「フィルフィナ、流れゆく」
「おねーちゃん! おねーちゃんってば!」
朝の時間、クィルクィナは貴族の邸宅街を東に向け、早足で駆けていた。まだ人通りが少ない
それでいて進む速度は結構速い――大運河にかかる鉄橋が見えてきたくらいで、クィルクィナは姉の
「フィルおねーちゃん! 待って!」
「クィル……」
軽く息を弾ませる妹に袖をつかまれたフィルフィナは、それ以上逆らおうとはせずに振り返った。輝きのない瞳を向けられてクィルが思わず
「フィルおねーちゃん、大丈夫? サフィーナお嬢様も心配してたよ。おねーちゃんが死んだエルフの目をしてるって。ね、おねーちゃん、どこに行くつもりなの?」
「どこって……」
フィルフィナは考える――自分はどこに行くつもりだったのか。
そもそも何故こちらに足が向いていたのか。
多分、西からの風に吹かれたからだろう。
「おねーちゃん、お屋敷をクビになったんでしょ。でもいくらでも行くところはあるじゃん。里に帰れば家臣のみんながバンザイして涙流して大喜びだし、ママとあの愛人のミーナ? ミーネだっけ? のところに行っても
妹が早口で話しかけてくる言葉の半分も、フィルフィナの耳には止まらない。風の音のようにそれは耳から外に流れていった。いつものメイド服は脱ぎ、たった一着持っている普段着に黒いフード付きのローブを着ている。少し大きめの
「ゴーダムの家のみんな、エルフを差別しないよ。あたしやスィルも
「そう……」
「いいじゃない、あたしたちと一緒に働いたら。おねーちゃんならゴーダムの家だったら
「クィル……」
フィルフィナは、袖をつかんで離さない妹の目を見つめた。
「クィル、ありがとう……。でも、今はむしろ
「でもさ、どこで寝るのさ。アジトだって、あんなところホコリっぽくて
「どこで……」
どこに行けばいいのだろう。独りでいられる場所などあてがない。
「おねーちゃん、ちゃんとお金持ってる? あたしが貸してあげるよ。ほら、持っていって」
クィルクィナは、フィルフィナの手に小さな財布を押しつけた。
「宿に泊まるならお金、
フィルフィナは機械的な動きで財布の中身を確認した――千エル札が四枚と、小銭が何枚か入っていた。相当の
「あたしの全財産だよ。おねーちゃん、感謝してよね」
「……クィル、あなた、お屋敷から月にいくらもらっているのです?」
「お
「……そうですね、それがいいですね」
フィルフィナは財布を返した。続いて自分の財布を開いて金貨を一枚取り出し、妹の手に
「姉からのお小遣いです。クィル、これでスィルとどこかで
「え、おねーちゃん、大丈夫?」
「あなたの姉は、あなたより少しはお金持ちですよ。……ありがとう」
「わ」
腕を引き寄せ、胸に抱いた妹の体をフィルフィナは軽く抱きしめた。涙が
「クィル、体に気をつけて。スィルとケンカをしないように。サフィーナの言いつけを守るのですよ」
「おねーちゃん……」
クィルクィナの髪を軽く
「おねーちゃん、大丈夫かな……。この街でしこたま
取りあえず、サフィーナお嬢様が戻ってきたらこのことを報告しなければ――そう頭の中で思いながらも、クィルクィナは去りゆく姉の姿が見えなくなるまで、その場から動けなかった。
◇ ◇ ◇
メイドでなくなったエルフの少女は、本当に風に吹かれるまま王都の街を歩いていた。頭の中には一分先の予定すらない。思考が働かない空っぽの体を風に流させ、通りで
王都の東部、住宅街が主になるいくつかの区域を歩く。四時間ほど歩きに歩き続け、太陽が真上に
今のフィルフィナと同じくフードを
人口密度が高い街の、密度の高い人通り。前が見えているのかも
このまま南に進み続ければ、やがて最南端の
それさえも意識の表層に浮かび上がることなく、フィルフィナは風の流れに乗って歩く。
そんな中、フィルフィナの灰色に
感覚のほとんどが死んでいるはずなのに、戦士としての最後の本能が
――誰か、
「はぁ…………」
フィルフィナは後ろを振り返ろうともしない。通りを行き交う人々のいくつものフードの姿はみな一様で一目で区別がつくものでもなく、その上気配の主は
ただ、同じ気配がずっと自分の後についてきているという確信はあった。
「このわたしを
数時間ぶりにフィルフィナは自分の判断で歩を進めた。適当な細く暗い路地を見つけ、自然な足取りで進路を変える。いかにも
角を曲がり通りがのぞけなくなった先は、案の定行き止まりだった。気配の主は――やはり少しの
「なんの用でしょう……
汚れた空き箱の上にフィルフィナは座り込んだ。
「面倒臭い……でも、その間は嫌なことを忘れていられるか……」
殺されない限り抵抗はするまい、とぼんやりと考え、曲がり角の向こうからこちらに近づいてくる気配を、フィルフィナは自分の靴を見つめながら待った。
気配の
フィルフィナは目を向けることもしなかった。全てのことが
「おい」
野太い声が頭の
「顔を見せな」
「…………」
フィルフィナは応えない。
鋭く
「――やっぱり、
フィルフィナの耳の先が、
「……ティーグレ?」
フィルフィナを完全に見下ろしている、特注であるだろう背広がはち切れんばかりの二メルト強の巨漢。
亜人街を裏で統率する暴力団の組長である虎獣人、ティーグレ。同時にかつてフィルフィナに命を救われ、今では彼女を心から
「背格好と
「…………」
フィルフィナは応えない。意思の薄さを思わせる弱々しい目の暗さに、ティーグレはしばらく言葉を探すようにして
「姐さん、なにか大変なことがあったんですな。これからどこか行く所はあるんですかい?」
またもフィルフィナは無言のままだった。だが、それでティーグレには伝わっていた。
「――わかりました、姐さん。なにも予定がないなら、俺に付き合ってください。お願いしやす」
虎の頭部が
ティーグレにどこに連れて行かれようが、かまわなかった。自分には行くべきところがないのだから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます