「罠は黄金色に輝いて尖る」

 必死の思いで投げたフィルフィナのムチがリルルの胴体に巻き付いたのと、リルルがなにもない場に足を踏み出そうとしたのとは、同時だった。


「えっ」


 足場が、ない。

 踏み出した先に、あるべき足場が、ない。


「え、えっ、えっ?」


 拡散していた少女のアイスブルーの瞳が色を取り戻す。宙に向けて自ら投げた足が空を踏み、重力に絡め取られた体が、見えない力に引きずり込まれるように落下を始めようとする。


「リルル!!」


 フィルフィナは握ったムチを手繰り寄せた。リルル一人の体重を支えるなど今のフィルフィナには造作もないはずだったが、頭の中で爆発した一瞬の興奮が必要以上の力を腕に込めさせていた。


 中空に体を踊らせた少女を繋ぎ止めたムチが音を立てて張られ、フィルフィナは半円を描かせるようにそれを振った。


「うわあ!?」


 吊り下げられたリルルの体が枝と枝の間をすり抜けるようにして弧を描く。そのまま元の高さにまで体が上がり、確かに伸びる太い枝の上に足がついて、手が頭上に張っていた細い枝をつかんだ。


「大丈夫ですか!? お気を確かに――」


 自分もムチを頭上の枝に絡め、フィルフィナが枝と枝の間を跳んだ。リルルがしゃがみ込んでいる側に着地する。

 自分が飛び降り自殺を図ろうとしていた事実に気づいたのか、少女が屈んだまま全身を震わせていた。


「フィ、フィル、あ、危なかったわ……私、ぼうっとして、いったいなにを」

「お嬢様、幻を見せられていたのではないのですか。亡くなられた方の名前を呼んで、自分から近づこうとしていました」

「そう……そうよ……確か、お母様がいて、コナス様がいて、その横にカデルの姿まであったわ……。みんな、私に会いたいって手招きをして、私、それに近づこうとして……」

「この世界樹の黄金の光が人の魂を惑わせているのです。……本当に間一髪でした。気づくのがあと数秒遅れていたら、取り返しがつかないことに……」


 リルルからムチを解いたフィルフィナの方もまた、膝が砕けた。はああ、と吐き出した息と一緒に気力までが全部抜けてしまったようにその場にへたり込む。一拍の空虚を経て、心の底に湧き上がった感情が、少女の目にまで涙を汲み上げさせていた。


「よかった……本当によかった……。離れ離れになっていたのが、やっと一緒になれたのに、こんなことでそれが台無しになってしまったら、フィルは、フィルはもう、生きていけません……」

「ごめんね、フィル。私がしっかりしてなくて……あなたにはいつも迷惑をかける……」

「お嬢様……」


 熱い涙に濡れた目を一生懸命に開き、子供のようにしゃくり上げながらフィルフィナは顔を上げた。ふたをされていない目から雫がいくつも転がるフィルフィナに、リルルが微笑みかける。


「泣かないで、私の大切なフィル。あなたなしには、私は生きていけないわ……私の大好きなフィル」


 エルフの少女の目の前で、リルルが腕を広げた。力なくフィルフィナの膝が上体を支えて、立つ。


「さあ、こっちよ」

「お――お嬢様……」


 両腕の向こうに待っている少女の胸に、フィルフィナは吹雪の中でたどり着いた明かりが灯る我が家を見つけたような安らぎを見つける。


「こっちにおいで。あなたを、抱きしめてあげる」

「ああ……」


 夢現ゆめうつつの心地で、フィルフィナは手を前に掲げた。

 あの胸に収まれば、自分は幸せになれる。いちばん凍えていた時の自分を抱きしめ、温めてくれた胸がそこにある。

 ためらうことなく、フィルフィナは一歩を刻もうとし――。


「フィル!!」


 フィルフィナの脊髄から背骨、尾てい骨までの全てが、跳ねた。

 背後に稲妻の速度で飛び降りてきた影があった。その気配にフィルフィナが反射的に振り向いた。

 振り向いた先に、薄桃色のドレスをまとったリルルがいた・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「そいつは――偽者よ!!」


 振りかぶり、手刀で薙ぐように振られたリルル・・・の手から白い輝きが飛ぶ。空を切り裂き空気との擦過音を響かせて飛んだそれは、リルル・・・の胸を貫いた。

 白い輝きに体を貫通され、リルル・・・の体が霧のように消え失せる。


「なっ……!?」

「フィル、目を覚ますの!」


 乾いた音と衝撃がフィルフィナの頬を打つ。まぶたの裏に白い光をる。一瞬の後に視覚が回復した時、フィルフィナは自分が見ていた景色に違いが出ていたことに気づいた。

 掻き消えたリルルが立っていた場所には、足場がなかったのだ。


「わ……わたし……!?」

「危なかったわ。宙に私が・・浮いていて、フィルがそれに近寄ろうとしていたんだもの。もう一歩進んだら足を枝から踏み外して、真っ逆さまに落ちるところだったのよ」

「っ――――」


 フィルフィナの全身の血が、氷水のように冷たくなった。


「ま……幻……幻を視ていたのは、わたしの方だったのですか……!?」

「この世界樹の中は怪しい気配がいっぱいだわ。私はこのメガネでそれを防げているみたいだけれど」


 新しくフィルフィナに渡されたメガネをかけ直し、リルルがあごを上げて宙に眼を向ける。


「誰かが、私たちにいたずらを仕掛けようとしてるみたい」


 その右手に、いつの間にか四枚のカードが指の間に挟まれていた。


「私も昔、いたずらは結構やったけれど――人を殺しかねないようなものは、やらなかったわ!」


 右手が一閃した。白い炎に包まれたカードが燃える刃となって矢の速度で虚空に飛ぶ。なにも目標のない所に投げつけられた――と見えたそれは、見えないなにかに空中でさえぎられた。


「ひゃあっ!?」


 子供の・・・声が弾け、なにもないはずの空間に四つの金色の影が浮かぶ。それは瞬く間に実体化し、小柄な四人の人となって現れた――いや、人というには違う。学校に初めて上がるくらいの年齢の幼い体格なのだが、決定的に違うところがある。


「なにするんだよ、こいつー!」


 背中から広げた、猛禽類もうきんるいのものに似た純白の翼を羽ばたかせている子供たち――黄金の髪に黄金の肌の顔を見せ、簡素な白い衣で黄金の体を覆っている四人の男の子たちが、舌っ足らずで甲高い声で喚き立てていた。


「え……この子たち、天使……!?」

「天界の使者、というわけですか。しかし、あまり可愛くないことをしてくれますね……」


 フィルフィナは鈍い頭痛を頭を振ることで払い、背中の弓に手をかけて素早く矢をつがえた。


「天界の使者とお見受けしました! わたしたちは天界に害を及ぼす気は毛頭ありません! わたしたちの進行を邪魔せず、速やかに通していただきたい!」

「うるさいこのチビ!」

「チビ! チビチビ! チビエルフ!」


 フィルフィナの言上に、純金の生きた像のような天使たちは見たまんまの子供のような悪態を吐く。あどけなく美しい男の子の姿をしているだけに、幼稚な悪口が本当に幼く聞こえた。


「お前みたいなチビなんか天界に入れてやるもんか! 背とおっぱいを増やしてから出直してこい!」

「それで悪口のつもりですか。容姿はいいのに頭が悪いようですね。そんなつまらないののしりでわたしを怒らせることができると思っているのですか」

「そこの人間の娘! お前も帰れ! 顔を隠すな! どうせ他人様ひとさまに見せられないくらいのブス顔なんだろう! ……ぎゃーっ!」


 神速の手つきでフィルフィナが放った矢が、一人の天使の黄金の髪を掠めて切り裂いた。


「ちっ、わたしともあろう者が、外すとは」

「なんだぁ――!? 殺す気かお前、このまな板エルフ!」

「『殺す気か』? ――殺すつもりで放ったのですよ」


 フィルフィナのアメジスト色に光る瞳が燃えていた。


「わたしの大事なお美しいお嬢様をブスとかけなす輩は、たとえ天使だろうが神だろうがこのフィルフィナが許しません! 死になさい!」

「待って! 待って待ってフィルったら待って!」


 第二射を射ようとしたフィルフィナをリルルが羽交い締めで止めた。


「たかがそんなことで殺しちゃだめ! 冷静になって!」

「たかが!? わたしにとってこれ以上の侮辱はないのです! 皆殺しにしなければ気が済みません! お嬢様、後生ですから離してください!! すぐに全員を片付けぶっ殺します!」

「うわあああ、頭のおかしいエルフだ! あのおっぱいおばけのエルフと同じだぁ!」

「逃げよう、逃げよう逃げよう!」

「オルディーンさまにいいつけてやる――!!」


 天使たちは泣き喚きながら一斉に上昇し、金色の枝と葉の向こうに消えて行った。


「お、おっぱいおばけ?」

「そんな風に呼ばれるのは一人しか思いつきません」

「…………」


 いわれ、リルルも実際一人しか思いつかなかった。


「母もあの天使たちに邪魔され、退しりぞけたのでしょうね。母があんな有象無象うぞうむぞうどもに負けるなどあり得ません」

「大丈夫かな……あの子たち、天界の使者なんでしょう。それに矢なんて射かけたら本当にバチが……」

「バチを当てるのはこっちです!! わたしのお嬢様は、世界でいちばん美しく、世界でいちばん可愛いというのに!! お嬢様、今度あいつらを見つけたら必ず額に矢を当てて見事仕留めますから! 楽しみにしていてください!!」

「だから、それはいいんだってばぁ!」


 憤怒ふんぬを全身の毛穴から噴き出し髪を逆立てるフィルフィナが、怒りを込めて頭上にムチを振った。ため息を吐いたリルルもそれに続いて登攀とうはんを再開し、手にムチを握る。


「――でも、あの天使の子たち、オルディーン様とかいっていたわね……。それが天界に住まう神のお名前なのかしら……。いやだ、私、これから神様にお目にかかるのね。心の準備が、化粧もすればよかったかしら」

「お嬢様、早く!」

「はいはい。ところでフィル、ひとつだけ聞きたいのだけれど!」

「なんですか。動きながら聞いてください」

「フィルは知ってるの? 天界に誰がいらっしゃるかを」

「詳しくは知りません。ですが、母から一度愚痴ぐちは聞きました」

「愚痴?」


 首を傾げたリルルに、フィルフィナはいっていた。


「できたらもう、二度と見たくない顔だ、と」

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