「フィルフィナ、流れゆく」

「おねーちゃん! おねーちゃんってば!」


 朝の時間、クィルクィナは貴族の邸宅街を東に向け、早足で駆けていた。まだ人通りが少ない閑静かんせい界隈かいわいに小さな足音が響く。それに対し、前を進む姉――フィルフィナの足取りには気配がない。まるで、幽霊ゆうれいが地に足をつかずに浮いて進んでいるような頼りなさがあった。


 それでいて進む速度は結構速い――大運河にかかる鉄橋が見えてきたくらいで、クィルクィナは姉のそでをつかむことに成功していた。五分は軽く走っただろうか。


「フィルおねーちゃん! 待って!」

「クィル……」


 軽く息を弾ませる妹に袖をつかまれたフィルフィナは、それ以上逆らおうとはせずに振り返った。輝きのない瞳を向けられてクィルが思わずひるむ。たましいが抜けた者の目がクィルクィナを見ていた。


「フィルおねーちゃん、大丈夫? サフィーナお嬢様も心配してたよ。おねーちゃんが死んだエルフの目をしてるって。ね、おねーちゃん、どこに行くつもりなの?」

「どこって……」


 フィルフィナは考える――自分はどこに行くつもりだったのか。

 そもそも何故こちらに足が向いていたのか。

 多分、西からの風に吹かれたからだろう。


「おねーちゃん、お屋敷をクビになったんでしょ。でもいくらでも行くところはあるじゃん。里に帰れば家臣のみんながバンザイして涙流して大喜びだし、ママとあの愛人のミーナ? ミーネだっけ? のところに行っても邪険じゃけんにされないし、なんならさ、あたしたちと一緒にゴーダムの家で働こうよ」


 妹が早口で話しかけてくる言葉の半分も、フィルフィナの耳には止まらない。風の音のようにそれは耳から外に流れていった。いつものメイド服は脱ぎ、たった一着持っている普段着に黒いフード付きのローブを着ている。少し大きめの大型鞄トランク唯一ゆいいつの荷物だ。


「ゴーダムの家のみんな、エルフを差別しないよ。あたしやスィルも旦那だんな様や奥様に可愛がられているし、居心地いごこちいいよ。最初に放り込まれた時はめっちゃムカついたけどさ」

「そう……」

「いいじゃない、あたしたちと一緒に働いたら。おねーちゃんならゴーダムの家だったら大歓迎だいかんげいだよ。おねーちゃんがメイドとして料理以外ならものすごいって知ってるし。料理はあたしがやるしさ」

「クィル……」


 フィルフィナは、袖をつかんで離さない妹の目を見つめた。


「クィル、ありがとう……。でも、今はむしろひとりになりたいのです。優しくされると、つらい……」

「でもさ、どこで寝るのさ。アジトだって、あんなところホコリっぽくてくさくて寝られないよ」

「どこで……」


 どこに行けばいいのだろう。独りでいられる場所などあてがない。


「おねーちゃん、ちゃんとお金持ってる? あたしが貸してあげるよ。ほら、持っていって」


 クィルクィナは、フィルフィナの手に小さな財布を押しつけた。


「宿に泊まるならお金、るでしょ。それでなら二、三日は泊まれるよ」


 フィルフィナは機械的な動きで財布の中身を確認した――千エル札が四枚と、小銭が何枚か入っていた。相当の安宿やすやどでなら三日は泊まれるかも、というがくでしかない。


「あたしの全財産だよ。おねーちゃん、感謝してよね」

「……クィル、あなた、お屋敷から月にいくらもらっているのです?」

「お小遣こづかいで五千エル。あとはサフィーナお嬢様が預かってるんだ。あたしは無駄遣いが過ぎるって」

「……そうですね、それがいいですね」


 フィルフィナは財布を返した。続いて自分の財布を開いて金貨を一枚取り出し、妹の手にせてにぎらせた。


「姉からのお小遣いです。クィル、これでスィルとどこかで美味おいしいものでも食べてきなさい」

「え、おねーちゃん、大丈夫?」

「あなたの姉は、あなたより少しはお金持ちですよ。……ありがとう」

「わ」


 腕を引き寄せ、胸に抱いた妹の体をフィルフィナは軽く抱きしめた。涙がこぼれそうな目を、目の前の髪に押し当てた。


「クィル、体に気をつけて。スィルとケンカをしないように。サフィーナの言いつけを守るのですよ」

「おねーちゃん……」


 クィルクィナの髪を軽くで、フィルフィナは妹に背を向けた。また風に吹かれたように重さのない足取りで東に向かって歩いて行く。それを追えなくなったクィルクィナは、遠ざかって行く背中を見送ることしかできなかった。


「おねーちゃん、大丈夫かな……。この街でしこたまうらみも買ってるだろうに、今背中をねらわれたら死んじゃうよ」


 取りあえず、サフィーナお嬢様が戻ってきたらこのことを報告しなければ――そう頭の中で思いながらも、クィルクィナは去りゆく姉の姿が見えなくなるまで、その場から動けなかった。



   ◇   ◇   ◇



 メイドでなくなったエルフの少女は、本当に風に吹かれるまま王都の街を歩いていた。頭の中には一分先の予定すらない。思考が働かない空っぽの体を風に流させ、通りで往来おうらいつぶされないのが不思議なくらいの無警戒さで、ただただ歩を進めた。


 王都の東部、住宅街が主になるいくつかの区域を歩く。四時間ほど歩きに歩き続け、太陽が真上にのぼってきたころくらいにフィルフィナは、王都の南東部に位置する亜人街にたどり着いていた――まるで王都の吹きだまりまで行き着いてしまったかのようだ。


 今のフィルフィナと同じくフードを目深まぶかかぶり、顔も隠し種族さえ明らかにしない者たちばかりが、大勢をなして行き来している。ここでは家屋に入り込めないような大型の亜人でない限りは、把握はあくするのも一苦労なほどの様々な種族が住み着き、王都の中でも独特の社会を形成していた。


 装飾そうしょくのない箱のように無愛想な建造物が立ち並ぶ街は、今は明るい。が、少しでも陽がかたむけば、高層の建物が作る影で全域が暗くなる――朝でさえも、東に面している高い城壁のせいで陽射しがさえぎられるのだ。


 人口密度が高い街の、密度の高い人通り。前が見えているのかもあやしいフィルフィナは、何回も行き交う人々に肩をぶつけぶつけられ、時には突き飛ばされながら、それでも歩き続けた。

 このまま南に進み続ければ、やがて最南端の港湾区域こうわんちいきにたどり着く――その先は、王都から出てしまうだけだ。


 それさえも意識の表層に浮かび上がることなく、フィルフィナは風の流れに乗って歩く。

 そんな中、フィルフィナの灰色にれた脳をようやく刺激してくるものがあった。

 感覚のほとんどが死んでいるはずなのに、戦士としての最後の本能が身体からだに危機を知らせている。


 ――誰か、尾行けてきている者がいる。


「はぁ…………」


 フィルフィナは後ろを振り返ろうともしない。通りを行き交う人々のいくつものフードの姿はみな一様で一目で区別がつくものでもなく、その上気配の主は尾行びこうれているのか、人の波の向こうにあった。

 ただ、同じ気配がずっと自分の後についてきているという確信はあった。


「このわたしをけ回すなんて……心当たりが多すぎて、わかりませんね……」


 数時間ぶりにフィルフィナは自分の判断で歩を進めた。適当な細く暗い路地を見つけ、自然な足取りで進路を変える。いかにも袋小路ふくろこうじになっていますという陰に入った途端とたん、ジメッと湿気しけた空気がほおに触った。


 角を曲がり通りがのぞけなくなった先は、案の定行き止まりだった。気配の主は――やはり少しの距離きょりをおいて着いてきているようだ。これで出口をふさがれたが、フィルフィナにはあせりもなにもなかった。


「なんの用でしょう……物盗ものとりか、怨恨えんこんか、それともわたしの体に興味でもあるんでしょうか」


 汚れた空き箱の上にフィルフィナは座り込んだ。夜半やはんに降った小雨こさめがいまだにかわいていない地面が、むわっという異臭を放っている――亜人街の臭いだ。


「面倒臭い……でも、その間は嫌なことを忘れていられるか……」


 殺されない限り抵抗はするまい、とぼんやりと考え、曲がり角の向こうからこちらに近づいてくる気配を、フィルフィナは自分の靴を見つめながら待った。

 気配のぬしはほどなく現れた。

 巨漢きょかん――細いとはいえ路地ろじに体が引っかかりそうな肩幅をした体格を、目で見なくとも圧迫感だけで感じる。

 フィルフィナは目を向けることもしなかった。全てのことが億劫おっくうだった。


「おい」


 野太い声が頭のはるか上から降ってきた。かなりの長身、巨躯きょくの持ち主だと知れるけものの声だった。


「顔を見せな」

「…………」


 フィルフィナは応えない。ひざの上で自分の手をもてあそびながら、わざわいの時を待った。

 鋭く頑丈がんじょうな爪がついた、毛むくじゃらの大きな手がフィルフィナのフードをがす。それでもフィルフィナは視線を動かすこともなかった。好きなようにしたいのなら、好きにすればいい――。


「――やっぱり、あねさんか」


 フィルフィナの耳の先が、ねた。その声が知っているものであると、ここでようやく気が付く。考えるよりも先にあごが上がり、目が向いていた。


「……ティーグレ?」


 フィルフィナを完全に見下ろしている、特注であるだろう背広がはち切れんばかりの二メルト強の巨漢。獰猛どうもうとらそのものの頭部が、どこか戸惑とまどったような表情を見せている。その針金のように太く頑丈なひげにもどこか張りがなかった。


 亜人街を裏で統率する暴力団の組長である虎獣人、ティーグレ。同時にかつてフィルフィナに命を救われ、今では彼女を心から崇拝すうはいする亜人の一人でもあった。


「背格好とにおいから姐さんかもと思ったんですけど、いつものメイド服姿でないんで、確信が持てなかったんでさ。それに雰囲気ふんいきが全然ちがうし……姐さん、どうしたんですか。なんかさびしそうな……」

「…………」


 フィルフィナは応えない。意思の薄さを思わせる弱々しい目の暗さに、ティーグレはしばらく言葉を探すようにしてだまっていたが、まばたきを二、三度してから、おもむろに口を開いた。


「姐さん、なにか大変なことがあったんですな。これからどこか行く所はあるんですかい?」


 またもフィルフィナは無言のままだった。だが、それでティーグレには伝わっていた。


「――わかりました、姐さん。なにも予定がないなら、俺に付き合ってください。お願いしやす」


 虎の頭部が丁寧ていねいに下げられる。虎の手がうやうやしく手を取ってきたのにつられるように、フィルフィナは立ち上がっていた。

 ティーグレにどこに連れて行かれようが、かまわなかった。自分には行くべきところがないのだから。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る