赤い竜の腕、赤い竜の頭部――人間の背丈の十倍、いや、それを優に超える大きさの竜がやや前傾させる姿勢で立ち、それだけはどこか人の意志がうかがえる真っ赤な目がニコルを見下ろしている。


 炎の色に輝く、巨竜だった。

 その正体がなんであるかは、もう推測の必要もないだろう。いや、これが正体というべきなのか。


「うぐ……く……あ……」


 倒れたニコルが後ずさろうにも、見下ろしてくる目とまともに目が合って、心がすくんだ。金縛りにあったように体が動かない。鎧の下に着込んだ綿の下着に染みた汗が一気に冷え、凍えが走った。


「余のものにならないのなら、潰すまでだ。せめて苦しまないよう、跡形もなくしてやろう。余もみにくいものを見るのは嫌なのでな――」


 炎竜の足が、ゆっくりと上がった。軽く上げたに過ぎないだろう足が、ニコルにとっては視界の全てを覆う屋根のようにしか見えなかった。

 ニコルが腰のレイピアの鞘に手を触れたのと、足が降下に転じたのとは同じだった。


「ニコル――!!」


 ゴーダム公の絶叫と同時に、炎竜が上げた足が地面に叩きつけられた。凄まじい量の砂煙が立ち上がると同時に周辺の小屋が浮き上がるほどの強烈な縦揺れが起こり、立っていた兵士や走っていた馬の大部分が転倒する。伸ばした腕の先も見えないような濃密な砂埃すなぼこりに全員の視界が死んだ。


「ニ……ニコル、ニコル!!」


 砂嵐の中で今まで槍を合わせていた相手さえも見失ったゴーダム公が名を呼ぶが、返事はない。炎竜が大地を踏む瞬間の光景が目に焼き付いていた。確かにニコルは、あの足が下りてくるところに座っていたはずだ――。


「……うん?」


 上空から吹き付けてきた風が、砂の細かい粒子を打ち払う。一気に視界が回復した中、一歩を踏みしめた炎竜が人間の仕草のように首を傾げた。


「手応えが……いや、足応えというべきか……なかったな……?」


 喉の奥から、炎竜の猛々たけだけしい姿には似合わない、人間の女性そのものの声が漏れてくる。周囲にいる者たちは自分たちが戦っているということも忘れて、その言葉の意味を拾っていた。


 乾いた銃声が轟いたのは、その瞬間だった。


「っ!」


 炎竜の頭部、鋼鉄の肌が小さな火花を散らした。粘土に指を軽く押しつけた程度のくぼみが鱗に刻まれる。炎竜が長い首を巡らせると、自分が足を踏みしめている場所とはかなり離れたところに、拳銃を抜いているニコルの姿があった。


「よく逃れたな、あの一瞬で。どんな術を使ったのか」


 炎竜が笑う。人間のように笑った口から鋭い牙の列がのぞく。それに対して歯噛みしながらニコルは反射的に次弾を拳銃に込めていた。


「だが、これはどうかな!」


 炎竜の口が、耳まで裂けるかのように大きく開いた。その喉元に、体色に似合わぬ青白い輝きが宿る。ニコルは、炎の中で最も熱量が高いのは青い炎だ、ということをその色から思い出していた。

 拳銃を腰に収めたニコルが左腕を前に出す。腕にめられた銀の腕輪が激しく輝く。


 炎竜が炎――いや、一直線に伸びる『光』を吐き出した。光の洪水が、人の心をすくませる速度を伴って急角度で地面に、そこに立っているニコルに向かって吐き出される。人が息で吹き消そうとする蝋燭ロウソクのようにしか見えない少年が、その光の嵐の前に立ちはだからざるを得なくなった。


「うぐ――――!!」


 光の炎が光の盾に激突する。洪水を扉一枚で防ぐような、滑稽こっけいとしか見えないような構図がそこに成立する。が、それは、押し負ければ即死する命を賭けた絵面だった。


「うお、おお、おおおおお――――!!」


 顔に似合わない雄叫びを上げてニコルはそれに耐えた。目の前は痛いほどに明るい光で満たされてなにも見えない。勢いを弱めず、いや、さらに強まるこの奔流ほんりゅうの中で生き残れるかどうか、ニコルは考える力さえも左腕に込め、薄い光の盾を支え続けるだけだった。

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