「夜の前」

「どうぞ、あねさん、お入りください」


 ティーグレにまねき入れられた一室。その部屋の内装に意外さを覚えさせられ、感情が死んでいるはずのフィルフィナは、わずかに目を見開いた。

 立ち入るまでそれがどんな建物なのかわからない、積み木が並んだように見えるほどにどれもこれも個性のない高層建築ビルディング群。ティーグレの案内に連れられるままその一棟ひとむねに誘い込まれたフィルフィナは、建物に入った瞬間にまず、そこがホテルであることにおどろいた。


 それもそこそこの格式を感じさせるホテルだ。照明は明るく落ち着いた色調の壁紙が貼られ、床には色鮮やかな絨毯じゅうたんき詰められている。

 建物の外観と比べれば、別世界に迷い込んだ感覚さえあった。

 そして、昇降機エレベータで最上階に上がって通されたこの部屋に、再び驚かされたのだ。


「ここは……いい部屋ですね……」


 天井のシャンデリア、濃い色調の木で統一された寝台、箪笥タンス、四人がけテーブル、椅子、物書きつくえ――王都エルカリナでも一流の水準のホテルにギリギリとどきそうな部屋だった。

 広さはリルルの居間と寝室を足したくらいはある。ゴミのひとつもないくらいに掃除が行き届き、鼻につかないくらいのさわやかな香りがただよっている。


 少しみ込むと、入口から死角になっている所に二つの扉があった。専用の浴室とお手洗いがあるのだろうか。寝台には天蓋てんがいまでついている――貴族が暮らしていてもおかしくない部屋だ。


「亜人街のホテルの中でも、いちばんいい部屋でさ。亜人の中でも、こんな部屋に泊まれる奴らはいないことはないっていうことで。ああ、払いは俺が受け持つから心配しないでくださいや。ここはうちの直営ですから、いくらでも無理がくんです。姐さん、ここでゆっくりしてくださいや。なんなら、ここで暮らしてくれてもいいくらいですわ」

「――――」


 フード付きのローブを脱いだフィルフィナがそっと寝台に腰を下ろすと、小さな体がわずかに弾んだ。奥の暖炉だんろにはもう火が入っていて、小さく燃えている魔鉱石がほどよい熱を送ってくれている――心地好い。


「姐さんはひどくお疲れみたいだ。今風呂を作りますから、よくあったまって、暖かい布団でゆっくり寝てください。食事がしたければ、いつでも係にいいつければいいですわ。ここが出す飯は――」

「ティーグレ」


 フィルフィナのつぶやきにティーグレは話すのをやめた。神託しんたくを待つように静寂せいじゃくを作った。


「ティーグレ。貴方あなた、わたしのことが好きなのでしょう」

「……姐さん?」

「今なら、わたしになにをしてもいいですよ。許します」


 フィルフィナの目は、ティーグレを見てはいなかった。ひざの上で重ねた自分の手だけに、視線を向けていた。


「わたしを抱きたいのなら、それでもいいでしょう。今のわたしは……なにかを考えていたくはないのです……。……経験はありませんが、気はまぎれるらしいですね。それとも、わたしのような貧相ひんそうな体は、貴方の好みではありませんか……?」


 フィルフィナが自分のブラウスのボタンをひとつ、ふたつとゆっくり外していく。


「いえ……こんないい方は卑怯ひきょうですね。ティーグレ、わたしを抱いてください。お願いです……」

「姐さん」


 表情にたかぶりもなにもなく、ティーグレはフィルフィナの前にしゃがみ込んだ。それでもフィルフィナの背を越えるほどの巨体が、静かな迫力をかもし出していた。

 広い手の太い指がフィルフィナの胸にび、フィルフィナは、運命を受け入れるように目を閉じた。


 ティーグレはフィルフィナのブラウスのボタンに指をかけ――意外な器用さで、それを上まで止めた。


「――ティーグレ…………?」


 ボタンがめ直された気配に、フィルフィナが顔を上げる。真顔で自分を見つめてくるティーグレの虎そのものの目の鋭さに、思わず息を飲んでいた。


「――全部ぶっちゃけていいます。俺は姐さんにれてる。惚れて惚れて惚れ抜いてる。正直、姐さんを抱いていいのなら抱きたい、抱かせて欲しい。今まで何度そう思ったか知れねえし、妄想もうそうの中で姐さんをけがしたことだって数え切れねえ。――でも、それより思うことがあるんでさ」


 ティーグレはのっそりとフィルフィナから離れた。かざり棚に歩み寄り、その中からグラスと酒瓶さかびんを取り出した。


「俺が姐さんに惚れたのはその体じゃねえ、強い心とたましいだ。俺なんかじゃとてもかないそうにない眼差まなざしの強さに惚れたんですや。だから、なにかキツいことがあったからって、そこらのつまらない男・・・・・・・・・・に身を任せて気を紛らわせようなんていう、下らないことはしてほしくないんです」


 グラスに酒瓶の中身をそそぐ。そしてそれを寝台の脇にある小さなテーブルにせた。


「姐さんを抱いていいのは、姐さんが惚れて惚れて、心の底から惚れ抜いた男ですや。姐さんはそんな男に抱かれて幸せになってくだせぇ。それが、このつまらない男の願いですわ」

「ティーグレ……」

「姐さん、今日は泣いてもかまいません。姐さんだって泣きたい時はあるでしょう。でも、明日からはまた元の強い姐さんに戻って欲しいんです。姐さんに惚れた男のために、お願いします」

「…………」


 フィルフィナの美しいアメジスト色の瞳がうるんで、一線ひとすじの涙がつつつと流れた。


「これを飲むといいですわ。すぐに寝付けるいい寝酒です。これを飲んでたっぷり寝て、起きたら美味いものをたくさん食べてください。今は、疲れを取りのぞくことが第一です」

「……ありがとう……」


 フィルフィナの手がグラスをつかみ、そこそこの量があるそれを一気にあおった。こくこくと喉が鳴って中身が飲み下されていく。その様をティーグレは微笑ほほえみを浮かべながら見守っていた。


「――ごちそうさま……」

「姐さん、風呂を作りましょうか。それともすぐに寝てしまいますか。いや、もちろん俺は退散しますんで、ご心配なく――」


 グラスを片付けようとフィルフィナに背を向けたティーグレの背後で、ぱたん、と音がした。

 ティーグレが振り返ると、目を閉じたフィルフィナが寝台の布団の上に体を横たえていた。


「……張り詰めていた緊張きんちょうが切れたのかな。そんなすぐに利くやつじゃねぇんだが」


 ティーグレはフィルフィナのくつ丁寧ていねいに脱がし、体を布団の中に入れようと彼女に手を伸ばす。すぅ、と深い呼吸に合わせてフィルフィナの薄い胸が確かに上下する動きに、ティーグレの理性より衝動しょうどうが勝って手が止まった。


 ふわ、と空気を求め、愛らしいくちびるがわずかな隙間すきまを開く。響いたのではないかとぎょっとするくらいに大きな音で固唾かたずを飲んだティーグレは、エルフの少女の顔に自分の顔を近づけた。


「――って、てめぇなにを考えてんだ!」


 三割ほど本気の鉄拳を、ティーグレは自分のほおたたき込んだ。


「カッコつけた後だろうが! やりたいならカッコつけずにしろ! みっともねぇだけじゃねぇか!」


 首を数十回振ってからフィルフィナの体を布団の中に収め、あごの下まで掛布団を引き上げる。照明を一つだけ残して消し、暖炉で炎に包まれている魔鉱石に鉄棒を突っ込み、その量も半分に減らした。


 退室し、扉に施錠せじょうをしてから、扉の郵便受けの穴に鍵を放り込む。部屋の向こうで鍵が落ちる音が響いたのを耳で受け止め、ティーグレは肩が外れるくらいにがっくりとうなだれた。


「姐さんを堂々と抱ける好機チャンスなんて、この一生の一度が限りだったろうなぁ……」


 そのまま虎獣人は歩き出す。足取りの重さはいつもの半分になっていた。


「――カッコつけるって、つれえな、まったく……」


 今日は自分も酒をあおって、早く寝てしまおう――これでよかったのだ、これで。



   ◇   ◇   ◇



 西の空に太陽が沈み行き、それぞれの事情が激変した今日という一日が、終わろうとしていた。

 リルルも、ニコルも、フィルフィナも、もうこれ以上動きようがなく、明日という時を迎えるため、それぞれの仕方で今日という時を仕舞しまおうとしている。


 だが、今日という日はまだ終わりきってはいなかった。

 太陽が地平線の彼方かなたに消え、夜の闇が世界の全てを侵略しきったころに、彼女・・は動き出した。

 リルルが囚われているエルカリナ城に向かって、その影は風よりも速く、暗闇の中を疾走はしった。

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