「天空の神殿」

 自分がこの巨大な樹の内部を何時間登り続けてきたのか、その意識も薄れ、心の中で時の感覚が停止しそうになったころ――全てが黄金に輝いていた景色が突如として一変し、限りなく透明に近い青の色がウィルウィナの瞳に刺さった。


 涼しい風が頬を撫でる。――『風』! この数時間、感じはしなかったものが体を触ってくれた感触にウィルウィナは頬の緊張を緩められる。三百六十度、視界の全てが空、空、空――自分が空の一点に浮かんでいるような錯覚に、心に翼が生えたような心地になった。


 肌触りがさわやかで渦を巻くように吹く、この場でしか味わえない独特の風だった。

 きつい光に痛めつけられてきた、目をまぶたの上から軽くもむ。直径三百メルトもの空間とはいえ、今まで閉鎖空間にいた気鬱きうつのような気分が、見る間に晴れていくのが実感できた。


「久しぶりね……この空の色は……本当に……」


 視線を足元に落とす。靴が硬い雲・・・を踏んでいる。他ではあり得ない現象に、ウィルウィナの口元に小さな笑みが浮かんだ。知識としては知らされていても、実際に初めてこれを体験した時は心がざわめいたものだ。


 そう、この雲を最初に踏んだのは、あの日――。


『――ウ――、ウ、ウィル!』


 ウィルウィナの鼓膜の裏に、懐かしい声が掠めるように触れた。

 幻聴だとわかっていても、わかりきっていても、ウィルウィナの胸のうちが熱くなる。

 それはまだ、自分が少女と呼ばれていた頃の思い出から聞こえるものだったからだ。


『ど、どど、どうなってんだ、これは!? く、く、くく、雲に、雲に乗ってるぞ!?』

『だから、大丈夫だっていってるじゃない』


 若い頃の自分・・・・・・の声も心の内で再生される。


『天界よ、ここは。地上の常識なんて通用しないでしょ。まったく、いちいちなんでも大げさに……』

『だってさ、不思議だろ。エルフにお前みたいなデカい胸をした女がいるってくらい不思議だよ』

『人の胸を世界の七不思議扱いすんじゃないの!』

『二人とも! ここは天の神々がおわす場所なのよ? こんな厳粛な場所で、そんな品のない話をするものじゃないでしょう』

『人の胸が下品みたいないい方はやめて! ルイン、よければ半分持って行ってよ! 私だって邪魔だと思っているんだから! これのせいで母や里の者にうとんじられ、いじめられ、ロクな記憶がない!』

『半分も要りません。前にかしいでしまいそう。そのまた半分でも多いくらいです』

『貴様等な、少しは礼節というか慎みというか……そういうものは学校で教えてもらわなかったのか』

『ティーゲル! 筋肉頭のあなたにもいわれたくないわ! なんでも筋肉で解決するのをやめたらあなたのいうことを聞いてあげてよくてよ!』

『地上の痴話喧嘩ちわげんかを天界にまで持ち込むのはどうかと思いますね、わたくしめは。これから神々との大事な交渉だというのに、これが聞こえていたらどうするのてすか』

『こんな話を聞いたくらいで態度を変える狭量な奴なんか神でもなんでもないわ! だいたい、連中が地上に興味を全然持たないからこんなことになってるんじゃないの! 責任を取らせるわよ責任を!』

『ああ、いいから早く歩け! 急がないと日が暮れるし魔王が地上を制圧しちまうぞ! だからな!』

『うるさぁ――い!!』


 心の中で回っていた声が薄れて、遠くなっていく。

 心が立ち止まって動けないウィルウィナの傍らを、若い自分・・・・も含めた五人の幻が通り過ぎていった。ウィルウィナは振り向いてその背を追おうと一瞬肩を揺らしたが、次の瞬間には、それが幻であるということを確かめてしまう恐怖に怯えた。


「ヴェル……。ルイン……ティーゲル……それに、ローデック……」


 想い出の名前を唇が刻んでしまう度に、ウィルウィナの心の芯が焼けた。心を焼き尽くしてしまうその熱は涙に乗って、アメジスト色の瞳が収まる目から流される。


「私の仲間たち……もう会えない……私だけの仲間たち……」


 再び来るとは思っていなかった――いや、思いたくはなかったここに立って、五百年も前のやり取りが、つい今しがたのものとなってよみがえってしまう。


「みんな、早々に死んでしまって……なんで私だけ仲間外れにしてくれてるのよ……どうせ、向こうでみんな仲良くやってるんでしょ……本当に、本当にずるいんだから……」


 ウィルウィナは胸に痛みを覚え、手を当てた。寿命を終え、燃え尽きたた星が自らの重力に耐えられずに限りなく収縮して、一握りの灰色に変わり果てた球になってしまうように、心が縮んでいく。


「長生きしたバチね、これは……。私ひとりで五人の尻拭い……でも、仕方ないか。生き残ってしまったのだものね……」


 ウィルウィナは指で涙を払い、前を向いた。首から下の全部を隠す灰色のマントを翻し、きびすを返した。


 今まで背中にしていた向こう、ほぼ平らに広がって見える真っ白な雲の平原を越えたやや遠くに、うっすらとかすんで見えるひとつの神殿らしき建物――いや、神殿と確信できる建造物があった。ウィルウィナは一度、おもむいたことがあるのだから。


 ここからは親指の爪の大きさにしか見えないそれ以外に、人工物と思えるものはなにもない。見えるのは雲の白さと空の青さ、そして頭上で輝いている太陽の眩しい光だけだ。風が吹く以外の音はなにも聞こえず、人気もない。喧騒だらけの地上とはまさに『世界が違う』。


 この空間が、実際の高空に存在しないこともウィルウィナは知っている。ここは魔界と同じく、地上と重なって存在する、わずかに次元をずらした世界なのだ。


『水の世界樹』を伝ってここに向かっているだろうヴィザード一世の気配はない。遠くに見える神殿からも異変が起こっているという雰囲気は伝わってこない。取りあえずは先んじることができたのか。


「……これだけだったらまさしく、『天の国の様な世界』なんだけど……」


 ウィルウィナの口元に苦いものが浮かんだ。苦い薬を舌に受けた錯覚に口の中の全てが渋くなった。


あいつら・・・・の顔を見ないといけないとか、地獄の方がマシでしょうね。ああ、気と胸が重いわ……」


 本当に気が進まないことこの上なかったが、陰鬱いんうつな気持ちをため息として強制的に排気し、ウィルウィナは重い足を無理に振り上げて歩き出した。

 こっぴどい失敗をしでかし、母親の前に自首しにいく、それの万倍は気の重い対面が数十分後に待っていた。



   ◇   ◇   ◇



 天空に横たわる雲の島、その上に築かれた雲の丘。

 その上に重々しく鎮座ちんざするのは、全てがガラスに似た、空色をした透明の建材で造られている神殿――『天空の神殿』だった。


 空を固めたような空色の柱、大樹ほどの太さがあるそれが数十本、いや、それ以上の規模で基盤の上に打ち立てられている。が、それらの柱たちは屋根を戴いていない。建ち並ぶ柱が、その中に権威あるものが存在しているのだということを主張しているようだった。


 それひとつで小さな集落ほどの規模がある、巨大な神殿。この世界の雲が踏めるほどに物質化されているものなら、その神殿は踏めるほどに空を固めて物質化させているのだろう。

 雲の丘に築かれた空の階段を踏みしめ、ウィルウィナは前をにらみながら進む。


「何者か!」


 階段を上りきったところで、ウィルウィナは衛兵らしい二人からの制止にあった。神殿の入口を警備する、純白の鎧を身につけた長身の兵士が冗談のように長い髪をほぼくるぶしの辺りにまで垂らしている。その背に真っ白な翼を畳んでいるのは、この兵士たちが天界の住人である証拠だった。


「オルディーン様にお取り次ぎ願いたい。私は地上から参ったエルフ、西の森の女王であるウィルウィナと申す者。緊急の用件あってまかり越した次第である」

「帰れ!」


 髪も肌も目の色も、わずかな光の濃淡だけが輪郭をうかがわせるだけで真っ白な兵士が、にべもなくいい放った。


「ここは天空の神殿、神々がおわす聖地。そなたらのような地上の汚れをまとった者が入ることは許されぬ! 身の程をわきまえて地上に戻るのだな!」

「そこを曲げてお願いする。私はオルディーン様とは知己の間柄。取り次いでいただければきっと面会の許可をいただけるはず」

「少しはエルフに天界の縁があることを思い上がり、慢心するのか!」


 穂先も柄も全てが白銀の槍の切っ先がふたつ、ウィルウィナに向けられた。


「帰るがいい! 命に従わねばこの槍で突き殺し、死骸しがいを下界に向けて投げ捨ててくれるぞ!」

「重ねて申し上げる、オルディーン様との面会の許可を――ああっ、もうまだろっこしい!!」


 生来、とても気が長いとはいえないウィルウィナの怒りが爆発した。


「とにかくいわれた通りに取り次げばいいのよ、この頭オリハルコンのカチカチ兵士共が!! 天界の危機を知らせに来てやってるんだから、とっとと会わせなさい!! さもなくば大変なことになるわよというかもう大変なことになってるのよ!!」

「き、貴様、れ者が――!!」

「うるさい退け!」


 槍が突き出される瞬間、その穂先の根元をそれぞれにつかんだウィルウィナが逆に自らに引き寄せ、自分の目の前で交差させる。狙いを外されて前につんのめった兵士たちの懐に、槍の柄の下をくぐるようにしてウィルウィナの体が低く走った。


 二人の兵士の間をすり抜けると同時に、ウィルウィナの両手の手刀が二人の首筋を打つ。首の骨にゴッ、と重く固く入った衝撃に兵士たちは一撃で意識を吹き飛ばされ、昏倒した。


「こういう時には暴力に限るわね、やっぱり」


 柱の間を抜け、ウィルウィナは神殿の中に足を踏み入れた。入口の問答を聞きつけたのか、純白の鎧姿の天界人たちが槍を手にして駆けつけてくる。自分を扇状に包囲してくれた十数人を前に、ウィルウィナは足を止めた。


「お邪魔するわ、みなさん」

「ここは天空の神殿、神々がおわす聖地。そなたらのような地上の汚れをまとった者が――」

「じゃかぁしいっ!!」


 ウィルウィナが怒り狂う狼の表情で吠えた。


「そのセリフは一字一句違わずさっきも聞いたわ! あなたたち、毎朝朝礼でその文句を唱和してるの!? こっちはね、あなたたちを助けるために可愛い愛人に別れを告げてきたのよ! 別れたくもなかったのに! そして本当はあなたたちを助けたくもないのよ!」


 火がついてしまった感情のたかぶりを消すこともできず――消すこともせず、ウィルウィナは口が開くままに炎をまとった言葉を吐き続ける。


「イラついてるんだから邪魔するな! 奥にオルディーン様がおわしやがるんでしょうが! さっさと会わせなさいな!」

「――こ、この女、物狂いか? おかしくなってるのか?」

「おかしいのはあんたらの方よ! どいつもこいつも偉ぶるだけでなにもしようとしない! あんたらが少し地上に手を差し伸べてくれていたらここまで酷くなってないのよ! 人を見下すことしかしない、役立たずのこのトンチキ連中がぁ――!!」

「と、取り押さえろ! い、いや、殺せ! 殺していい! こんな醜態をオルディーン様にお見せするわけには!」

「上等だわ!! どいつもこいつもそいつもあいつもまとめてかかってこい!」


 天界の兵士たちが一斉に槍で突き掛かる。十数本のきらめく刃が槍衾やりぶすまを作るのにも関わらず、素手のウィルウィナは突進した。

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